ゆびきりげんまん
高校を卒業して。
あたしは働き始めた。
初めてのお給料。
初めての名刺。
初めての残業。
初めての――。
「もう辞めたい」
駅前のベンチで、あたしは死んでいた。
「早すぎるやろ」
隣から声がする。
「だって疲れた」
「世の中の社会人に謝れ」
「颯真兄ちゃんは最初から平気だったの?」
「んなわけあるか」
「え?」
顔を上げる。
颯真兄ちゃんは缶コーヒーを飲みながら、前を見ていた。
「俺かて最初は失敗したし、怒られたし、辞めたい思ったこともある」
「……ほんと?」
「あるわ」
意外だった。
颯真兄ちゃんは。
なんでもできると思ってた。
小さい頃からずっと。
転んだら起こしてくれて。
迷ったら道を教えてくれて。
困ったら助けてくれて。
あたしにとっては。
ずっと。
なんでもできる人だったから。
「颯真兄ちゃんでも失敗するんだ」
「するわ。俺をなんやと思っとんねん」
「スーパーマン」
「警察官や」
「知ってる」
「ほな言うな」
少し笑った。
さっきまで重かった身体が、ほんの少し軽くなる。
「……今日ね」
「ん?」
「先輩に怒られた」
「何した」
「電話」
「ああ」
「会社名噛んだ」
「ふっ」
「笑った!」
「すまん」
「しかも、お客さんの名前聞き取れなくて三回聞いた」
「最初はそんなもんやろ」
「あとコピー失敗した」
「おう」
「コーヒーこぼした」
「それは知らん」
「パソコン固まった」
「それも知らん」
「帰りたくなった」
「帰ってきたやん」
「そういう意味じゃない!」
颯真兄ちゃんが笑う。
「まあ、明日も行け」
「やだ」
「行け」
「やだぁ」
「行け」
「颯真兄ちゃんが一緒に来て」
「なんで俺が会社までついて行くねん」
「玄関まで」
「小学生か」
「じゃあ最寄り駅まで」
「一人で行け」
「冷たい!」
「自分で決めた仕事やろ」
その言葉に。
口が止まった。
そうだった。
自分で決めた。
誰かに言われたんじゃない。
あたしが選んだ。
「……うん」
「しんどかったら愚痴くらい聞いたる」
「ほんと?」
「それくらいならな」
「毎日?」
「多いわ」
「週五」
「仕事と同じやないか」
「じゃあ週三」
「勝手に決めんな」
また笑った。
「……明日も行く」
「おう」
「明後日も」
「おう」
「一年は頑張る」
「まず一週間にしとけ」
「そこは応援してよ!」
「無理して先のこと決めんでええねん」
そう言って。
颯真兄ちゃんの手が上がった。
いつもの。
頭ぽんぽん。
そう思って。
少しだけ頭を傾けた。
でも。
手は。
あたしの頭に触れる直前で止まった。
「…………?」
そのまま行き先を変えて。
あたしの肩を。
ぽん。
「頑張れ」
「…………」
「なんや」
「……別に」
また。
この前と同じ。
頭。
撫でなくなった。
どうして?
嫌なのかな。
十八歳にもなって頭を撫でられたがるあたしが、子供っぽいから?
それとも。
もう。
昔みたいに可愛くないから?
