朝の徒花
1-5.寂惜
『おはようございます。今日は寝坊しちゃいましたか?』
あの日送ろうと何度も悩んだメッセージはついに送信ボタンを押されることはなかった。
あの朝を境に奈良さんからの連絡は一度もない。
「やめよう」という一言もなく連絡が途絶えた事に、「どうして」とも「薄情だ」なんてことも思ってもいない。
前触れはあったのだから。
結局、頭のキレる彼には最後に交わしたあのやり取りだけで私のズルさに気づいたのだろう。
ルーティンにまで昇華していたあのやり取りに費やす時間が、ぽっかりと空いている。
それを忘れられず、最近は6時に目覚ましを鳴らさなくても自然と起きてしまう。
でも、何をするでもなく無為に過ごして時間が出社時刻前なってようやく慌て出す始末だ。
朝活がしたかったのに、今はそんな気分にない。
あれ以来、モーニングコールに触れることなく私たちは職場で挨拶を交わす。
業務時間になれば、彼はいつも通り「奈良室長」として穏やかに、的確に指示を出してくる。
朝のチャットなんて最初から存在しなかったかのように、私たちは完璧な上司と部下に戻っていた。
業務連絡としてチャットや電話をする機会は変わらずある。
だからこそ、朝のチャットを突然辞めた理由を聞く勇気はない。
モーニングコール、あれはただの他愛のないやり取り。
自分にそう言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の奥に澱(おり)のように溜まっていくモヤモヤ。
『どうして毎朝のメッセージ、やめちゃったんですか』
そんな、わざわざ場を掻き乱すようなことを小心の私に聞けるわけがない。
私は目を背けるように仕事に没頭した。
彼はそれを見て、上司としてそっとサポートをしてくれる。
さすが、管理監督者。
お陰様であの出来事を忘れる程、日々はせわしなく流れていく。
3月中旬、資材契約室内に激震が走った。
春の人事報。
その異動者一覧に、奈良真一の名前があった。
異動先は、ここから少し離れた隣の地区にある事業所。
昨年11月に中途採用で入社、この部署に配属されてから5ヶ月。
右も左も分からない私を根気強く育ててくれた上司がいなくなってしまう。
次の後任上司も知らない人だし、彼がいない職場で仕事をしている自分のイメージがわかなかった。
感謝や淋しさ、それ以外ももしかしたら。
私の中で複雑な思いが渦巻いている。
「宮本さん、これ、引き継ぎの資料ね」
そう言って書類を渡してくれる彼の横顔を見ながら、喉の奥まで出かかった言葉を私は必死に飲み込んだ。
そして迎えた、3月末の送別会。
居酒屋の賑やかな喧騒の中、主役である彼は、色々な席に呼ばれて忙しそうにビールを注がれていた。
私は手元にある小さな紙袋をそっと握りしめる。
仕事中、彼がデスクでよくコーヒーを飲んでいた姿を思い出しながら、悩みに悩んで選んだスターバックスのコーヒーギフトだった。
会が終盤に差し掛かり、ようやく彼と話せるタイミングが訪れた。
「奈良室長、これ……短い間でしたけど、本当にお世話になりました」
「お、気を使わなくてもよかったのに。
ありがとう、嬉しいよ。」
彼はいつもの優しい笑顔で受け取り、袋の中身を見て「あ、スタバ。よく分かったね、ボクがコーヒー好きなの」と嬉しそうに目を細めた。
お互いに、あのモーニングコールのことには一切触れない。
それが暗黙のルールだった。
だけど、彼がギフトを愛おしそうに眺めた後、少しだけ声を落として言った。
「宮本さんはまだ5ヶ月ながら積極的に知ろうとする姿勢にボクはきっとすごく成長する子だと期待しているよ。
本当はボクが知っていることは全部教えてあげたかったけど、教えきれていない段階で異動することだけがボクの未練なんだ。
これから4月は定期交渉や定期単価改定とか、まだ君が経験したことない業務が控えているしね。」
「え……」
「もし仕事で困ったことがあったら、前任者としてアドバイスくらいはいくらでも出来るから。
遠慮なんてしないで、引き継ぎもまともに出来ていない状態だからこそいつでもチャットや電話でボクに質問しなよ、ね?」
どちらかといえば、彼の方が新天地で一から人間関係を築いたり、勝手の知らない業務を覚えたりと大変なはずである。
単身赴任をすると家族との時間が減るからと、高速道路を利用して毎日片道1時間の通勤。
それなのに、その言葉は私にあまり響いてこなかった。
残された私を思いやる優しい言葉ではあったけれども、どこか当たり障りのない感じが否めない。
「……はい。ありがとうございます」
お酒の席でくらい、あの頃のような砕けた会話がしたかった。
お酒の勢いに任せて、彼のポケットにあるスマホに「ぴーん」と通知を飛ばしてしまいたくなる衝動を、私は必死に抑え込んでいた。
