すべてを失って、すべてを奪った一族のメイドになった。 ――未完成の特許と、三兄弟。

第3話 メイドの才能がない、距離感のない男

翌朝。

雨宮灯は、鏡の前で自分の手を見ていた。

右手。

異常なし。

左手。

異常なし。

昨日、アイロンでシャツを一枚犠牲にしたことを除けば、身体は無事だった。

「……今日こそは」

鏡の中の自分に言い聞かせる。

「失敗しない」

昨日覚えたことを頭の中で繰り返す。

シーツの角は合わせる。

紅茶はカップを先に温める。

アイロンは置きっぱなしにしない。

物の位置を勝手に変えない。

廊下は走らない。

そして――

皇城凪に捕まらない。

これが一番難しい気がした。

「よし」

灯は部屋を出た。

***

一時間後。

「違います」

「……はい」

早くも目標の一つが崩れた。

チーフがベッドの角を指差している。

「ここ」

「昨日より綺麗だと思うんですが」

「昨日と比較してどうするんです」

チーフの正論

「お客様が昨日のベッドと比較してくださるわけではありません」

「……確かに」

灯はシーツを外す。

最初から。

「もう一度やります」

「そうしてください」

チーフが腕を組む。

灯はシーツを広げた。

角を合わせる。

引く。

折り込む。

「そこ、引っ張りすぎです」

「はい」

やり直す。

「そこは緩いです」

「はい」

またやり直す。難しい。

昨日まで自分が何も考えず寝ていたベッドは、

誰かがこんな面倒なことをして作っていたらしい。

知らなかった。

「チーフ」

「何です?」

「ベッドって、寝たら崩れますよね」

「崩れますね」

「毎日やるんですか?」

「毎日です」

「…………」

世の中には、知らない方が幸せなことがある。

その時。

「おっはよー」

聞き覚えのある声。

灯の手が止まった。

来た。一番難しいやつ。

「凪様」

チーフが振り返る。

「おはようございます」

凪「おはよ」

凪は寝起きらしい。

髪は少し跳ねている。

ゆるいTシャツ。

片手にスマートフォン。

そして、なぜか真っ直ぐこちらへ来る。

灯はシーツへ視線を戻した。

見えていない。

私は何も見えていない。

凪「あかりちゃん」

「…………」

聞こえない。

凪「あかりちゃーん」

「…………」

凪「無視?」

灯「研修中です」

負けた。

凪がベッドを覗く。

凪「何してんの?」

灯「見れば分かるでしょう」

凪「シーツと戦ってる?」

灯「ベッドメイクです」

凪「負けてるねw」

灯はゆっくり凪を見る。

灯「凪様」

凪「はい」

灯「お暇なんですか?」

凪「うん」即答された。

「…………」

そこまで堂々と言われると、何も言えない。

チーフが口を挟む。

「凪様。雨宮さんはまだ研修中です」

凪「知ってる」

「集中させてあげてください」

凪「俺、邪魔してないよ?」

灯とチーフが同時に凪を見る。

「…………」

「…………」

凪:「邪魔してる?」

灯:「かなり」

凪:「ひど」笑う

***

それでも凪は去らなかった。

ベッドメイク。

ついてくる。

廊下の清掃。

ついてくる。

備品確認。

ついてくる。

灯は最初こそ無視していた。

だが三十分ほど経った頃。

凪「ねえ」

灯「はい」

凪「好きな食べ物何?」

灯「和食です」

凪「へえ」

一分後。

凪「ねえ」

灯「はい」

凪「休みの日何してんの?」

灯「まだこちらへ来て二日なので、休みの日を迎えていません」

凪「じゃあ今度遊ぼ」

灯「嫌です」即答。

凪「なんで!?」

さらに二分後。

凪「ねえねえ」

「…………」

凪「好きな男のタイプは?」

灯の手が止まる。

振り返る。

灯「なぜそんなことを聞くんです?」

凪「暇だから?」

灯「他の暇つぶしを探してください」

凪「いいじゃん。教えてよ」

灯は少し考えて「静かな人です」

凪が自分を指差す。

凪「俺じゃん」

灯は凪を見る。


灯「どの部分が?」

凪「心?」

掃除の邪魔なので、少し離れてください」

凪「冷たいなぁ」とまた笑う

灯は再び掃除を始める。


凪は離れるどころか、

また灯の顔を覗き込んだ。

凪「んじゃ、んじゃさあー」

灯「何です?」

凪「キスする?」

灯の手が止まった。

灯「……えっ、なぜ?」

凪「いや、可愛いから」

灯「理由になってません」

凪「理由あればするの?」

灯「しません」即答。

凪「えー、俺したいなぁ。あかりちゃんとキス」
凪が唇を尖らせる。

そのまま、
ちゅー、とでも言いそうな顔で近づいてきた。

灯は、
すっ。
顔を横へ避けた。

凪の唇が空振りする。
「あっ、失敗したっw」自分にウケる凪

「…………」

灯は何事もなかったように、
また掃除を始める。

灯「・・・凪さん」

凪「んー?」

灯「人と距離感バグってるって言われませんか?」

「うーん……」

凪は考える。

凪「言われたことないなぁ……」

灯「そうですか」

凪「だって、みんな受け入れてくれるもん」