「颯真兄ちゃん」
「ん?」
「あたし、変わった?」
「そら変わるやろ」
「そうじゃなくて」
「何が」
「あたしのこと……嫌いになった?」
颯真兄ちゃんが眉を寄せた。
「なんでそうなんねん」
「だって最近」
言おうとして。
やめた。
頭を撫でてくれなくなったから。
そんなこと言ったら。
それこそ子供みたいだ。
「……なんでもない」
「変な奴やな」
「うん」
立ち上がる。
「帰るね」
「送るわ」
「大丈夫。一人で帰れる」
「暗いやろ」
「でも」
「ほら」
颯真兄ちゃんも立ち上がった。
結局。
家まで送ってもらった。
並んで歩く。
昔は。
当たり前みたいに手を繋いでた。
いつから繋がなくなったんだろう。
思い出せない。
少し前を歩く颯真兄ちゃんの手を見る。
大きな手。
四歳のあたしが。
ぎゅっと握っていた手。
「…………」
そっと。
自分の手を伸ばしてみる。
あと少し。
もう少し。
指先が届きそうになって――。
引っ込めた。
十八歳。
子供じゃない。
だから。
もう。
昔みたいにはできない。
そう思っていた。
変わってしまったのは。
あたしだけだと思っていた。
それから二年。
あたしは仕事を辞めなかった。
失敗もした。
怒られもした。
泣いた日もあった。
それでも。
ちゃんと毎朝起きて。
ちゃんと会社へ行って。
ちゃんと自分で稼いだ。
そして。
二十歳の誕生日。
「颯真兄ちゃん!」
「おう」
「見て!」
「何を」
「二十歳!」
「見てもわからん」
「成人!」
「おめでとう」
「ということで!」
「嫌な予感すんなぁ」
あたしは鞄から、一枚の紙を取り出した。
颯真兄ちゃんの前で。
ばっ。
と広げる。
「じゃーん!」
「…………なんやこれ」
「大人認定書」
「…………」
「自作!」
「帰れ」
「まだ何もしてない!」
紙には大きな文字で。
『祝・すず、大人になりました』
その下には。
『よって朝倉颯真は、すずを一人の女性として扱うこと』
「ここ!」
指差す。
「署名してください!」
「するか!」
「二十歳だよ!」
「知っとる!」
「お酒も飲める!」
「せやな」
「選挙も行った!」
「偉い」
「税金も払ってる!」
「みんな払っとる」
「だから!」
紙を颯真兄ちゃんの胸に押しつけた。
「あたし、もう子供じゃない!」
「…………」
「あと二年だよ」
颯真兄ちゃんの顔から。
笑いが消えた。
「約束の二十二歳まで」
「……まだ覚えとったんか」
「当たり前じゃん」
忘れた日なんて。
一日もない。
「ねえ」
一歩。
近づく。
昔なら。
何も考えずにできた距離。
だけど今は。
あたしの心臓が。
うるさい。
「颯真兄ちゃん」
「……なんや」
「二十歳のあたしは」
見上げる。
逃げないで。
ちゃんと。
あたしを見て。
「まだ、妹にしか見えない?」
「…………」
今度は。
『当たり前や』
とは。
言わなかった。
あたしは働き始めた。
初めてのお給料。
初めての名刺。
初めての残業。
初めての――。
「もう辞めたい」
駅前のベンチで、あたしは死んでいた。
「早すぎるやろ」
隣から声がする。
「だって疲れた」
「世の中の社会人に謝れ」
「颯真兄ちゃんは最初から平気だったの?」
「んなわけあるか」
「え?」
顔を上げる。
颯真兄ちゃんは缶コーヒーを飲みながら、前を見ていた。
「俺かて最初は失敗したし、怒られたし、辞めたい思ったこともある」
「……ほんと?」
「あるわ」
意外だった。
颯真兄ちゃんは。
なんでもできると思ってた。
小さい頃からずっと。
転んだら起こしてくれて。
迷ったら道を教えてくれて。
困ったら助けてくれて。
あたしにとっては。
ずっと。
なんでもできる人だったから。
「颯真兄ちゃんでも失敗するんだ」
「するわ。俺をなんやと思っとんねん」
「スーパーマン」
「警察官や」
「知ってる」
「ほな言うな」
少し笑った。
さっきまで重かった身体が、ほんの少し軽くなる。
「……今日ね」
「ん?」
「先輩に怒られた」
「何した」
「電話」
「ああ」
「会社名噛んだ」
「ふっ」
「笑った!」
「すまん」
「しかも、お客さんの名前聞き取れなくて三回聞いた」
「最初はそんなもんやろ」
「あとコピー失敗した」
「おう」
「コーヒーこぼした」
「それは知らん」
「パソコン固まった」
「それも知らん」
「帰りたくなった」
「帰ってきたやん」
「そういう意味じゃない!」
颯真兄ちゃんが笑う。
「まあ、明日も行け」
「やだ」
「行け」
「やだぁ」
「行け」
「颯真兄ちゃんが一緒に来て」
「なんで俺が会社までついて行くねん」
「玄関まで」
「小学生か」
「じゃあ最寄り駅まで」
「一人で行け」
「冷たい!」
「自分で決めた仕事やろ」
その言葉に。
口が止まった。
そうだった。
自分で決めた。
誰かに言われたんじゃない。
あたしが選んだ。
「……うん」
「しんどかったら愚痴くらい聞いたる」
「ほんと?」
「それくらいならな」
「毎日?」
「多いわ」
「週五」
「仕事と同じやないか」
「じゃあ週三」
「勝手に決めんな」
また笑った。
「……明日も行く」
「おう」
「明後日も」
「おう」
「一年は頑張る」
「まず一週間にしとけ」
「そこは応援してよ!」
「無理して先のこと決めんでええねん」
そう言って。
颯真兄ちゃんの手が上がった。
いつもの。
頭ぽんぽん。
そう思って。
少しだけ頭を傾けた。
でも。
手は。
あたしの頭に触れる直前で止まった。
「…………?」
そのまま行き先を変えて。
あたしの肩を。
ぽん。
「頑張れ」
「…………」
「なんや」
「……別に」
また。
この前と同じ。
頭。
撫でなくなった。
どうして?
