すべてを失って、すべてを奪った一族のメイドになった。 ――未完成の特許と、三兄弟。
第7話 三男坊は、彼女に触れたい
皇城邸で働き始めて、まだ三日。
通常のメイド業務。
玲司の書斎担当。
巌蔵のお茶係。
そして仕事でもないのに、
やたら絡んでくる三男が一人。
「…………」
灯は廊下を歩きながら考えた。
来て三日で、仕事増えすぎじゃない?
昨日は朔夜の研究室で余計なことをした。
玲司の書斎では資料をぶちまけた。
「私……」
自分の手を見て、がっくり
「面倒ごとを増やす才能でもあるかな」
凪「あかりちゃーん」
後ろから声。
灯は目を閉じた。
「…………あるみたいね」
凪「あれ? 今なんか言った?」
「何も」
振り返る。
凪がいた。
今日も暇そうだった。
凪「おはよ」
灯「もう十時です」
凪「俺にとっては朝」
灯「世間では違います」
凪が笑う「今日も絶好調だね〜」
灯はその横を通り過ぎようとする。
凪「待って」
手を掴まれた。
灯「……凪様」
凪が灯の手を見ていた。
凪「何これ」
「?」
指先。
昨日までとは少し違う。
掃除。
洗濯。
水仕事。
慣れない作業。
皮膚が少し乾燥していた。
凪「カサカサじゃん」
灯「働いていればこれくらい」
凪「前から?」
灯「いいえ」
凪の笑顔が、
ほんの少しだけ薄くなる。
「……大丈夫?」
灯は一瞬、
凪を見る。
いつもの軽い声と違った。
「大丈夫です」
「来て」
「はい?」
凪が手を引く。
「ちょっと」
「いいから」
「仕事中です」
「五分」
「駄目です」
「三分」
「値切るものでは――」
そのまま連れていかれた。
軽いのに、よく気づく
***
凪「座って」
灯「凪様」
凪「手」
灯「何をするんです?」
凪「いいから」
凪の自室らしい。
凪が引き出しを開ける。
取り出したのは、
ハンドクリーム。
灯「…………」
凪「何その顔」
灯「持ってるんですね」
凪「俺だって乾燥するよ?」
灯「ゲームしかしていないのに?」
凪「ゲームを舐めないで」
凪が灯の前へ座る。
凪が灯の手を取る。
「ほら」
「?」手の甲を見る。
凪「やっぱ荒れてる」
灯「仕事を始めたばかりなので」
「でもさ」
凪が灯の手を持ち上げる。
「あかりちゃん、手可愛い」
灯「手に可愛いも何も――」
ちゅっ。
「…………」
灯の手の甲に、
柔らかい感触。
灯は、
すぐに手を引いた。
「ハンドクリーム塗るんですよね?」
凪「えっ、塗る塗るw」
凪がもう一度、
灯の手を取る。
凪「いやー、可愛いからつい」
灯「今日も軽いですね」
凪「本気――」
凪が一瞬だけ、
灯を見る。
凪「……なんてねw」
灯「遊んでますよね?」
凪「ちょっとねw」
悪びれない。
凪「反応が、可愛いから」
灯「あっそう」
灯の反応は、
やっぱり薄い。
それがいい凪は笑いながら、
ハンドクリームを出した。
凪「貸して」
灯「自分でできます」
凪「俺が塗る」
灯「なぜ?」
凪「うーん、キスさせてくれなかったから」
灯「今しましたよね?」
凪「あれは手」
灯「同じです」
凪「違うよー」
灯「何がです?」
凪「色々?」
灯「適当ですね」
笑いながら、
凪がクリームを灯の手へ乗せる。
そして。
「…………」
今度は、
少しだけ空気が変わった。
ふざけない。
灯の指を一本ずつ取って、
クリームを馴染ませていく。
指と指が絡む。
手のひら。
指先。
荒れた部分を、
思ったよりずっと丁寧に。
「…………」
灯は凪を見る。
いつもの、
軽い笑顔はない。
灯「凪さん」
凪「ん?」
灯「こういうこともできるんですね」
凪「どういう意味?」
灯「黙って人に優しくすることです」
凪「ひど」
灯が少し笑う。恥ずかしそうに
「……でも、ありがとうございます、凪さん」
その瞬間。
(凪心臓)ドクン。
「…………」
凪の手が止まった。
灯「?」
「どうしました?」
「…………」
3秒。
「……不整脈かな」
凪は胸元を押さえる。
灯「病院行きます?」
凪「……大丈夫」
灯「本当に?」
凪「たぶん」とまた笑った
病気ではない。
でも。
何なのかは、
分からなかった。
***
灯が凪の部屋を出る。
「……変な人、でもやさしい」
