学校一の王子様は、私にだけ甘すぎる。
第11話 あの日と同じ、選び方
夜遅く、部屋の机に置いたビニール傘を、蓮はぼんやりと見つめていた。
使うあてもないのに、いつからか手放せなくなっていた古い傘。骨が一本、少し曲がっているのを見つけて、蓮は小さく笑った。
◇
画面に着信が入ったのは、その時だった。表示された名前を見て、蓮は一度深呼吸をしてから電話に出た。
「はい」
『調子はどうだ』
父の声は、いつも変わらず淡々としていた。感情の起伏を表に出さないところは、自分もよく似ていると蓮は思っている。
「変わりありません」
『フリーデリケ嬢との件、そろそろ返事を』
「まだ、考えています」
『考える時間は、もう十分与えたはずだが』
静かな声だからこそ、有無を言わさない圧があった。蓮は窓の外の暗い庭を見つめながら、言葉を選んだ。
「もう少しだけ、時間をください」
しばらくの沈黙のあと、父はそれ以上追及せず、事務的な用件だけを告げて電話を切った。蓮はスマートフォンを机に置いて、深く息を吐いた。
◇
こういう夜は決まって、母のことを思い出す。
多くは覚えていない。ただ、母がよく口ずさんでいた鼻歌の節と、日本語で「いってらっしゃい」と送り出してくれた声だけは、今でも鮮明だった。
母が亡くなってから、蓮の周りは急に静かになった。誰もが礼儀正しく、誰もが一定の距離を保ったまま接してくる。それが悪意でないことは分かっていたが、息が詰まるような日々だった。
だからこそ、八年前のあの雨の日のことを、蓮はずっと覚えている。
迷子になって公園で泣いていた自分に、同い年くらいの女の子が駆け寄ってきて、迷わず傘を差し出してくれた。身分も、事情も知らないまま、ただ目の前で泣いている子どもを放っておけなかった、という顔で。
『王子様みたいな顔してるんだから、泣いちゃだめだよ』
あの一言が、どれほど自分を救ったか、あの子は今も知らないままだ。
◇
机の上のスマートフォンが、また短く振動した。今度は茜からのメッセージだった。
『今日、ありがとう。楽しかった』
たったそれだけの文章に、蓮は思わず口元を緩めた。政略も、本国の圧力も、今この瞬間だけは、ずいぶん遠いことのように感じられた。
(守りたい)
悠真に言った言葉を、もう一度胸の中で繰り返す。守りたいと思う気持ちに、迷いはなかった。ただ、その言葉を本人に伝える資格が、今の自分にまだ無い気がしていた。
全部話して、それでも隣にいてほしいと言うためには、覚悟がいる。国のことも、本当の身分のことも、いつか必ず伝えなければならない。
(ちゃんと言える時、か)
自分でその言葉を何度も口にしてきたくせに、その「時」がいつ来るのか、蓮自身にもまだ分からなかった。それでも、先延ばしにしているだけではないと、自分に言い聞かせる。
傘立てに戻したビニール傘に、もう一度目をやる。
(あの日と同じだ)
誰かに認めてもらうためでも、誰かの期待に応えるためでもなく、ただ自分の意志で選びたいと思ったのは、あの雨の日以来、これが初めてだった。
蓮はスマートフォンを手に取り、短く返信を打った。
『俺も、楽しかった』
送信ボタンを押すと、画面の向こうで、茜が笑っている顔が目に浮かんだ気がした。窓の外では、いつのまにか雨が降り始めていた。