嫌なのかな。
十八歳にもなって頭を撫でられたがるあたしが、子供っぽいから?
それとも。
もう。
昔みたいに可愛くないから?
「颯真兄ちゃん」
「ん?」
「あたし、変わった?」
「そら変わるやろ」
「そうじゃなくて」
「何が」
「あたしのこと……嫌いになった?」
颯真兄ちゃんが眉を寄せた。
「なんでそうなんねん」
「だって最近」
言おうとして。
やめた。
頭を撫でてくれなくなったから。
そんなこと言ったら。
それこそ子供みたいだ。
「……なんでもない」
「変な奴やな」
「うん」
立ち上がる。
「帰るね」
「送るわ」
「大丈夫。一人で帰れる」
「暗いやろ」
「でも」
「ほら」
颯真兄ちゃんも立ち上がった。
結局。
家まで送ってもらった。
並んで歩く。
昔は。
当たり前みたいに手を繋いでた。
いつから繋がなくなったんだろう。
思い出せない。
少し前を歩く颯真兄ちゃんの手を見る。
大きな手。
四歳のあたしが。
ぎゅっと握っていた手。
「…………」
そっと。
自分の手を伸ばしてみる。
あと少し。
もう少し。
指先が届きそうになって――。
引っ込めた。
十八歳。
子供じゃない。
だから。
もう。
昔みたいにはできない。
そう思っていた。
変わってしまったのは。
あたしだけだと思っていた。
それから二年。
あたしは仕事を辞めなかった。
失敗もした。
怒られもした。
泣いた日もあった。
それでも。
ちゃんと毎朝起きて。
ちゃんと会社へ行って。
ちゃんと自分で稼いだ。
そして。
二十歳の誕生日。
「颯真兄ちゃん!」
「おう」
「見て!」
「何を」
「二十歳!」
「見てもわからん」
「成人!」
「おめでとう」
「ということで!」
「嫌な予感すんなぁ」
あたしは鞄から、一枚の紙を取り出した。
颯真兄ちゃんの前で。
ばっ。
と広げる。
「じゃーん!」
「…………なんやこれ」
「大人認定書」
「…………」
「自作!」
「帰れ」
「まだ何もしてない!」
紙には大きな文字で。
『祝・すず、大人になりました』
その下には。
『よって朝倉颯真は、すずを一人の女性として扱うこと』
「ここ!」
指差す。
「署名してください!」
「するか!」
「二十歳だよ!」
「知っとる!」
「お酒も飲める!」
「せやな」
「選挙も行った!」
「偉い」
「税金も払ってる!」
「みんな払っとる」
「だから!」
紙を颯真兄ちゃんの胸に押しつけた。
「あたし、もう子供じゃない!」
「…………」
「あと二年だよ」
颯真兄ちゃんの顔から。
笑いが消えた。
「約束の二十二歳まで」
「……まだ覚えとったんか」
「当たり前じゃん」
忘れた日なんて。
一日もない。
「ねえ」
一歩。
近づく。
昔なら。
何も考えずにできた距離。
だけど今は。
あたしの心臓が。
うるさい。
「颯真兄ちゃん」
「……なんや」
「二十歳のあたしは」
見上げる。
逃げないで。
ちゃんと。
あたしを見て。
「まだ、妹にしか見えない?」
「…………」
今度は。
『当たり前や』
とは。
言わなかった。