ぽっちゃりでもいいですか ~私と御曹司のダイエット日記~
 父は五年ほど前からこの神奈川の家に単身で引っ越した。こっちの方がいろいろ扱っている物件があるから好都合なのだ、と言って。
 それまでも月に二度くらい父と家で顔を合わせればいい方だったので、父の引っ越しを不自然とは思わなかった。
 私があまり好きでない従弟は伯父さん、神奈川に彼女がいるんじゃないの?と私に耳打ちしたが、そんな心配は全くしなかった。
 父と私は母が入院している間、二人だけでとても濃い時間を一緒に過ごしていた。なので父が浮気や不倫をするような男性ではないと直感的に思っていた。
 だから今では義母である富江さんと再婚することになったときは驚きはした。でも母が生きている間は男女の関係じゃなかったのは傍から見てもわかった。
 父はそれくらい母を愛していた。私はその証人になれる。
 富江さんと再婚した後、家を空けがちになったのは、母を看取り足枷が無くなって思い切り仕事に打ち込んでいるのだろうと理解していた。
 父さんの寝室の隣りに空き部屋があるから使いなさい、と言われたことを思い出す。スーツケースをその部屋に運んだ。使われてない部屋の匂いがしたけれど、押し入れには清潔な布団があって気持ちも落ち着いた。
 荷物の整理が終わるとどうしても誠さんのことを考えてしまう。
 もう日本に帰っているはずだ。私の置手紙を見てどう思っただろう。
 心配、してくれるだろうか。
 自分がリバウンドしたせいなのに、何、自分の都合のいいこと考えてんの、と自分をどやしたくなる。でもそもそもは誠さんのユリさん事件のせいで、とまたぐるぐる考えてしまいそうになる。
 とにかく今夜は父の厚意の鰻とかにならなくてよかった。この身体でうな重なんて食べたらまた太ってしまう。鰻は低カロリー高たんぱくの素晴らしい食材だけどリバウンドした身体には全て毒のような気がしてくる。
 キッチンに行って冷蔵庫を開ける。ほどよく食材が揃っている。今夜は冷蔵庫にある野菜をサラダにして食べよう。
 そう思ったら気が抜けてソファに身体を預けた。

「芙美?こんなところで寝てたら風邪をひくぞ」
「誠さん、大丈夫」
 寝ぼけて返事をして、はっと我に返った。ここ......父の家だ!
「ご、ごめんお父さん、寝ぼけたの」
 仕事から帰ってきたらしい父がスーツを脱ぎながら笑った。
「まあ、うたた寝できるくらいリラックスできたならよかった。メシは?食べたのか」
「うん。冷蔵庫のもの、いただいたよ」
 野菜サラダを食べてほっとしたのだ。こんな風に野菜をきちんと食べていれば、また痩せるかもしれない、と。お菓子を三箱も食べてしまったときはそんなふうに思えなかった。取り返しのできないことをしてしまった気がして、真っ青になっていた。
 また明日から野菜スープを食べればいいんだ。
 そうだ、真下さんに会う約束が今週末にある。今の内にメールで行けなくなったと伝えておかなくちゃ。私はスマホを取り出した。あっ、と声をあげる。
 ......充電が切れてる!そして私は最大のミスを発見した。スマホの充電器を誠さんの部屋に忘れてきてしまったのだ。
 これじゃあ、連絡取れない......。
 と、考えて待てよ、と思う。これって好都合なんじゃないだろうか。きっと置手紙を見た誠さんからは連絡が入る。私は誠さんに嘘をつく自信がないのですぐに居場所を見破られそうだ。
 今、私が回避したいのは太ってしまった私を見られること。
 その一点はどうしても揺るがない。
 太った私を見た瞬間に誠さんの顔を想像するだけで、もう何もかも投げ出したくなるのだ。実際投げ出してきて、父の家にいるわけだし。
 スマホは......もうちょっとこのままにしておこう。デジタルデトックスだ。そうスマホから離れるのは現代人の課題となにかで読んだこともあるし。うん、これでいい。真下さんには父のパソコンから連絡を入れておこう。
 自分内で納得していると、父がちょっと飲まないか、と誘ってきた。
「お父さん、糖質ゼロのビールとか飲んでるの」
「家政婦さんが有能なんだよ。おかげでメタボ体型にならずにすんでる」
 糖質ゼロならセーフかな、と私は二個のグラスにビールを注いだ。
 リビングのダイニングテーブルに向かい合って座る。
 それから父といろんな話をした。父が実家に帰ってくると、富江さんが我先にと話すので十分に話せていないことが多かった。
 幼稚園で私がどんな仕事をしているか、どんな園児がいて、どんな遊び方が流行っているか、そんな話をしたら父は嬉しそうだった。気分が高揚したのか父はここ数年の成功譚を聞かせてくれたりして、楽しかった。
 誠さんともこんな楽しい夜を何回も過ごしたな、と胸がちくりとしたけれど。
「そうだ、芙美。お前もお年頃だろう。結婚相手なんかはいないのか」
 どきりとした。お父さん、あなたの娘は御曹司とはいえ、契約結婚をして、同棲の真似事をしていました。なんて、とても言えない。
 でも父のじっと見つめる眼差しを見ていると嘘もつけなくて。
「す、好きな人ならいる」
「そうかあ」
 父は破顔した。
「あの小さかった芙美が恋なんてしてるんだな。当たり前だよな。もう二十六だもんなあ」
 父はしみじみと言って、それから唇をきゅっと結んで私を見据えた。
「芙美が正直に答えてくれたから、お父さんも本当のことを言う。俺と富江は別居中だ。単身赴任というより......離婚を考えて、そうしている」
「えっ」
 目を見開いた。そんなことになっていたなんて。確かに実家に父が戻ると富江さんが一方的にしゃべっているな、とは思っていた。まさか父にそんな気持ちがあったなんて。
「実際に離婚しようと何度も思ったんだが、芙美、お前が結婚するときに、親が離婚していたらなにかと不利になるんじゃないかと思ってな。お前が結婚して町田の家を出たら、正式に離婚するつもりでいたんだ」
「富江さんと......うまくいっていなかったの?」
 おそるおそる訊く。これまで踏み込んだことのなかった親の気持ちを知るのは少し怖い気がした。
「ああ。なあ、芙美。俺は間違っていたよ。自分の心っていうのは思っている以上に動かしたり変えたりできないんだなあ。母さんが亡くなって、ずっと俺のことを慕っていてくくれた富江と再婚したわけだが......最初はきっと俺が富江に絆されるだろうと踏んでたんだ。こんなに甲斐甲斐しくやってくれるなら好きにもなれるだろう、と。
 ところが心ってのは意外と頑固でな。こんな時だったら母さん、章子はこうは言わないな、章子だったらもっとこう言うだろうな、と富江と章子のことをつい比べてしまうんだ。
 それで...しまいには、富江のことを章子と、間違えて呼んだりしてな」
「あっ......それは、やっちゃいけないやつだね」
 恋愛経験の少ない私でもわかる。好きな人が自分のことを自分以外の名前で呼んだなら。
 ものすごく、悲しい。
「富江はヒステリックになっていって、しまいには芙美、お前が憎たらしいと言っていた。章子とそっくりで胸が悪くなる、と言ってな。俺はカッとなって、富江を叩こうとした。
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