学校一の王子様は、私にだけ甘すぎる。
第12話 名門エーレンシュタイン家
五限目の途中、教室のドアが静かに開いて、担任の宮田が誰かを伴って入ってきた。
「一条、悪いが少し抜けてくれ。来客だ」
見たこともないスーツ姿の男性が、廊下でうやうやしく一礼するのが見えた。蓮は表情を変えないまま席を立ち、静かに教室を出ていく。
◇
「今の、誰?」
「知らない。でも、めちゃくちゃお辞儀してたよね、一条くんに」
教室のあちこちで、ひそひそと囁く声が広がっていく。しばらくして戻ってきた蓮の手には、見慣れない紋章の入った封筒が握られていた。
「大丈夫?」
小声で尋ねた茜に、蓮は少し困ったように笑って「うん、平気」とだけ答えた。それ以上は聞けない空気が、二人の間に薄く張り詰めていた。
◇
放課後、教室に残っていた茜のもとに、クラスの女子が興奮気味に駆け寄ってきた。
「ねえ、見て見て、これ」
差し出されたスマートフォンの画面には、海外の経済誌のオンライン記事が表示されていた。
『名門エーレンシュタイン家、レーヴェンフェルト大公家との縁組が近日中に正式発表か』
見出しの下には、遠目からの写真が一枚。画質は粗かったが、隣に立つ人物の輪郭には、確かに見覚えがあった。
「これ、絶対一条くんの家のことだよね。さっきの来客も、たぶん関係あるんじゃない?」
「……そう、なんだ」
「日向さん、大丈夫? なんか、すごい家柄っぽいけど」
「う、うん、平気」
平気だと言った自分の声が、思ったよりずっと乾いていることに、茜自身が一番驚いていた。
◇
その日の進路面談は、いつも通りの世間話のような時間だった。担任に「将来の希望は?」と聞かれても、茜はうまく言葉が出てこなかった。
「まだ、決まってなくて」
「まあ、二年生だしな。ゆっくり考えればいい」
面談を終えて廊下に出ると、窓の外に夕暮れの校庭が見えた。ふと、さっきの記事の見出しが頭をよぎる。
――名門エーレンシュタイン家。
自分の家の話とは、まるで住む世界が違う響きだった。父も母も、ごく普通の会社員で、進路の相談も「無理のない範囲で」というのが口癖だ。
(釣り合わない、よね。どう考えても)
分かっていたはずのことなのに、活字になって突き付けられると、想像していたよりずっと重かった。
◇
昇降口で靴を履き替えていると、蓮が追いついてきた。
「一緒に帰ろう」
「あ、うん」
いつも通りの声に、いつも通りに頷く。けれど、隣を歩きながら、茜はさっき見た記事のことを、どうしても頭から追い出せなかった。
「今日、変な記事、見なかった?」
思わず聞いてしまってから、しまったと思った。蓮の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……見たんだ」
「クラスの子に、見せられて」
蓮はしばらく黙ったまま、選ぶ言葉を探しているようだった。
「あれは、まだ何も決まってない話で」
「うん」
「本当に、何も」
「分かってる」
分かっている、と口では言いながら、心のどこかでは、もう何かが確定してしまったような気がしていた。二人分の足音だけが、いつもより硬く、通学路に響いていた。
「ごめん、今日は先に帰るね」
角を曲がる手前で、茜は無理やり笑顔を作って言った。蓮が何か言いかける前に、小走りでその場を離れる。
振り返らなかったのは、振り返ったら、きっと泣きそうな顔をしていたからだった。