「…………」

灯が一度だけ、
凪の顔を見る。

そして。
何も言わず、
また手を動かした。


「あっ、今、クズだって思ったでしょ?」凪が笑う。

灯「いいえ、思ってません」

凪「うそヘタwww」

灯「思ってません」

凪「絶対思ったじゃん」

灯は無視して掃除を続ける。

凪はそんな灯を見ながら、
少し考えた。
凪「・・・なんかさぁ」

灯「はい」

凪「俺、御曹司じゃん?だから、なびかない女がいないっていうか・・・」

「そうですね」自分で言う?と思った灯

凪「それ知ってて、それでもなびかない女ってさぁ・・・うーん」

灯は黙って聞く。

凪「欲しいのに手に入らないから、もっと欲しくなる感覚っみたいな?」

凪は自分でもよく分からないように、
首を傾げた。

凪「なんかそういう感じ……分かる?」

「分かりません」灯即答。

「私を、おもちゃか何かと勘違いしてません?」

「あー」凪の顔が明るくなる。

凪「おもちゃっw」
「いいね。そうそう、それ、おもちゃ。しっくりきたわ」


「はぁー……」
灯は深くため息をついた。


凪は満足そうに立ち上がる。
「じゃ、あかりちゃんお掃除、頑張って」

灯「はい」

凪「終わったら、ご褒美にキスしてあげるね」

灯「いりません」

凪「遠慮しなくていいよー」

灯「してません」

「じゃあねー」
凪は後ろ向きに歩きながら、
ひらひらと手を振る。

灯はちらりと見る。
「…………」

そして、
また掃除へ戻った灯

「本当に、何なんだろう……あの人」


しばらくして。

灯が床の掃除をしていると、
また凪が戻ってきた。


灯は廊下の棚を拭いていた。

長いスカートが、やはり邪魔だった。

しゃがむ。

立つ。

裾を踏みそうになる。

「……これ、本当に必要なのかしら」

後ろから凪。

「何が?」

「いたんですか」

「ずっといるよ」

怖い。

灯はスカートの裾を少し持ち上げた。

「これ、長すぎるんです」

「俺はいいと思うけど」

「着る側の意見も尊重していただきたいです」



「でもさ」凪がしゃがむ。

「こうなってると――」

裾へ手を伸ばす。

「中どうなってんのかなーって」

ぺら。

パシッ!

「痛っ!」

灯が凪の手を叩いた。

「何してるんですか!」

凪「いや、確認w」

灯「何を!?」

凪「構造?」

灯「必要ありません!」

凪が手の甲をさする。

「まだ見てないじゃん」

灯「見ようとした時点で駄目です!」

そこへ

「雨宮さん」

低い声。

灯の背筋が伸びる。

チーフ。

見ていた。

「…………」



灯:「違います」

チーフ:「仕事中です」

灯:「私ですか!?」

思わず声が出た。

凪が横で吹き出す。

「ちょ、あかりちゃん怒られてるwww」

灯が睨む。

「誰のせいだと思ってるんですか」

凪「俺?」

灯「あなた以外に誰がいるんです!」

チーフが眉間を押さえる。

「凪様も、いい加減になさってください」

凪「はーい」

返事だけはいい。

絶対反省していない。

***

昼食後。

灯は銀食器を磨いていた。

凪は向かいに座っている。

「………………………………」

灯「凪様」

凪「何?」

灯「なぜここに?」

凪「見学と観察」

灯「何の?」

凪「メイドの」

「…………」

灯は銀食器を磨く。

凪は頬杖をついて眺める。

「ねえ」

灯「今度は何です?」

凪「俺の専属メイドになってよ」

灯の手が止まった。

灯「嫌です」

凪「早っ」

灯「考える必要があります?」

凪「普通ちょっと考えない?」

灯「では考えます」一秒。「嫌です」

「考えてないじゃんww」面白い子って思った凪

灯はまた磨き始める。

凪が身を乗り出す。

凪「なんで?」

灯「凪様のお相手をしながら仕事をするのは、非常に疲れます」

凪「相手しなくていいよ」

灯「今まさにしています」

凪「じゃあ俺が大人しくする」

灯が顔を上げる。

凪を見る。

「…………」

凪も灯を見る。

「…………」

灯「無理でしょう」

凪「信用なさすぎない!?」

灯「二日間の実績に基づく判断です」

凪「俺、結構いい雇い主になると思うけどなあ」

灯「ご自分で雇い主とおっしゃる方は、あまり信用できません」

凪「給料上げるよ?」

灯の手が、一瞬止まった。

金。

以前なら気にも留めなかった言葉。

今は違う。

お金は必要だった。

これから一人で生きるために。

いつか――

全て、取り戻すためにも。

凪はその一瞬を見ていた。

けれど。

灯はまた銀食器を磨き始めた。

「結構です」

凪「なんでよ〜?」

灯「お金をいただく以上、仕事はきちんとしたいので」

凪「俺の専属も仕事じゃん」

灯「あなたのお守りでしょう」

凪「ひどくない?www」

灯も少しだけ笑った。

ほんの少し。

凪「あ、笑うと、かわいいね」

灯の手が止まった。

「……人間なので」

「そっか」凪も笑う。

もう、本当に距離感のない暇人

でも、もしかして私の緊張をほぐそうとしてる?

