一か月だけの契約妻のはずが、恋愛経験ゼロの私を社長が溺愛してきます

湊 視点

 社長室で書類に目を通しながら、必要な箇所にサインを入れていく。
 いつもなら、さほど時間のかからない仕事だ。
 けれど今日は、どうにも集中できない。
 目の前にはいつも通りの書類があり、手もいつも通り動いている。
 なのに、頭の片隅には別のことが居座っていた。
「…… はあ」
 無意識に、ため息が漏れた。
 ペンを置き、椅子の背に身体を預ける。
 昨夜のことが、また頭に浮かんだ。
 彩乃に、キスをした。
 あまりにも自然に、というより…… ほとんど勢いだった。
 あのとき、どうしてあんなに迷わなかったのか。
 今になって考えても、自分でも少し不思議だった。
 いつもの俺なら、もっと相手の反応を見て、距離を測って、どう動けば相手がどう感じるかまで考える。
 仕事でも、人間関係でも、それが染みついている。
 なのに、あの瞬間だけは違った。
 あのときの彩乃の顔が、今でもはっきりと浮かぶ。
 驚いて、大きく目を見開いて。
 何が起きたのかわからないというような顔。
「…… 早まったな」
 小さく呟いた。
 後悔しているわけじゃない。
 むしろ、あの瞬間、彩乃に触れたいと思った気持ちを抑えられなかったことに、後悔はなかった。
 あれをなかったことにしたいとは思わない。
 そう思ってしまう自分に、苦笑する。
 ただ―― 。
 彩乃にとっては、あれが初めてのキスだった。
 そのことを知ったのは、キスをしたあとだった。
 …… 俺は、何をしてるんだ。
 思わず額に手を当てる。
 彩乃は恋愛経験がない。
 そんなことは知っていたはずなのに、あの瞬間はそこまで考えが回らなかった。
 ただ、可愛くて。
 無性に、キスしたくなった。
 それだけだった。
 あのときの彩乃を思い出す。
 驚いて固まった顔。
 赤くなった頬。
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