手を見る
少し頬が熱い灯
その時。
廊下の向こうから、
朔夜が歩いてきた。
「…………」
目が合う。
朔夜の足が止まる。
灯。
凪の部屋前。
昼間。
少し赤い顔。
うつむいて手を見てる。
「…………」
朔夜の脳内で、
不要な情報が勝手に接続された。
灯「……何です?」
朔夜の顔が、
みるみる赤くなる。
朔夜「…………ふ」
灯「ふ?」
朔夜「ふしだらだ」
灯「…………はい?」
朔夜はちょっと後戻りをする
灯「待ってください!」
朔夜「いい」
灯「何がですか!」
朔夜「聞きたくない」
灯「何を想像してるんですか!?」
朔夜「何も!」
灯「じゃあ逃げないでください!」
朔夜は逃げた。
灯「…………」
この家。
本当に疲れる。
***
研究室。
朔夜はモニターを見ていた。
「…………」
文字が頭に入らない。
凪の部屋前で。
灯。
赤い顔。
「…………」
何を考えている。
関係ない。
まったく。
研究とは何の関係もない。
「……睡眠不足だ」
昨日もほとんど寝ていない。
それだけ。
「それにしても……」
キーボードを叩く。
でも思考が
「あの女・・・」
止まる。
「研究室のものを勝手にいじると思ったら」
また止まる。
「今度は凪をたぶらかして……」
「…………」
何を言っている。
研究以外のことを、
こんなに長く考えている。
やはり。
「寝不足だ」
結論。
「寝よ」
朔夜は立ち上がった。
珍しく正しい判断だった。
理由だけは、
完全に間違っていた。
***
夕方。
灯は玲司の書斎へ入った。
「失礼いたします」
返事がない。
「玲司様?」
いる。
机。
仕事をしている。
いつも通り。
……ではない。
灯はすぐ気づいた。
顔色。
呼吸。
シャツの襟元。
額。
灯「玲司様」
玲司「何だ」
灯「具合悪いですか?」
玲司「悪くない」即答。
灯は近づく。
「顔色悪いですよ」
玲司「自分の仕事をしろ」
灯「しています」
玲司「なら俺を見るな」
灯「書斎担当なので」
玲司「俺は書斎の備品じゃない」
灯「備品より手がかかりますね」
玲司の眉が動く。
だが、
言い返す勢いがない。
灯は机の横へ。
「失礼します」
額へ手を伸ばす。
玲司が避けるより早く、
触れた。
「…………」
熱い。
灯「熱ありますよ」
玲司「大したことない」
灯「あります」
玲司「あとこれだけ終われば――」
灯「駄目です」
玲司の指が止まった。
「何?」
灯「休んでください」
玲司「俺に命令するな」
灯「ではお願いします。休んでください」
玲司「断る」
面倒くさい。
灯は玲司を見る。
灯「着替えを持ってきます」
玲司「いらない」
灯「汗かいてます」
玲司「灯」
初めて、
低い声で名前を呼ばれた。
だが灯は止まらない。
「待っててください」
出ていった。
玲司は扉を見る。
「…………」
何なんだ、あの女。
***
戻ってきた灯は、
水。
タオル。
着替え。
全部持っていた。
「シャツ、替えてください」
「自分でできる」
「ではどうぞ」
玲司が立つ。
一瞬、
身体が揺れた。
灯「…………」
玲司「…………」
灯「できてませんね」
玲司「うるさい」
結局、
灯が手伝うことになった。
シャツを脱ぐ。
鍛えられた上半身。
灯の手が、
ほんの一瞬止まる。
「…………」
大きい。
服の上からでも分かっていたが、
思っていた以上だった。
玲司「何だ」
灯「いいえ、何でもありません」
タオルを水へ。
絞る。
玲司の首元へ。
「――冷たっ……」
灯「熱あるんで」
玲司「もう少し加減しろ」
灯「汗を拭いてるんです」
玲司「雑だ」
灯「文句言える元気はあるんですね」
灯は首筋を拭く。
肩。
背中。
思ったより容赦がない。
玲司は黙っていた。
「…………」
妙な感じだった。
人に世話をされること自体は、
珍しくない。
だが。
この女は、
扱いが雑だ。
必要以上に気を遣わない。
怖がらない。
弱っている自分を見ても、
相変わらず、態度を変えない。
そして。
「玲司さん」
「何だ」
「少しこっち向いてください」
「…………」
言われるまま、
向く。
灯が胸元を拭く。
その時。
玲司は気づいた。
俺は今、こいつの言う通りに動いたのか?
