ゆびきりげんまん
その夜。

眠れなかった。

布団に入って。

右を向いて。

左を向いて。

仰向けになって。

また右を向く。

「…………」

スマホを見る。

午前一時十二分。

目を閉じる。

浮かんでくる。

あの女の人。

目を開ける。

「…………」

また閉じる。

『じゃあさ、この前言ってた店、今日行かない?』

開ける。

「…………」

閉じる。

『じゃ、決まりね』

「んんんんんん!」

布団を蹴飛ばした。

何なの、あの人!

颯真兄ちゃんとどういう関係!?

そもそも。

この前言ってた店って何!

この前も二人で喋ったってこと!?

それに今日。

二人でご飯?

今頃?

いや。

もう一時だから帰ってるよね。

…………帰ってる?

「まさか……」

その先を想像しかけて。

やめた。

「ないないないない!」

起き上がる。

颯真兄ちゃんはそんな人じゃない。

……そんな人って、どんな人?

二十二歳の男の人が、女の人とご飯を食べる。

その後。

「…………」

知らない。

知らないったら知らない。

枕を掴んで、顔を埋めた。

「あぁぁぁぁぁぁ!」

苦しい。

なんでこんなに苦しいの。

好きなだけなのに。

ずっと好きだっただけなのに。

四歳の頃は簡単だった。

颯真兄ちゃんを見つけたら走っていって。

手を繋いで。

抱っこしてもらって。

帰りたくないって泣いたら。

また明日なって頭を撫でてくれた。

小学生になっても。

中学生になっても。

颯真兄ちゃんは颯真兄ちゃんだった。

だけど。

あたしが高校生になって。

颯真兄ちゃんは警察官になって。

少しずつ。

知らない颯真兄ちゃんが増えていく。

あたしの知らない仕事。

あたしの知らない人。

あたしの知らない時間。

その中に。

いつか。

あたしの知らない女の人が入る。

「……やだ」

小さく呟いた。

そんなの嫌だ。

取られたくない。

でも。

今のあたしには。

取られたくないって言える権利すらない。

彼女じゃない。

妹みたいなもの。

ただの。

幼馴染。

「…………」

その言葉が一番嫌だった。

翌朝。

寝不足だった。

ものすごく寝不足だった。

鏡を見る。

「……ひど」

目の下がうっすら暗い。

大人の女どころじゃない。

これじゃ疲れた女だ。

「すずー! 遅刻するわよー!」

下からお母さんの声がする。

「今行く!」

鞄を掴んで部屋を出た。

今日は交番には行かない。

絶対行かない。

昨日あんなふうに帰ったんだから。

颯真兄ちゃんだって、少しは気にすればいい。

学校が終わっても行かない。

明日も行かない。

明後日も。

一週間くらい行かない。

そしたらきっと、

『最近すず来んな』

って思う。

もしかしたら心配して。

家まで来るかもしれない。

完璧。

これだ。

押してダメなら引いてみろ。

大人の女は追いかけない。

――たぶん。

「行ってきます!」

玄関を飛び出した。

角を曲がる。

駅へ向かう道に出る。

そして。

「おはよう」

「…………」

止まった。

電柱の横。

制服姿の警察官が立っていた。

颯真兄ちゃん。

「……なんでいるの」

「なんでって、仕事」

「あ、そ」

「なんやその態度」

「別に」

「昨日も急に帰りよったし」

「別に」

「今日、顔ひどいで」

「うるさい!」

最悪。

一週間会わない作戦。

開始三十秒で終了。

「寝不足か?」

「違う」

「夜更かししたんやろ」

「してない」

「ゲーム?」

「違う」

「スマホ?」

「違うってば」

「ほな何してたん」

あんたのこと考えてたんだよ!

なんて。

言えるわけない。

「……颯真兄ちゃんこそ」

「ん?」

「昨日」

聞くな。

大人の女は聞かない。

余裕。

余裕を見せろ、あたし。

「昨日?」

「…………楽しかった?」

聞いたぁぁぁ!

「何が?」

「ご飯!」

「ああ」

颯真兄ちゃんが、何でもない顔で頷いた。

「楽しかったで」

ずきん。

「……そ」

「うまかったし」

ずきん。

「……よかったね」

「今度お前も連れてったるわ」

「いらない」

「なんでや」

「二人で行った店なんか行きたくない」

「二人?」

「昨日の人と!」

颯真兄ちゃんが、ぽかんとする。

「……ああ」

やっとわかったらしい。

「あの人な」

聞きたくない。

でも聞きたい。

「彼女?」

聞いた。

颯真兄ちゃんが一瞬黙る。

そして。

「ちゃうで」

「…………」

「先輩」

「……ほんと?」

「嘘ついてどうすんねん」

胸の奥にあった重たいものが。

すとん。

一気に落ちた。

「そっかぁ!」

「うわっ」

「先輩かぁ!」

「急に元気なったな、お前」

「なってないよ?」

「なっとる」

「普通ですけど?」

「さっきまで死にそうな顔しとったやん」

知らない。

あたしは知らない。

でも。

足が軽い。

ものすごく軽い。

「じゃあ行ってきます!」

「おう。気ぃつけてな」

「はーい!」

走り出す。

五メートル。

十メートル。

「あ、すず!」

振り返る。

「何ー?」

颯真兄ちゃんが言った。

「昨日の話やけど」

「昨日?」

「六年後」

心臓が跳ねた。

「…………うん」

颯真兄ちゃんは少しだけ考えて。

「六年後のことなんか、今はわからん」

「…………」

「俺も、お前もな」

あたしは黙って聞いていた。

「せやから」

颯真兄ちゃんが笑った。

「ちゃんと大人になれ」

それだけ言って。

仕事に戻っていった。

「…………」

あたしは、その背中を見つめた。

ちゃんと大人になれ。

それって。

六年後なら。

少しくらい。

可能性があるってこと?

「…………よし」

決めた。

六年後。

絶対。

絶対に。

颯真兄ちゃんを振り向かせる。

「待ってろよぉぉぉ!」

遠くで颯真兄ちゃんが振り返った。

「朝っぱらから叫ぶなぁ!」

あたしは笑って。

学校へ向かって走った。

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