ぽっちゃりでもいいですか ~私と御曹司のダイエット日記~
気がつけば出勤時間に迫っていたので慌ててコンビニを後にした。
午後、ゆうきくんのお迎えは実のお父さん、つまり篠崎さんのお兄さんだった。これまでに何回かお話したことがある。今日は向こうから声をかけられた。
「改めて篠崎悠矢と申します。この度は、弟と一緒になってくれるとのことで、ありがとうございます。急な話でびっくりしましたが交際ゼロ日婚って本当にあるんですね」
長身で端正な顔立ちでおだやかに微笑まれた。篠崎さんの兄弟らしくよく似ている。
「いえいえ。なんと言ったらいいか......こちらこそよろしくお願いします」
慌てて頭を下げる。なるほど交際ゼロ日婚姻、確かにそうとも言える。
「私がニューヨークに転勤になるんで、ゆうきの世話が心配だったんですが、芙美先生が一緒だったらすごい安心です。いつも芙美先生の話をゆうきから聞いてたんですよ」
「そ、そうですか......お力になれればいいんですが、一生懸命お世話させてもらいます。でも、ゆうきくんと離れ離れは寂しいですね」
悠矢さんは、眉毛をはの字にして笑った。
「いつも一緒なのが当たり前だったので。ゆうきより自分の方がゆうきロスになるんじゃないかって心配です。あの、これ一応、持ってきました。先生の方がゆうきのこと、よく知ってるかもしれませんが。もともとはベビーシッターさん向けに作ってたんです」
そう言って小さなメモ帳を渡された。中を見ると、ゆうきくんの好きな食べ物、苦手な食べ物、アレルギーの有無、お気に入りの服装などなど細かく書いてある。
「わあ、すごい。幼稚園だけでは足りない情報もあったので、すごく助かります」
悠矢さんこそお仕事が大変な中、これを作ったんだろう。ゆうきくんをいかに大切にしているか、しっかり伝わってくる。
「芙美先生、ばいばーい」
あまり長話しても他の保育士に不審に思われるのでひとまずゆうきくんと悠矢さんとお別れした。
さて、これからが今日のメインイベントだ。
家に帰宅して、しばらくすると篠崎さんが車で到着した。応接間に案内すると義母と美晴がかしこまって待ち構えていた。私の結婚相手なんて大した事ないと踏んでいるくせに、好奇心に勝てなかったというところか。
「はじめまして。篠崎誠と申します。食品メーカー『オレンジスマイル』の代表取締役をしています。今日は町田さんのお嬢さんとの結婚のお許しいただきたく伺いました」
落ち着いた余裕のある物腰。そして何より破壊度百二十パーセントの美貌。まさかこんな綺麗な人が来ると思っていなかったであろう義母と美晴は、ひきつった顔をしていた。
この顔のことも今日の日記に...と、日記と言えば。私はこの十年つけていた日記帳をこの場に持ってくるよう昨日の電話で篠崎さんに言われていた。何に使うんだろう。
「ま、まあうちの芙美なんかを気に入ってくださってありがたい事ですわ」
ひきつりながらも義母が猫をかぶった声で言う。
「でも、結婚を許すつもりもないんですよ。まだこの子は世間知らず。これから花嫁修行をしてやっと一人前になるでしょうから、この結婚は早過ぎるんじゃないかと」
私が幸せになるのをとことん邪魔したい義母は、そんなことを言い出した。やっぱりそうきたか。簡単に結婚を承諾するとは思ってなかたけど。
「それは困りましたね......とでも言うと思ったか」
篠崎さんの声がぐっと低くなった。
「自分の娘に大量の食事を強要するなんて、立派な虐待だ。そんなことが十年も続けられたんだ。町田さん、あなた自分の娘の気持ちを考えたことはないんだろう。それとも継子にはひどい事をしてもいい、というこの家特有のルールがあるのかな?」
義母の顔はさらに引きつった。
「食事を強要?なんのことかしら。私は芙美のためを思って食べさせただけですよ」
「ぬけぬけと。そうやって逃げ切るだろうと思って今日は証拠を用意した」
「証拠だなんて」
義母はまだ自分に勝ち目があると思っているのか口許に笑みをはりつけている。
「芙美さん、昨日言っていたあれを」
「は、はい」
私は足元にあった紙袋から十年分の日記帳十冊を取り出してテーブルの上に置いた。
「ここに芙美さんが大量の食事を強要された記録がある。あなた方がシラを切るんなら、法廷で戦いましょう。その時に、この日記は大いに役立つでしょうね。何しろ、十年分の虐待の記録だからな」
「なっ......!」
義母は思いがけない展開だったらしく、言葉を詰まらせた。
「そ、そんなもの......そんな...」
段々、義母の声が弱々しくなっていく。
「あんたたちの承諾はいらない。芙美さんはもう成人した女性だ。週末、彼女は自分の意志でこの家を出て行く。その際、妨害や嫌がらせをしたら......」
