学校一の王子様は、私にだけ甘すぎる。

第8話 フリーデリケという名前


研修旅行二日目の夜、消灯時間を過ぎた旅館の廊下は、しんと静まり返っていた。

眠れずに部屋を抜け出した茜は、自動販売機で温かいお茶を買おうと、そっと廊下を歩いていた。

◇

曲がり角の向こうから、低く抑えた声が聞こえてきたのは、その途中だった。

「……フリーデリケ様との縁談、本当に進めるおつもりなんですか」

聞き覚えのある声に、茜は思わず足を止めた。壁の陰からそっと覗くと、悠真がスマートフォンを耳に当てて、廊下の隅で誰かと話し込んでいた。

「いえ、蓮には……まだ、きちんとは」

普段の飄々とした口調とはまるで違う、硬い声だった。茜は動くこともできず、その場に立ち尽くしていた。

「本人にその気がないのは、俺が一番よく分かってます。でも、家の方から正式にそういう話が来てるのも事実で……」

縁談。フリーデリケ様。家の方から、正式に。

断片的な言葉が、茜の頭の中でうまく繋がらないまま渦を巻いた。

「あ」

電話を切った悠真が、廊下の陰に立つ茜に気づいて、ばつの悪そうな顔をした。

「聞いてた?」

「ご、ごめん、そんなつもりじゃ……」

「いいよ、別に」

悠真はスマートフォンをポケットにしまいながら、いつもの飄々とした表情に戻ろうとしていたが、目の奥にはまだ硬さが残っていた。

◇

「フリーデリケって、誰?」

聞くべきかどうか迷ったが、聞かずにはいられなかった。悠真は少しの沈黙のあと、静かに口を開いた。

「蓮の家と、家格の釣り合う家のお嬢さん。ずっと前から、縁談の話だけはあったんだ」

「蓮くんの、家って……」

「それは、蓮の口から聞いて」

はぐらかされたわけではなく、線引きをされたのだと分かった。茜はそれ以上、踏み込むことができなかった。

「一つだけ言っておくと」

悠真は、いつもの軽さを装いながらも、どこか真剣な目で茜を見た。

「蓮自身は、その話に乗り気じゃない。それだけは、俺が保証する」

「……うん」

「でも、家同士の話ってやつは、本人の気持ちだけじゃどうにもならないこと、たまにあるからさ」

その言葉が、想像していたよりもずっと重く胸に沈んだ。

◇

翌朝、班行動の集合場所で顔を合わせた蓮は、いつもと変わらない様子で「おはよう」と笑いかけてきた。茜はその顔を見て、昨晩聞いた話をどう切り出せばいいのか分からなくなった。

「茜? どうかした?」

「ううん、何でもない」

「顔色、あんまりよくないけど」

「寝不足なだけ、大丈夫」

無理に笑って誤魔化す茜を、蓮はしばらく心配そうに見つめていたが、それ以上は聞いてこなかった。

班行動の間、いつものように隣を歩きながらも、茜はどうしても昨夜の会話が頭から離れなかった。

(縁談。フリーデリケさんっていう人)

自分には関係のない話だと思おうとしても、うまくいかない。むしろ、関係あってほしいと思ってしまっている自分に気づいて、余計に落ち着かなくなる。

「茜」

名前を呼ばれて振り向くと、蓮が少し先で足を止めてこちらを見ていた。

「置いてかれるよ」

差し出された手に、茜は迷いながらも自分の手を重ねた。握られた手のひらは、いつもと変わらず温かかった。

その温かさが本物なのか、それとも自分がただ都合よく信じたいだけなのか、茜にはまだ分からなかった。
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