学校一の王子様は、私にだけ甘すぎる。
第9話 遠い国のフリーデリケ
刺繍の針を持つ手を止めて、フリーデリケ・レーヴェンフェルトは窓の外に広がる庭園を眺めていた。銀に近い金髪をきっちりと結い上げ、背筋を伸ばした佇まいは、レーヴェンフェルト大公家の娘として恥じぬよう、幼い頃から仕込まれてきたものだった。
父の口から時折漏れる「エーレンシュタイン」という家名が、遠い日本で暮らしているらしい、あの寡黙な少年の家のものだと、フリーデリケはとうに知っていた。
初雪にはまだ早い季節だというのに、庭師の手で整えられた薔薇はすでに刈り込まれ、来年の春を待つだけの姿になっている。自分の今の立場と、少し似ている気がした。
◇
「お嬢様、お父上がお呼びです」
侍女の声に、フリーデリケは刺繍枠を置いて立ち上がった。呼び出しの理由は、聞かなくても分かっている。ここひと月、父の口から出る話題は、いつも同じだった。
「フリーデリケ、エーレンシュタイン家との縁談の件だが」
書斎に入るなり、父はいつもの調子で切り出した。
「先方の返答が、まだない」
「存じております」
「留学先で、何か気を取られることでもあるのだろう。お前からも、一度連絡を取ってみてはどうだ」
父の言葉に、フリーデリケは静かに頷いた。表向きは従順な態度を崩さないまま、内心では別のことを考えていた。
(気を取られること、か)
その言葉が、思っていたよりもすとんと胸に落ちてきたことに、自分でも少し驚いていた。
◇
書斎を出たフリーデリケは、そのまま庭へ出た。冷たい空気の中、いつものベンチに腰を下ろすと、物静かな青年がすっと歩み寄り、無言でショールを肩にかけてくれる。幼い頃からフリーデリケに仕える付き人、ヨナスだった。表情はいつも控えめだが、その所作の一つひとつに、長年の忠実さが滲んでいる。
「殿下は、お加減がすぐれないご様子ですね」
「加減が悪いわけじゃないわ」
フリーデリケは苦笑した。
「ただ、少し考えていただけ」
「エーレンシュタイン殿下のことを、ですか」
「……あの方の、ではなく」
言葉を選びながら、フリーデリケは続けた。
「わたくし自身のことを」
レオンハルトとは、幼い頃に一度、公式の場で顔を合わせたことがある。まだ互いに十歳にもならない頃だった。にこりともせず、けれど誰よりも礼儀正しくフリーデリケに挨拶をした少年のことを、今でもよく覚えている。あの目の奥に、退屈さと、それを見せまいとする気遣いが同居していたことも。
きっと、あの人も自分と同じだ。生まれたときから決められた役割の中で、望むものと望まれるものの違いに、ずっと折り合いをつけてきたのだろう。
◇
「先方から、内々にお話がありました」
夕刻、ヨナスが控えめに切り出した。
「留学先で、殿下には親しくされているご学友がいらっしゃるとか」
その一言に、フリーデリケは驚くほど落ち着いた気持ちで頷いた。
「そう」
「お心を痛められませんか」
「痛まないと言ったら、嘘になるかしら」
フリーデリケは、遠くに沈みかけた夕日を見つめながら、静かに続けた。
「でも、それ以上に、ほっとしている自分もいるの」
「ほっと、ですか」
「わたくしにも、望まれる役割とは別に、望むものがあるから」
その言葉に、ヨナスは何も言わなかった。ただ、フリーデリケの横顔をしばらく見つめたあと、静かに頭を下げただけだった。彼の胸の内にあるものを、フリーデリケは知らないふりをしていた。今はまだ、その名前を口にする時ではない。
「お父様には、まだ黙っていて」
「承知いたしました」
夕日が完全に沈むまで、フリーデリケはベンチに座ったまま、遠い国の空を思っていた。会ったこともない、けれど今、レオンハルトの隣にいるらしい少女のことを。
(どうか、あの人が)
その先の言葉は、声にならないまま、冷たい風にさらわれていった。