ぽん、と篠崎さんは十冊の日記帳を叩いた。
「もうおわかりでしょうね?」
「結婚でも何でもすればいいわ」
そう吐き捨てると義母は立ち上がって応接間を出て行った。美晴も私をひと睨みした後、義母について行く。
途端に応接間がしんとなった。
日記を持ってきて、とはこういう事だったのか。
「篠崎さん、ドキドキしました」
「どうした?俺があんまり恰好よかった?」
「篠崎さんはいつも恰好いいですけど......そうじゃなくて。この日記が証拠になるなんて考えたこともなかったので」
「そうだったのか。まあ、結果オーライだな。とりあえず邪魔はされずに家を出られるだろう。どう、荷物はまとまりそう?」
「はい。持ち物は少ないので土曜日の朝にはそちらに行けます」
言いながら、ほんとに契約結婚生活が始まるんだな、と身が引き締まった。
篠崎さんが満足そうに楽しみだな、と呟いた。
土曜の早朝、家の前に篠崎さんが車で来てくれて、私の荷物段ボール二箱を積んでもらった。私の衣類と小物はスーツケースひとつに十分収まった。義母も美晴もまだ寝ている。顔を合わさないですんでさっぱりしたものだ。
篠崎さんの住む高層マンションは想像通り広い部屋だった。男性の部屋なので無機質な感じを想像していたけれど、篠崎さんの部屋は基本的にウッディだった。木目調の家具が多く、柔らかい印象。居心地よく、寛げそうな部屋だ。
私の部屋にはベッドと小さなテーブルと棚があった。クローゼットに持ってきた服をかけて、小物類を棚に並べるともう引っ越し作業は終わってしまった。
「どうかな、片付いた?」
篠崎さんが開いたドアをノックして訊いてきた。
「はい。もう大丈夫です」
篠崎さんが私の部屋の中を見て、なにか思い当たった顔をした。なんだろう。
「じゃあ、外にランチに行こう。引っ越し祝いだ」
そう言って私に外出の用意をさせると、ベトナム料理の店に連れて行ってくれた。私はエビ春巻きと野菜のたっぷり入ったフォーにした。
「それだけでいいの?遠慮しなくていいぞ」
「いえ。これだけで」
そう言いながら自然と口角があがってしまう。私は声を出してふふっと笑った。
「どうした?」
篠崎さんが不思議そうな顔で私を見た。
「これからは、もう無理に食べなくていいんだなって……嬉しくて」
篠崎さんは目を細めた。
「うん。呪縛は解けた。好きなように食べたらいい」
午後、ゆうきくんのお迎えは実のお父さん、つまり篠崎さんのお兄さんだった。これまでに何回かお話したことがある。今日は向こうから声をかけられた。
「改めて篠崎悠矢と申します。この度は、弟と一緒になってくれるとのことで、ありがとうございます。急な話でびっくりしましたが交際ゼロ日婚って本当にあるんですね」
長身で端正な顔立ちでおだやかに微笑まれた。篠崎さんの兄弟らしくよく似ている。
「いえいえ。なんと言ったらいいか......こちらこそよろしくお願いします」
慌てて頭を下げる。なるほど交際ゼロ日婚姻、確かにそうとも言える。
「私がニューヨークに転勤になるんで、ゆうきの世話が心配だったんですが、芙美先生が一緒だったらすごい安心です。いつも芙美先生の話をゆうきから聞いてたんですよ」
「そ、そうですか......お力になれればいいんですが、一生懸命お世話させてもらいます。でも、ゆうきくんと離れ離れは寂しいですね」
悠矢さんは、眉毛をはの字にして笑った。
「いつも一緒なのが当たり前だったので。ゆうきより自分の方がゆうきロスになるんじゃないかって心配です。あの、これ一応、持ってきました。先生の方がゆうきのこと、よく知ってるかもしれませんが。もともとはベビーシッターさん向けに作ってたんです」
そう言って小さなメモ帳を渡された。中を見ると、ゆうきくんの好きな食べ物、苦手な食べ物、アレルギーの有無、お気に入りの服装などなど細かく書いてある。
「わあ、すごい。幼稚園だけでは足りない情報もあったので、すごく助かります」
悠矢さんこそお仕事が大変な中、これを作ったんだろう。ゆうきくんをいかに大切にしているか、しっかり伝わってくる。
「芙美先生、ばいばーい」
あまり長話しても他の保育士に不審に思われるのでひとまずゆうきくんと悠矢さんとお別れした。
さて、これからが今日のメインイベントだ。
家に帰宅して、しばらくすると篠崎さんが車で到着した。応接間に案内すると義母と美晴がかしこまって待ち構えていた。私の結婚相手なんて大した事ないと踏んでいるくせに、好奇心に勝てなかったというところか。
「はじめまして。篠崎誠と申します。食品メーカー『オレンジスマイル』の代表取締役をしています。今日は町田さんのお嬢さんとの結婚のお許しいただきたく伺いました」
