氷の君に、恋の歌を。
連れてこられたのは、人気のない階段の踊り場だった。
屋上へ続くドアの前は静かで、さっきまでのざわめきが嘘みたいに遠い。

蓮斗は乃愛の手首を離すと、壁にもたれた。

「ごめん」

先に謝ったのは、彼のほうだった。

乃愛は目を丸くする。

「一宮くんが謝るの?」

「困るの、わかってなかった」

その声は相変わらず淡々としている。
でも、ちゃんと乃愛を気づかっているのが伝わった。

「……ううん。私のほうこそ、ごめんね。大きい声出しちゃって」

少しの沈黙。
春の風が窓の隙間から入りこんで、乃愛の髪を揺らす。

蓮斗が静かに口を開く。

「歌うの、嫌いなわけじゃないよな」

その問いに、乃愛の胸が痛んだ。

嫌いなはずがない。
大好きだった。
誰よりも、大切だった。

「嫌いじゃないよ」

答えた声は、自分でもわかるほど弱かった。

「じゃあ、何かあった?」

やさしい聞き方だった。
無理に踏みこまないくせに、逃がしてもくれない。

乃愛は視線を落とす。

「……昔、少しだけ有名なコンテストに出たことがあって」

「うん」

「そのとき、失敗したの。すごく。歌えなくなって、笑われて、動画まで広まって……それから、人前で声を出すのがこわくなった」

言い終えた途端、胸の奥に沈めていた苦しさが少しだけあふれた。
こんな話、誰にもしたくなかったのに。
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