ベリーズカフェ15周年記念オリジナル短編『幸せのバタートースト』坂井志緒/著
「会食の帰りです。車を呼ぶ予定だったんですけど、断って電車を使ったんですよ。食べすぎたので、ちょっと歩きたくて」

「会食……」

「旅行会社と航空会社のお偉いさんに呼ばれて、断れず。まあ、半分仕事です」

 ズキリと胸が痛む。大きな会社の御曹司である彼には、私が欲しくてやまない人脈や影響力がある。羨ましさと悔しさが込み上げて、目の奥がツンとした。

「そうですか。それはお疲れ様でした。では」

 信号が青になった。ペコリと頭を下げ、早足で歩き出す。では、のあたりで声が震えたことに気づかれていませんように。ああ、また「失礼します」とは言えなかった。

「明菜さん、待って!」

 腕をぐいと引かれ、足を止める。なにするの、と睨んでしまいたい。でも、今は彼に顔を向けることができない。目から涙が溢れてしまっていることがバレてしまう。

「……離して」

「嫌です。そんな状態の明菜さんを放っておけるわけないでしょう」

 泣いているのはバレてしまったらしい。みっともなくて嫌になる。

「どうして?」

 同情? プレイボーイとしての矜持(きょうじ)

「決まってるじゃないですか。そこにつけ入りたいからです」

「……はぁ?」

 予想の斜め上をいく回答が返ってきて、涙が引っ込んだ。つけ入るってなに。

「せっかくこの時間に会えたんです。明菜さんを口説くチャンス、くれませんか」

「え……いや、なに言ってるかわからないんですけど」

「まあいいです。明菜さんがくれなくても、強引にもらいます」

 彼はそう言って私の手を取り、近くにいたタクシーに私を押し込むようにして乗り込んだ。

「シャトー・ジャルダンまでお願いします」

「え、ちょっと待――」

 待ってと言い終える前に、彼の整った顔がこちらに迫ってきて口を閉じた。

「シートベルト、しますね」

 器用にも私の左手を握ったまま、私のベルトの金具を下ろし、バックルに留める。

「はい……」

 プレイボーイ、恐るべし。すべての動作が手慣れている。

 間もなくタクシーが動き出した。私は彼の手管(てくだ)にまんまとドキドキさせられながら、視線を車窓に向けた。この状況があまりに照れくさくて、彼の方を見られない。

 繋がれた彼の手が、とても熱い。加えてテンポの速い脈を感じる。

 この熱と脈が自分のものなのか彼のものなのかは、定かではない。
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