朝の徒花
1-4.恐れ

いつも通りのせわしない朝だった。

「ママー、朝ごはん何かなー?」
「お姉ちゃん、ヘアゴムどこか知らない?」
「うるさいな、自分で探しなさいよ!」

リビングに行き交う子供たちの声。
それを受け流しながら朝の準備を淡々とこなす妻の足音。
回転中の洗濯機や電子レンジの機械音。
結婚して11年、我が家は4人の元気な子供に恵まれ、良くも悪くも賑やかだ。
家の中には常に何らかの音が点在しており、静寂とは無縁だ。

41歳、製鉄メーカー・ジャパンスチール(略称JS)子会社のJS物流会社資材契約室室長 奈良真一。
大手企業での肩書きが保証するように収入は安定、子供にも恵まれマイホームも購入済みとボクの人生は順風満帆そのものである。
仕事にも家族にも何ら不満もない。
日常に刺激を求めているわけでもなく、会社ではパワハラやセクハラなどのコンプライアンスにさえ気を付けていればこれから先も順当に定年まで働き、この成人や結婚、孫の誕生を楽しみに生きるのだろう。


それなのに……。

画面を開き、昨日送った最後のメッセージを見つめる。

「そっか」

我ながら味気ない返信だと思う。
だが、あの瞬間はそれ以外の言葉が見つからなかった。
彼女から「旦那さんが部屋を覗き込んだ」という文字が送られてきたとき、胸の奥を冷たい風が吹き抜けたような感覚がした。
同時に、強烈なブレーキが脳内で働いた。
「やってしまった」
「これ以上はいけない」と。

そもそも、毎朝のモーニングコールはほんの些細なやり取りから始まったことだった。
 
昨年11月、中途採用でボクの部署に配属されてきたのが前職システム系に務めた28歳の宮本穂花。
最初の印象は「真面目で大人しそうな子が来たな、トラブルの心配はなさそうだ」という程度だった。
ただ、ボクにとっては総合職での女性部下は初めてである。
最近ではパワハラやセクハラといった社内コンプライアンスもより厳しくなっており、そのためどこまで突っ込んで話をしたら良いかつかみかねる状況た。
どこからがセクハラで、どこまでがセーフか?
難しい。
 
一方で、彼女からは熱意を感じる。
「前職でも心掛けていたんですが、私の仕事で上司の負担が減らせるようなそんな働き方がしたいです。
だからどんどん仕事を振って貰えたら嬉しいです。」
そんな彼女を部下として好ましく思い、ボクも彼女の教育に熱を入れていた。
  
風向きが変わったのは、1ヶ月ほど前に行われた部署の飲み会だった。
お酒を片手に彼女が、「朝活がしたいなと思いもしますが、いつもしっかりと寝てしまって会社にも遅刻しそうなことがしばしばあります。室長はどうして早起きが出来るんですか?」と零した。
ボクからすれば4人の子供を毎朝6時に叩き起こしている身、早起きなどお手の物だ。
何も意識することなく、軽くその場の雰囲気で提案した。

「じゃあ、朝子供をおこすタイミングで毎朝メッセージ送るくらいならしようか?」
「え、本当ですか? 助かります」

彼女が提案を真に受けて乗ってきたことから、ボクたちの「朝の習慣」は始まった。

最初は業務連絡のつもりだった。

「起きてる?」
「起きてます、おはようございます」

そんな簡潔なやり取りが、いつしか少しずつ形を変えていった。

「今日はちゃんと起きている?」
「ちゃんと起きています、もちろんです。」
「怪しいな。」

気付けば、一日の始まりに彼女とのその数通、それを楽しみにしている自分を自覚するようになっていた。
お互いの家庭を壊すつもりなんて毛頭ない。
ただの職場コミュニケーションの延長、他愛のない暇つぶし。

だが、昨日の彼女の焦りようはどうだ。
旦那さんが部屋に来たという事実。
その後に続いた彼女のどこか言い訳めいた必死な文章。
「ただ通知音に気付いて覗き込んだ。それだけです」

画面の向こうで、彼女が旦那さんにスマホを隠す姿が容易に想像できてしまった。
やましいことは何もないはずなのに隠すということは、彼女にとってもこれが「見られてはまずいこと」になっている証拠だ。

「はい、コーヒー。」

妻の声にハッと我に返る。

「ああ、ありがとう。」

マグカップを口に運びながら、ボクは今、妻の目の前で別の家庭を持つ女性のことを考えている。

時計の針は6時15分をとうに過ぎていた。
毎朝のルーティンなら、もうとっくに彼女へメッセージを送っている時間だ。
だけど、今日は送らなかった。

これ以上、彼女の日常をかき乱すべきではない。
旦那さんに怪しまれるような真似をさせてはいけない。
何より、私自身がこの心地いい “ズレ” にのめり込むのが怖かった。

「……よし」

心の中で自分に言い聞かせ、スマホをズボンのポケットに押し込む。
今朝は連絡をしない。
それが既婚者であるボクが守るべき一線だ。

だが、頭では分かっていてもポケットの中のスマホが気になって仕方がない。
彼女は今頃、起きて犬の散歩にでも行っているだろうか。
メッセージが来ない画面を見て、どんな顔をしているだろうか。

恋愛感情などない。
ただの真面目な部下と、その上司。
そう結論づけようとすればするほど、いつもは穏やかなはずのボクの朝がひどく落ち着かないものへと変わっていく。

それを、ボクは認めざるを得なかった。
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