すべてを失って、すべてを奪った一族のメイドになった。 ――未完成の特許と、三兄弟。

第6話  この人は、何を知っている?



翌朝。

雨宮灯は、自分の右手首を見た。

うっすら赤い。

昨日、皇城玲司に掴まれたところだ。

「…………」

思い出す。

――俺が話している途中で、勝手に行くな。

「……横暴」

もう一度言ってみた。

やっぱり、この言葉が一番しっくりくる。

そして。

その直後に現れた父親。

――見えない方が想像するじゃない? なんかエロいし。

灯は鏡の中の自分を見る。

「…………」

長男。

横暴。

次男。

感じが悪い。

三男。

距離感がおかしい。

父親。

論外。

「親子そろって最悪……」

「雨宮さん」

「はいっ」

扉の外から声がした。

慌てて開ける。

チーフが立っていた。

「おはようございます」

「おはようございます」

「今日から一部、担当を変更します」

「担当?」

嫌な予感がした。

この屋敷へ来てから、

嫌な予感だけはよく当たる。

「午前中の通常業務に加えて、玲司様の書斎を担当していただきます」

「…………」

当たった。

「私が?」

「玲司様からのご指名です」

「なぜ?」

チーフが灯を見る。

「私に聞かれましても」

正論。

灯「……分かりました」

断れる立場にもない

チーフが続ける。

「それから、もう一つ」

まだあるのか。

「会長がお呼びです」

「会長?」

「皇城巌蔵 (こうじょうげんぞう)様です」

灯の表情が変わった。

その名前は知っている。

皇城ホールディングス創業者。

一代で巨大企業を築いた男。

現在はほぼ経営の第一線を退いているものの、

今も会長職にある。

皇城巌蔵。

「……私を?」

「はい」

「なぜでしょう」

「それも、私に聞かれましても」

二回目だった。

***

案内されたのは、

これまで灯が入ったことのない場所だった。

屋敷の奥。

洋館のような本邸とは少し雰囲気が違う。

障子。

畳。

縁側。

その向こうには庭。

池。

松。

静かだった。

灯は部屋の前で正座する。

「失礼いたします」

返事がない。

「…………」

もう一度。

「失礼いたします」

ない。

灯は少し困った。

寝ている?

そっと中を見る。

老人が一人、

庭を向いて座っている。

濃い色の和服。

白髪。

白い髭。

微動だにしない。

「…………」

灯は待った。

一分。

「…………」

二分。

「…………」

三分。

さすがに不安になった。

「あの……」

返事がない。

「巌蔵様?」

動かない。

「…………」

まさか。

灯が少し近づく。

「大丈夫ですか?」

老人が言った。

「起きとるぞ」

「…………」

灯は止まった。

「でしたら、お返事ください」

老人の肩が、

ほんの少し揺れた。

笑った?

巌蔵「ま、座れ」

灯「はい」

灯は向かいへ座る。

巌蔵は灯を見る。

「お前が灯か」

「雨宮灯と申します」

「知っとる」

「…………」

なら聞かなくてもいいのでは。

灯は言わなかった。

昨日、学んだ。

皇城家には、

思ったことを全部口に出してはいけない人間がいる。

たぶん全員だ。

巌蔵「茶」

巌蔵が言った。

「はい?」

巌蔵「淹れてみろ」

見ると、茶器が用意されている。

「私がですか?」

巌蔵「他に誰がおる」

どこかで聞いた言い方だった。

灯は少し眉を寄せる。

やはり家族だ。

「……承知しました」

茶を淹れる。

茶葉。

湯。

急須。

灯は、

飲んだことなら何度もある。

良い茶も知っている。

だが。

自分で淹れた経験は、

ほとんどない。

「…………」

これくらい?

