歌う人魚と秘密の小屋で
進藤日向は目が覚めた。今日は金曜日。体育がある日だった。チームに分かれて球技をすると先生が言っていたから、楽しみにしていたのに。
悪寒がする。そのうえものすごい倦怠感だ。重力が一夜にして5倍になったかと思うほどの。
ベッドから起き上がるのもやっとだ。心なしか喉も痛い気がする。
やっとの思いで起き上がり、ベッドから足を下ろし、這いつくばって机の体温計を取る。
測ると38℃を超えている。
日向は風邪を引いていた。
終わった。日向は天を仰いだ。
今日は無理せず休もう。
歩くのも辛いため1階に居るであろう母親にスマホで連絡を取る。
『薬とスポドリと…学校を休む連絡をお願い』
最低限の文字を打ち込み、送信する。
のろのろとベッドに戻り、布団に包まる。
ま、薬飲んで寝とけば、なんとかなるっしょ。
しばらくして、日向は再びまどろみの中に沈んでいった。
***
キーンコーンカーン…
学校のチャイムが鳴った。
汐見湊は1年B組の出席簿を手に取り開いた。
点呼をとる。もうすでに数回こなしているとはいえ、最近の子の名前は読み方が難しい。年齢も十かそこらしか離れていないはずだが…。
自分が疎いだけなのかもしれないが、時代の移り変わりが最近は早いように思う。
噛まないように細心の注意を払って読み上げる。
名前を呼び、順調に返事をする生徒たち。
「進藤日向ー」
「…」
「進藤日向…」
返事がない。
出席簿から目を離し、生徒たちの席に視線を移す。進藤日向がいない。
「先生、日向は今日は風邪で休みでーす」
と隣の生徒が言う。
そういえば今朝方、母親から風邪で休むと連絡をもらっていたのだった。
困った。今日は金曜日。早めに渡したいプリントがあるのだが。
湊は問うた。
「今日帰りのついでに進藤の家にプリントを渡しに行ける人はいますか?」
沈黙。皆が顔を見合わせて難色の色を示す。
誰も手をあげない代わりに、日向の隣の生徒が再び口を開いた。
「先生、日向の家は歩いていくには遠くて坂もあるし…難しいと思います。」
なるほど。そんな理由が。
一瞬いじめかと勘繰ったが杞憂だったようだ。
「じゃあ先生が届けるしかないですね…分かりました。大丈夫です。」
再び点呼をしようと出席簿に目を落とす。すると
「先生先生ー!」
クラスのお調子者の男子がニヤニヤ顔で手を挙げる。
嫌な予感。
「はい、何ですか。吉田くん。」
「彼女いますかー?」
クスクスと嘲笑が飛び交う。
湊のこの手の質問に答える内容は決まっている。
「残念ながら、居・ま・せ・ん。悲しくなるから聞かないでくださーい。次聞いたら泣きまーす。点呼続けまーす。」
両耳を塞ぐジェスチャーをして不貞腐れて見せる。
先生彼女いないってよー!
キャー!
黄色い歓声が湧き上がる。
この手の話題に敏感な年頃だ。全く。
まあ、実際居ないのだが。
***
授業が終わった。
今日は学年会議で帰りが遅くなってしまった。
湊はプリントを手に、車に乗り込む。
進藤日向の母親に、プリントを届けにいく連絡を入れる。電話の向こうで「先生も忙しいのに恐れ入ります〜」と申し訳なさそうにする母親の声がする。帰り道なので大丈夫ですから、お気になさらず。と伝え電話を切る。
ナビに住所を入力して、進藤日向の家に向かう。
確かに学校からは距離があるし、坂道も多い。
これは徒歩や自転車では堪えるだろう。
進藤の家に到着し、車から降りる。
軽く身なりを整えプリントを片手に玄関のベルを押す。
ガチャ、とドアが開き中から人が出てくる。
湊は、営業スマイルを顔面に貼り付けて続けた。
「こんにちは。すみません、先程日向さんのお母様にご連絡させていただいたのですが、私、臨時で進藤日向さんの担任となった汐見です……」
家の中から出てきた人物と目が合う。
時間が止まる。
心臓が早鐘のように脈打つ感覚。
営業スマイルが崩れる。
自分の顔から血の気が引いていく。
「あ…」
湊は頭が真っ白になり、言葉を紡ぐことができなかった。
玄関の向こうには、あの日自分が助けた女の子がいた。
「日向の先生…だったんですね。前にスーパーでお会いしましたよね。いつもお世話になってます。どうかしましたか?」
げ。スーパーでのこと覚えていたのか。
女の子はなんでもない様子でにこにことしている。
そうだ。プリントを渡しに来たのだった。
湊は慌てて手元のプリントを見る。
「え、ええ。この間はどうもすみませんでした…こちらこそよろしくお願いいたします。実は、早めに読んでもらいたいプリントがありまして。私が帰るついでにお渡しできればと…日向さんにお渡しいただけますか。」
プリントを差し出し、女の子が受け取る様子を見てから続ける。
「あのう…失礼ですがあなたは日向さんのご家族でいらっしゃいます…か?」
女の子は続ける。
「ええ。姉の小春です。」
姉…。
「お姉さんでしたか。日向さんは体調いかがですか?」
熱も下がって大丈夫ですよ、と小春。
「そうでしたか。それはよかったです。お忙しいところ失礼いたしました。それでは、私はこれで。」
湊は引き攣り笑顔で、しどろもどろになりながら言葉を続け玄関を去った。進藤家を背に自分の車に乗り込む。
焦った。
まさかこんな所でまた会う事になるとは。
日向の姉…小春と言ったか。
間違いない。あの時助けた子だ。
「…まじか。」
ドキドキする心臓を落ち着けるため深呼吸をする。
狭い地域だとは思っていたが、こうも身近にいたとは。頭が痛くなりそうだ。
…家族に積極的に関わりがあるわけじゃなし…。バレない。たぶん。
「まあ、大丈夫だろ…」
湊はしばらく放心していたが、気を取り直し、車のハンドルを握った。