ぽっちゃりでもいいですか ~私と御曹司のダイエット日記~
 どうしようもなくひどい仕打ちに思えた。
「町田さん家を出てうちに来ないか」
 考えるより先にそう言ってしまっていた。彼女を今の環境に置いていたら遠からず病気になる。なによりもこのひどい環境から救ってやりたかった。
 町田さんは控え目で大人しいタイプだ。いきなり、はいわかりました、とはならないだろう。そこで契約結婚を持ち出した。
 堂々と俺といられる環境を作れる。彼女はそれでは俺にメリットはなにもない、と言ってきた。俺は町田さんと過ごせるだけで大きなメリットがあるのだが、それを言うのは性急すぎるだろう。
 ベビーシッターと強い連携を取らなくては、と思っていたゆうきのことを思い出した。
「当分、俺はゆうきを預かるんだ。その時の世話を君に頼みたい。どんなベビーシッターが来るか気をもむくらいなら、君に任せる方が百二十パーセント安心だ」
彼女はしばし考え込んだが、この倉庫にいる間に決断しなければ、と思ったようだった。
 契約結婚を了承した。気が変わらない内にさっと彼女の家族にも挨拶に行った。想像通り常識の通用しない相手だったが、芙美さんが家を出ることを邪魔しないよう釘を刺した。もちろん、少し脅しておいた。彼女の心理的な虐待を考えれば罰として軽いくらいだ。
 その週の土曜日。彼女はうちへと引っ越してきた。クローゼットの中が寂しかったので、ブティックで服を買ってやると泣きそうなほど喜んでいた。
 こんな事でいいならいくらでもやってやる。彼女を喜ばせた実感を得て少し得意になっていた時だった。
 彼女はマネキンの着たワンピースに釘付けになり、俺に向かってはっきり言った。
「篠崎さん......私、痩せます」
 思いつめた表情だった。今のままで十分かわいらしいが、彼女の決意が固いのが表情でわかった。彼女の中にこんな熱いところがあったのかと圧倒された。凝縮されたものがぱっと花開いた、と言うか......俺はなにか引き込まれるものを感じ、気が付けば彼女の唇を奪っていた。と言ってもかするくらいの軽いキスだ。
 彼女は驚いて頬を赤くしていた。俺が応援する、と言ったので言葉を詰まらせながら「よろしくお願いします」と囁いた。
 芙美さんとの暮らしが始まった。彼女はてきぱきと家事を遂行した。褒めると
「家政婦さんの見よう見まねです」
 と微笑んだ。これなら安心して家のことは任せられる。明後日の月曜からはゆうきも一緒に生活を始める。きっと芙美さんならうまくやってくれるだろう......そう思っていた矢先の日曜の夜、ちょっとした事件があった。
 芙美さんの作ってくれた朝食も昼食も美味しかったので夕食も楽しみにしていた。
「夕ご飯は、ちょっと豪華にしてみました」
 俺を喜ばせようとしてくれてる、と嬉しくなったのだが。
 ありがとう、と言う前に俺は固まってしまった。
 テーブルの上はこれから立食パーティーが行われるんじゃ、というくらい品数が多くそれぞれの量も多かった。
「ええと...これを俺と芙美さんで食べる、のかな?」
 俺の動揺に芙美さんは目を見開いた。
「あっ...多すぎましたか?」
「いや、がんばって作ってくれたんだろう。嬉しいよ。でも、こんなにはいらない、かな」
 彼女を傷つけずにやんわり言ったつもりだ。
「ご、ごめんなさい。私、男の人がどれくらい食べるのわからなくて。父は小食なので、普通の一般男性だったらしっかり食べるのはこれくらいかと。片づけます!」
 そうか。実家で大量の食事を食べさせられていたからほどよい量がわからないわけだ。しかも女ばっかりの暮らしだったわけで。
「いや。ちょっとずつ食べて残ったら明日の朝ご飯に回そう。どれも美味しそうだ」
 俺は経済的に恵まれて育ったが、食事を捨てたりすることには抵抗がある。自分で食事を作ったときも残りはタッパーに詰めて翌日に食べるのは普通のことだ。食料品を扱う今の仕事を始めてから特にそうなった。食べ物は普段から大切に扱いたいのだ。
 ふたりで向き合って食事を始めた。朝食も昼食も美味かったので期待していたが、これはなかなか本格的だ。家で食事するのが毎日楽しくなりそうだ。
 食事の後片付けも進んでやってくれる。大量の洗い物が出るので手伝おうと言ったのだが。
「実家でもやってたし、食器洗うの好きなんです。一日の家事の終わりにまるをつける感じがして」
「まる?」
「句読点の、まるです」
「ああ、なるほど。でも最初から飛ばしすぎだ。これからはゆうきの事もあるからほどほどに。俺を頼ってくれて構わないから」
 言いながら、自分は仕事で家を空けがちなことを思い出す。これでは俺の母親と一緒だ。
 苦い顔になっていたのか、芙美さんが笑いかけてくれた。
「いえ。篠崎さんはしっかりお仕事なさってください。そのためにここに来たんですから。どーんと任せてください」
 控え目な彼女が言う頼もしい台詞にじんときた。思わずふわふわした頬にキスしてしまった。
 また火をつけたように芙美さんは真っ赤になった。
「こ、これにはなかなか慣れませんね」
 目を白黒させて言う。俺の奥さんはかなりかわいいと誰かに自慢したくなった。


◇◇◇

 月曜日。今朝、出勤前に篠崎さんのマンションに悠矢さんとゆうき君がやってきた。ゆうきくんの着替えやおもちゃが入った段ボール箱持参で。
「ほんとに芙美先生がいる!」
 ゆうきくんは事前に知らされていたとは言え、本当に私がいるとわかって驚いたようだ。
「おはよう。ゆうきくん。これからはこのおうちでもよろしくね」
「わーい。じゃあどんぐりにも一緒に行けるの?」
「行けるよ。ゆうきくんの好きなお歌をうたっていこうか」
「うん!」
 ゆうきくんが嬉しそうにしているのでこっちも嬉しくなってしまう。
「すげえ。俺と一緒に行こうって言ってもすねるのに」
「俺も。おうちで遊ぶって何度言われたことか......芙美先生パワーすごいな」
 男性陣が感心してくれて、少々照れくさい。ゆうきくんと私の相性がなかなかいいのだろう。どんぐり園でも一緒に遊べる子もいればつれない子もいるものだ。
 悠矢さんはタクシーで成田へ行き、ニューヨークの便に乗る。ゆうきくんはお父さんと三か月くらいのお別れとなる。悠矢さんがゆうきくんの目線にかがみ、言った。
「ゆうき、誠おじさんと芙美先生の言うこと、よく聞くんだよ」
 ゆうきくんはぎゅっと唇をかみしめてこくり、とうなずいた。きっと泣きたいのをこらえている。
「帰ってくるよね」
 ぽつりと言った。幼いながらもゆうきくんはお母さんが帰ってこなくなったことを経験している。病気で亡くなったのだ。
 いろんな寂しい思いが胸の内にうずまいていたと思うのだが泣いたりワガママになったりしていない。心の中で葛藤と戦っているのだ。
「帰ってくるよ。心配すんな」
「そうだぞ。おじさんと楽しくやろうぜ」
 悠矢さんと篠崎さんがにっ、と笑って言った。
「うん!」
 なんだかゆうきくんの健気さに胸が熱くなった。こんな小さな子なのに、いろんなことを抱えているのだ。
 悠矢さんをタクシーまで見送り、私と篠崎さんふたりと手をつないでゆうやくんとどんぐり園へ向かった。
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