湯を注ぐ。

待つ。

茶碗へ。

「どうぞ」

巌蔵が一口。

「…………」

灯は待つ。

巌蔵が茶碗を置いた。

「まずい」

「…………」

随分はっきり言う。

「そうですか」

巌蔵「湯が熱すぎる」

「はい」

巌蔵「茶葉も多い」

「はい」

巌蔵「蒸らしも長い」

「……はい」

巌蔵は灯を見る。

巌蔵「向いとらんな」

灯「私もそう思います」

巌蔵の眉が少し上がる。

巌蔵「普通はもう少し悔しがるもんじゃ」

「昨日シャツも焦がしましたので」

巌蔵「ほう」

「ベッドメイクも下手です」

巌蔵「ほう」

「紅茶も失敗しました」

「…………」

巌蔵「何ならできるんじゃ」

灯「今、探しているところです」

数秒。

巌蔵が、「ふっ」と笑った。

「もう一度」

「はい?」

巌蔵「茶じゃ」

灯は茶器を見る。

「またですか」

巌蔵「まずかったからな」

「飲まなければよろしいのでは?」

巌蔵「上手くなれば飲める」

「…………」

妙な理屈だ。

灯はもう一度淹れた。

今度は湯を少し冷ます。

茶葉を減らす。

蒸らす時間も短く。

「どうぞ」

巌蔵が飲む。

「…………」

灯は見る。

「どうでしょう」

巌蔵「まだまずい」

「…………」

しかし。

もう一口。

さらに一口。

灯の目が細くなる。

「先ほどよりはマシなんですね」

巌蔵の手が止まる。

「誰が言った」

灯「飲む量が増えました」

「…………」

巌蔵が灯を見る。

灯も見る。

巌蔵「人をよく見とるな」

「そうでしょうか」

巌蔵「自覚がないか」

「普通だと思います」

巌蔵は茶を飲む。

巌蔵「そう思っとるところが、一番厄介じゃ」

「?」

意味が分からない。

灯は聞こうとした。

だが巌蔵はもう庭を見ていた。

教える気はないらしい。

「昨日」

巌蔵が言った。

「玲司と揉めたそうじゃな」

「…………」

早い。

「揉めたというほどでは」

「手首」

灯の視線が、

自分の右手へ落ちる。

「…………」

見られていた。

「少し掴まれただけです」

「玲司はどうじゃ」

質問が雑だった。

「どう、とは?」

「好きか」

灯「…………」

初対面から何を聞いている。

「雇用主として尊敬しております」

巌蔵「嫌いなんじゃな」

「どうしてそうなるんです?」

巌蔵「好きな人間には、そんな答え方せん」

灯は黙った。

この老人。

面倒かもしれない。

「玲司様は」

言葉を選ぶ。

「責任感が強く、仕事に厳しく、判断も早い方だと思います」

「うむ」

「ただ」

「ただ?」

灯は少し考え、

「横暴です」

巌蔵:

「…………」

灯:

「…………」

巌蔵が笑った。

声を出して。

「はっはっは」

「そんなに笑うところでしょうか」

「いや。合っとるかもしれん」

否定しないんだ。

「玲司はな」

巌蔵が茶を飲む。

「昔から、人に頼むのが下手でのう」

灯は少し考える。

「頼む?」

昨日を思い出す。

――下がれ。

――並べ直してみろ。

――明日から書斎担当。

確かに。

頼まれた記憶はない。

灯「命令なら得意そうです」

「じゃろうな、もっと関われば違うってわかる」

巌蔵は楽しそうだ。

「朔夜には会ったか」

「……はい」

「怒らせたそうじゃな」

「なぜそれまで?」

「声が響いとった」

灯「…………」

――いいから出て行け!!