落ち着いた余裕のある物腰。そして何より破壊度百二十パーセントの美貌。まさかこんな綺麗な人が来ると思っていなかったであろう義母と美晴は、ひきつった顔をしていた。
この顔のことも今日の日記に...と、日記と言えば。私はこの十年つけていた日記帳をこの場に持ってくるよう昨日の電話で篠崎さんに言われていた。何に使うんだろう。
「ま、まあうちの芙美なんかを気に入ってくださってありがたい事ですわ」
ひきつりながらも義母が猫をかぶった声で言う。
「でも、結婚を許すつもりもないんですよ。まだこの子は世間知らず。これから花嫁修行をしてやっと一人前になるでしょうから、この結婚は早過ぎるんじゃないかと」
私が幸せになるのをとことん邪魔したい義母は、そんなことを言い出した。やっぱりそうきたか。簡単に結婚を承諾するとは思ってなかたけど。
「それは困りましたね......とでも言うと思ったか」
篠崎さんの声がぐっと低くなった。
「自分の娘に大量の食事を強要するなんて、立派な虐待だ。そんなことが十年も続けられたんだ。町田さん、あなた自分の娘の気持ちを考えたことはないんだろう。それとも継子にはひどい事をしてもいい、というこの家特有のルールがあるのかな?」
義母の顔はさらに引きつった。
「食事を強要?なんのことかしら。私は芙美のためを思って食べさせただけですよ」
「ぬけぬけと。そうやって逃げ切るだろうと思って今日は証拠を用意した」
「証拠だなんて」
義母はまだ自分に勝ち目があると思っているのか口許に笑みをはりつけている。
「芙美さん、昨日言っていたあれを」
「は、はい」
私は足元にあった紙袋から十年分の日記帳十冊を取り出してテーブルの上に置いた。
「ここに芙美さんが大量の食事を強要された記録がある。あなた方がシラを切るんなら、法廷で戦いましょう。その時に、この日記は大いに役立つでしょうね。何しろ、十年分の虐待の記録だからな」
「なっ......!」
義母は思いがけない展開だったらしく、言葉を詰まらせた。
「そ、そんなもの......そんな...」
段々、義母の声が弱々しくなっていく。
「あんたたちの承諾はいらない。芙美さんはもう成人した女性だ。週末、彼女は自分の意志でこの家を出て行く。その際、妨害や嫌がらせをしたら......」
ぽん、と篠崎さんは十冊の日記帳を叩いた。
「もうおわかりでしょうね?」
「結婚でも何でもすればいいわ」
そう吐き捨てると義母は立ち上がって応接間を出て行った。美晴も私をひと睨みした後、義母について行く。
途端に応接間がしんとなった。
日記を持ってきて、とはこういう事だったのか。
「篠崎さん、ドキドキしました」
「どうした?俺があんまり恰好よかった?」
「篠崎さんはいつも恰好いいですけど......そうじゃなくて。この日記が証拠になるなんて考えたこともなかったので」
「そうだったのか。まあ、結果オーライだな。とりあえず邪魔はされずに家を出られるだろう。どう、荷物はまとまりそう?」
「はい。持ち物は少ないので土曜日の朝にはそちらに行けます」
言いながら、ほんとに契約結婚生活が始まるんだな、と身が引き締まった。
篠崎さんが満足そうに楽しみだな、と呟いた。
土曜の早朝、家の前に篠崎さんが車で来てくれて、私の荷物段ボール二箱を積んでもらった。私の衣類と小物はスーツケースひとつに十分収まった。義母も美晴もまだ寝ている。顔を合わさないですんでさっぱりしたものだ。
篠崎さんの住む高層マンションは想像通り広い部屋だった。男性の部屋なので無機質な感じを想像していたけれど、篠崎さんの部屋は基本的にウッディだった。木目調の家具が多く、柔らかい印象。居心地よく、寛げそうな部屋だ。
私の部屋にはベッドと小さなテーブルと棚があった。クローゼットに持ってきた服をかけて、小物類を棚に並べるともう引っ越し作業は終わってしまった。
「どうかな、片付いた?」
篠崎さんが開いたドアをノックして訊いてきた。
「はい。もう大丈夫です」
篠崎さんが私の部屋の中を見て、なにか思い当たった顔をした。なんだろう。
「じゃあ、外にランチに行こう。引っ越し祝いだ」
そう言って私に外出の用意をさせると、ベトナム料理の店に連れて行ってくれた。私はエビ春巻きと野菜のたっぷり入ったフォーにした。
「それだけでいいの?遠慮しなくていいぞ」
「いえ。これだけで」
そう言いながら自然と口角があがってしまう。私は声を出してふふっと笑った。
「どうした?」
篠崎さんが不思議そうな顔で私を見た。
「これからは、もう無理に食べなくていいんだなって……嬉しくて」
篠崎さんは目を細めた。
「うん。呪縛は解けた。好きなように食べたらいい」