「…………」
胸の奥が、
一度だけ強く鳴った。
ドクン。
熱のせいだ。
そう判断した。
灯の顔を見る。
真剣にタオルを動かしている。
「…………」
じっと見下す
灯がすぐ気づく。
「見ないでください」
「…………」
玲司は、
顔を逸らした。
灯「…………」
言うこと聞くんだ。
少し意外だった。
玲司自身はもっと意外だった。
「玲司さん」
「何だ」
灯はタオルを絞りながら言う。
「具合が悪いなら休む」
「…………」
「疲れたなら休む」
水が落ちる。
「それくらい、自分に許してあげてもいいんじゃないですか?」
玲司は答えない。
灯はタオルを広げる。
「玲司さんって」
少し考えて。
「自分のことを無視しますよね」
玲司の目が灯へ戻る。
「何をだ」
「自分がどうしたいか、とか」
「…………」
灯は淡々と続けた。
「身体も気持ちも。全部後回しにしてるように見えます」
玲司の目が、
わずかに細くなる。
「……知ったようなことを言うな」
灯の手が止まる。
「すみません」
そして、
またタオルを動かす。
「そう見えただけです」
「…………」
玲司は黙った。
何を知っている。
会って、
まだ数日。
この女に、
自分の何が分かる。
あり得ない。
思考が鈍っている。
熱のせいだ。
早く治した方がいい。
玲司はそう結論づけた。
***
「はい、終わりました」
灯がタオルを置く。
「部屋に行きますよ」
玲司:
「…………」
また命令。
だが。
今度は何も言わなかった。
立つ。
一歩。
身体が揺れる。
灯がすぐ支えた。
「危ない」
玲司の腕を自分の肩へ回す。
反対の腕を、
玲司の腰へ。
「…………」
身長差。
体格差。
灯一人ではかなり重い。
「重いです」
「聞こえてるぞ」
「事実です」
「お前が小さいんだ」
「168あります」
「俺から見れば小さい」
「玲司さんが大きすぎるんです」
歩く。
玲司の身体が、
灯へ預けられる。
肩。
胸。
腰。
歩くたび、
身体が触れる。
「…………」
灯は急に、
意識してしまった。
熱い。
硬い。
重い。
男の身体だ。
今まで玲司を、
怖い。
横暴。
偉そう。
そういう存在としてしか見ていなかった。
なのに今。
距離が近すぎる。
「…………」
灯の耳が、
少しだけ赤くなる。
その時。
廊下の向こう。
一人の男がふらふらと歩いていた
朔夜。
寝に行く途中だった。
「…………」
灯。
上半身をほとんど隠していない玲司。
玲司の腕が灯の肩。
灯の腕が玲司の腰。
密着。
朔夜:
「…………」
灯:
「?」
朔夜が小さく呟いた。
「……やっぱりふしだらだ」
灯「待ってください!違います!」
朔夜はまた後戻りする
「聞きたくない」
灯「玲司さんが、熱で!」
朔夜「寝よ」
と逃げるように去っていった。
灯:
「…………」
玲司:「何だ、あいつ・・・」
「知りませんっ」
灯は疲れた。
***
玲司の寝室。
どうにかベッドまで辿り着く。
「はい」
灯が身体を離そうとする。
玲司の足が、
少しもつれた。
「――っ」
身体が傾く。
灯も引かれる。
「あっ――」
ベッド。
玲司が倒れる。
その勢いで、
灯も一緒に。
「…………」
「…………」
近い。
顔。
数センチ。
玲司の呼吸が、
頬へ触れる。
灯は固まった。
「……玲司さん、大丈夫ですか?」
返事がない。
玲司の目が、
少しぼんやりしている。
熱。
灯は身体を起こす。立ち上がる
「水、ここに置いておきます」
その時。
玲司に手を掴まれた。
「…………?」
さっきとは違う。
弱い力。
玲司の指が、
灯の手を握っている。
「玲司さん?」
目は半分閉じている。
そして。
かすれた声。
「もう少し……ここにいろ」