確かに。

あれなら聞こえる。

「私にも非がありました」

「何をした」

「大切そうなものを落とすふりを」

巌蔵「…………」

灯「落としてはいません」

「お前も大概じゃな」

「反省しています」

「朔夜はどうじゃ」

灯は即答した。

「感じが悪いです」

今度は本音出たかと思った巌蔵

「玲司よりか」

灯「種類が違います」

「ほう」

「玲司様は人を従わせようとしますが、朔夜様はそもそも人に興味がないように見えます」

巌蔵の目が、ほんの少しだけ変わった。

灯は気づかない。

「研究の方が大切なんでしょうね」

巌蔵は静かに言った。

「朔夜は人より、答えのあるものを好むからのう」

灯は巌蔵を見る。

「答え?」

「研究は、間違っていても理由がある」

「…………」

「人間はそうはいかん」

それ以上、

巌蔵は言わなかった。

灯は少し考えた。

朔夜。

あの研究室。

数値。

試料。

分からないものを、

分かるまで追い続ける。

「……そういうものですか」

「さあな」

またそれだ。

「凪は?」

灯の顔が、

ほんの少し曇った。

巌蔵は見逃さない。

「なんじゃ」

「できれば質問を変えていただけますか」

巌蔵がまた笑う。

「一番苦手か」

「仕事をさせていただけないので」

「懐かれたな」

「困っています」

「嫌か」

灯は少し考えた。

「…………」

嫌。

と言おうとして。

「……よく分かりません」

巌蔵:「そうか」

それだけ。

「凪はな」

庭を見る。

「笑っとるうちは、放っておけ」

灯:

「?」

意味が分からない。

「笑っていない時は?」

巌蔵が灯を見る。

「その時は」

一拍。

「自分で考えろ」

「…………」

答えを教える気が、

本当にない。

灯は少し呆れた。

「三人とも、不器用なんですね」

巌蔵の眉が動く。

「ほう」

あかり「違います?」

巌蔵「どうじゃろうな」

灯「またそれですか」

巌蔵「答えをもらってばかりでは、つまらんじゃろ」

灯「まだ一個も答えてももらってませんが・・・」

巌蔵「多く関わったら、だんだん視えてくる」

灯は老人を見る。

灯「では」

巌蔵「なんじゃ」

「巌蔵様は、どういう方なんですか?」

初めて。

巌蔵の動きが止まった。

ほんの少し。

「わしを知りたいか」

「少し」

「そうか」

巌蔵は茶を飲んだ。

そして。

「では教えん」

灯「…………」

この人が、

一番面倒かもしれない。

***

茶碗が空になる。

灯が気づく。

「全部飲んだんですね」

巌蔵「喉が渇いとった」

灯「二杯とも?」

巌蔵「今日は暑いからな」

灯「最初のはまずかったんですよね」

巌蔵「まずかった」

「…………」

よく分からない。

灯は茶器を片づける。

灯「では、失礼いたします」

立ち上がる。

その時。

「灯」

初めて、

名字ではなく名前で呼ばれた。

振り返る。

巌蔵は庭を見たままだった。

「失ったものばかり見てると」

灯の手が止まる。

「今持ってる大事なものを見落とすぞ」

「…………」

何の話だろう。

会社?

家?

両親?

なぜ知っている?

皇城家なら、

調べれば分かるのかもしれない。

でも。

灯は何も答えなかった。

巌蔵も説明しなかった。

そして次の瞬間。

「それより」

「?」

「明日も茶を持って来い」

灯:「…………」

今の話は?

灯「またですか?」

巌蔵「今日のはまずかった」

灯「明日もまずかったら?」

巌蔵「明後日も持って来い」

灯「いつまでです?」

巌蔵「うまくなるまで」

「…………」

結局。

仕事が増えた。

「承知しました」

灯は頭を下げる。

「失礼いたします」

部屋を出る。

障子が閉まる。

巌蔵は一人になった。

残っていた茶を、

最後まで飲む。

「…………」

茶碗を見る。

「やはり、まずいのう」

少しだけ笑う。

「まあ」

庭へ目を戻す。

「いい暇つぶしにはなりそうじゃ」

***

廊下を歩く灯は、

頭の中で今日の予定を組み直していた。

通常業務。

玲司の書斎。

明日から巌蔵のお茶。

覚えることは山ほどある。

「お茶って、意外と難しいのね……」

チーフにコツを聞こう。

そう考えて。

足が止まった。

――失ったものばかり見てると、今持ってる大事なものを見落とすぞ」

「…………」

意味は、

まだ分からない。

いや。

分かりたくなかったのかもしれない。

その言葉だけが、飲み込めなかった小さな棘のように、胸のどこかに残っていた。

灯は少しだけ胸元へ触れる。

そして歩き出す。

「……変なお爺さん」

この時の灯は、

まだ知らなかった。

皇城家で一番何も言わないこの老人が、

誰より早く、

彼女と三人の孫の変化を見抜くことを。

そして最後まで、

答えを教えてくれないことを。

――第6話・完――
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