『おはようございます。今日は寝坊しちゃいましたか?』
あの日送ろうと何度も悩んだメッセージはついに送信ボタンを押されることはなかった。
あの朝を境に奈良さんからの連絡は一度もない。
「やめよう」という一言もなく連絡が途絶えた事に、「どうして」とも「薄情だ」なんてことも思ってもいない。
前触れはあったのだから。
結局、頭のキレる彼には最後に交わしたあのやり取りだけで私のズルさに気づいたのだろう。
ルーティンにまで昇華していたあのやり取りに費やす時間が、ぽっかりと空いている。
それを忘れられず、最近は6時に目覚ましを鳴らさなくても自然と起きてしまう。
でも、何をするでもなく無為に過ごして時間が出社時刻前なってようやく慌て出す始末だ。
朝活がしたかったのに、今はそんな気分にない。
あれ以来、モーニングコールに触れることなく私たちは職場で挨拶を交わす。
業務時間になれば、彼はいつも通り「奈良室長」として穏やかに、的確に指示を出してくる。
朝のチャットなんて最初から存在しなかったかのように、私たちは完璧な上司と部下に戻っていた。
業務連絡としてチャットや電話をする機会は変わらずある。
だからこそ、朝のチャットを突然辞めた理由を聞く勇気はない。
モーニングコール、あれはただの他愛のないやり取り。
自分にそう言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の奥に澱(おり)のように溜まっていくモヤモヤ。
『どうして毎朝のメッセージ、やめちゃったんですか』
そんな、わざわざ場を掻き乱すようなことを小心の私に聞けるわけがない。
私は目を背けるように仕事に没頭した。
彼はそれを見て、上司としてそっとサポートをしてくれる。
さすが、管理監督者。
お陰様であの出来事を忘れる程、日々はせわしなく流れていく。
3月中旬、資材契約室内に激震が走った。
春の人事報。
その異動者一覧に、奈良真一の名前があった。
異動先は、ここから少し離れた隣の地区にある事業所。
昨年11月に中途採用で入社、この部署に配属されてから5ヶ月。
右も左も分からない私を根気強く育ててくれた上司がいなくなってしまう。
次の後任上司も知らない人だし、彼がいない職場で仕事をしている自分のイメージがわかなかった。
感謝や淋しさ、それ以外ももしかしたら。
私の中で複雑な思いが渦巻いている。
「宮本さん、これ、引き継ぎの資料ね」
そう言って書類を渡してくれる彼の横顔を見ながら、喉の奥まで出かかった言葉を私は必死に飲み込んだ。
そして迎えた、3月末の送別会。
居酒屋の賑やかな喧騒の中、主役である彼は、色々な席に呼ばれて忙しそうにビールを注がれていた。
私は手元にある小さな紙袋をそっと握りしめる。
仕事中、彼がデスクでよくコーヒーを飲んでいた姿を思い出しながら、悩みに悩んで選んだスターバックスのコーヒーギフトだった。
会が終盤に差し掛かり、ようやく彼と話せるタイミングが訪れた。
「奈良室長、これ……短い間でしたけど、本当にお世話になりました」
「お、気を使わなくてもよかったのに。
ありがとう、嬉しいよ。」
彼はいつもの優しい笑顔で受け取り、袋の中身を見て「あ、スタバ。よく分かったね、ボクがコーヒー好きなの」と嬉しそうに目を細めた。
お互いに、あのモーニングコールのことには一切触れない。
それが暗黙のルールだった。
だけど、彼がギフトを愛おしそうに眺めた後、少しだけ声を落として言った。
「宮本さんはまだ5ヶ月ながら積極的に知ろうとする姿勢にボクはきっとすごく成長する子だと期待しているよ。
本当はボクが知っていることは全部教えてあげたかったけど、教えきれていない段階で異動することだけがボクの未練なんだ。
これから4月は定期交渉や定期単価改定とか、まだ君が経験したことない業務が控えているしね。」
「え……」
「もし仕事で困ったことがあったら、前任者としてアドバイスくらいはいくらでも出来るから。
遠慮なんてしないで、引き継ぎもまともに出来ていない状態だからこそいつでもチャットや電話でボクに質問しなよ、ね?」
どちらかといえば、彼の方が新天地で一から人間関係を築いたり、勝手の知らない業務を覚えたりと大変なはずである。
単身赴任をすると家族との時間が減るからと、高速道路を利用して毎日片道1時間の通勤。
それなのに、その言葉は私にあまり響いてこなかった。
残された私を思いやる優しい言葉ではあったけれども、どこか当たり障りのない感じが否めない。
「……はい。ありがとうございます」
お酒の席でくらい、あの頃のような砕けた会話がしたかった。
お酒の勢いに任せて、彼のポケットにあるスマホに「ぴーん」と通知を飛ばしてしまいたくなる衝動を、私は必死に抑え込んでいた。