「…………」
灯は動けなかった。
命令なのか。
お願いなのか。
分からない。
いつもの玲司なら、
間違いなく命令だ。
でも。
今の声は、
そう聞こえなかった。
「…………」
灯は小さく息を吐いた。
「寝るまでですよ」
椅子を引く。
ベッドの横へ座る。
玲司は手を離さない。
「…………」
灯は多分、いつも一人で頑張ってるんだと思った
数分。
呼吸がゆっくりになる。
眠った。
灯は握られている手を見る。
昼間。
凪にクリームを塗られた手。
今は、
玲司に握られている。
「…………」
今日は手が忙しい。
少し笑う。
玲司の寝顔を見る。
普段の圧がない。
ただ、
疲れ切った男の顔。キレイな顔…
「こうしてれば、普通なのに」
小さく呟く。
返事はない。
灯は、
握られた手をほんの少しだけ、
握り返した。
***
玲司が眠ったあと。
灯は書斎へ戻った。
時計を見る。
勤務時間は終わっている。
帰ってもいい。
でも。
机を見る。
玲司が最後までやろうとしていた資料。
――あとこれだけ。
「…………」
灯は少し迷った。
昨日、
勝手に触るなと言われた。
今日も、
確認してからにしろと言われた。
本人は寝ている。
確認できない。
「…………」
数秒。
「怒られるかな」
椅子へ座る。
「まあ」
資料を開く。
「明日の私の武運に任せましょう」
分類。
付箋。
案件ごと。
期限順。
前回より、
ずっと速い。
数値を追う。
「…………?」
一箇所。
おかしい。
前ページと数字が合わない。
灯は付箋へ書く。
《こちら、前頁と数値が異なります。要確認》
資料へ貼る。
「よし」
仕事を終えた。
***
翌朝。
玲司は、
ほぼ平熱に戻っていた。
「…………」
目を開ける。
寝室。
昨日。
書斎。
灯。
着替え。
そこまでは覚えている。
その後が、
曖昧だった。
「…………」
何かあった気がする。
考える。
出てこない。
「まあいい」
起きる。
書斎へ。
机を見る。
「…………」
資料が、
整理されている。
付箋。
分類。
順番。
そして。
一枚。
《こちら、前頁と数値が異なります。要確認》
玲司が確認する。
「…………」
本当に違う。
自分が見落としていた。
内線を取る。
「雨宮を呼べ」
***
数分後。
「失礼いたします」
灯が入る。
玲司が資料を上げる。
「これをやったのはお前か」
「はい」
「勝手に触るなと言ったはずだ」
「…………はい」
怒られる。
やっぱり。
玲司は資料を見る。
「だが」
灯を見る。
「悪くない」
「…………」
「次からは俺に確認してからやれ」
灯の眉が少し上がる。
「はい」
「それと」
玲司が止まる。
「昨日」
灯の身体が、
ほんの少し固くなる。
「俺は――」
もう少し、
ここにいろ。
握られた手。
「…………」
玲司は眉を寄せる。
出てこない。
「いや」
資料へ視線を戻す。
「いい」
灯「…………」
覚えてない。
少しだけ、
腹が立った。
何に腹を立てたのかは、
自分でもよく分からない。
灯「……そうですか」
玲司「何だ」
灯「なんでもありません」
玲司が灯を見る。
灯はもう扉へ向かっていた。
「では、失礼いたします」
出ていく。
玲司は扉を見る。
「…………」
胸の奥がざわッと
妙な違和感が残っている。
「…………」
玲司は額へ触れた。
「……熱のせいか」
その頃。
別の部屋では。
凪が胸へ手を当てていた。
「……不整脈かな」
そして研究室では。
朔夜は眉間を押しながら呟いていた。
「……睡眠不足だ」
三人とも、
自分の身体に起きた異常について、
それぞれ原因を特定した。
そして三人とも、
見事に間違っていた。
――第7話・完――