いやいや、そこまで親切じゃないか、

ただの暇つぶしだね。私で、と思った灯

***

午後。

凪はようやく消えた。

灯は心から安堵した。

そして――

地獄が始まった。

「こちらを倉庫へ」

「はい」

「終わったら客室三室です」

「はい」

「その後、配膳補助」

「はい」

「書庫前の廊下もお願いします」

「……はい」

覚える。

動く。

失敗する。

直す。

また覚える。

午後三時。

足が痛い。

午後五時。

腰が痛い。

午後七時。

全身が痛い。

灯は壁に手をついた。

「……メイドって」

息を吐く。

「こんなに体力仕事だったのね……」

昨日まで、

誰かにやってもらっていた。

その事実が、今さら重い。

料理が出てくることも。

服が綺麗になることも。

ベッドが整っていることも。

全部、

勝手にそうなっていたわけじゃない。

誰かの時間と、

誰かの手を使っていた。

「…………」

少しだけ。

昔の自分が恥ずかしくなった。

でも。

立ち止まってはいられない。

灯は荷物を持ち直した。

***

夜。

研修期間ということもあり、予定よりかなり遅くなった。

時計を見る。

午後十時を少し回っている。

「……疲れた」

ようやく終わった。

あとは部屋へ戻るだけ。

灯は人気のない廊下を歩いていた。

昼間の皇城邸とは別の建物みたいだった。

静か。

照明も落とされている。

使用人区画へ向かう途中。

角を曲がる。

その瞬間。

ドンッ。

灯「きゃっ――」

「……っ」

誰かとぶつかった。

何かが床へ落ちる。

カシャン。

箱。

書類。

小さな容器。

いくつもの物が散らばった。

灯「すみません!」

灯は反射的にしゃがんだ。

「前をよく見ていなくて――」

男「……最悪」

低い声。

灯の手が止まる。

顔を上げる。

黒髪。

眼鏡。

細身の男。

年齢は自分より少し上だろうか。

整った顔をしている。

だが。

ものすごく不機嫌そうだった。

灯「……申し訳ありません」

灯はもう一度謝る。

男は灯を見ていなかった。

床に散らばった物を確認している。

男「割れてない……」

一つ。

二つ。

拾う。

灯も手を伸ばす。

灯「お手伝いします」

男「触らないで!」

ぴしゃり。

灯の手が止まった。

「…………」

男は容器を拾い上げ、光に透かす。

灯は少し眉を寄せた。

灯「怪我はありませんか?」

「僕?」

初めて男が灯を見る。

灯「はい」

男は少し考え、

床の小さなケースを指差した。

「僕じゃなくて、こっち」

灯「…………」人間よりそっち?

男「中身が壊れてたら困る」

灯「そうですか」

なんだろう。

この家には、

変わった人ばかり。

灯は再び落ちた書類へ手を伸ばす。

男「だから触らないで」

灯「では、ご自分でどうぞ」

すっと手を引く。

男が灯を見る。

「…………」

「…………」

少しだけ空気が悪くなった。

灯は立ち上がる。

「改めまして、申し訳ありませんでした。本日よりこちらで勤務しております、雨宮灯と申します」

「…………」

男はもう荷物を見ている。

「そう」

終わり。

灯:

「…………」

名前。

絶対聞いていない。

「では、失礼いたします」

返事もない。

男は荷物を抱え直す。

そのまま歩いていく。

灯は背中を見る。

「…………」

凪とは別の意味で、

感じが悪い。

今日一日で疲れ切っていた灯

「……寝よう」

歩き出す。

数歩。

足元で、

何かが光った。

「?」

しゃがむ。

小さな透明ケース。

中に、ごく少量の試料らしきものが入っている。

さっきの男のものだ。

「…………」

廊下の先を見る。

もういない。

灯はケースを見る。

追いかける?

「…………」

時計を見る。

十時過ぎ。

身体はもう限界。

灯「……明日でいいですよね」

ケースを大切に持つ。

部屋へ戻る。

この時の灯は知らない。

それが、

あの男が一晩中探すことになる、

代わりの利かない試料だったことを。

そして。

あの感じの悪い黒髪の男が、

皇城家の次男――

皇城朔夜 (こうじょうさくや)であることも。

――第3話・完――
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