【番外編】元・訳あり男装剣士の初めての舞踏会
 「……いえ」

 先ほどまでほとんど紅茶しか飲んでいなかった人とは思えないほど、食いつきがいい。

 けれど、セレスティアは気づいていない。

 「その、触れるだけではない口づけというのは、何が違うのですか?」

 「何がって……」

 尋ねられた令嬢が、今度は少しだけ頬を染めた。

 「長く唇を重ねたり……もっと深く、相手を求めるようなものもありますわ」

 「深く……」

 「そう」

 「…………」

 セレスティアは考えた。

 何かが。

 記憶の端に引っかかった。

 「それって、どんな感じなの?」

 別の令嬢も興味津々で尋ねる。

 「ちょっと。どうして私が説明することになっていますの?」

 「だって、知っているのでしょう?」

 「知っているとは言いましたけれど、経験したとは言っていませんわ」

 「同じようなものです」

 「全然違います!」

 「では、経験はないの?」

 「…………」

 「あら」

 「今、黙りましたわね」

 「まあ!」

 「ちょっと、皆様!」

 途端に。

 テーブルが沸いた。

 「では、婚約者様と?」

 「いつ?」

 「どちらから?」

 「もう! 言いません!」

 令嬢は真っ赤になっている。

 セレスティアの記憶の奥から。

 あの日のベイルが、ふいに蘇った。

 『……セレス』

 低く呼ばれた声。

 背へ回った腕。

 引き寄せられた身体。

 最初とは違って、何度も重ねられた口づけ。

 そして――。

 そのあと、ベイルは何かをしようとしていた。

 けれど。

 あの時のセレスティアには、それが何なのか分からなかった。

 「…………」

 「セレスティア様?」

 「はい」

 エレノアの声に、セレスティアは我に返った。

 「どうかなさいました?」

 「いえ」

 首を振る。

 けれど。

 頭の片隅に、一つの疑問が生まれていた。

 あの時。

 ベイルがしようとしていた、あれは。

 もしかして。

 令嬢の言う、もっと深い口づけというものだったのだろうか。

 「……」

 そう考えた瞬間。

 あの時のことを、もう少し詳しく思い出してしまった。

 何をされるのか分からなくて。

 驚いて。

 咄嗟(とっさ)に――。

 軽く

 ベイルに、雷を落とした。

 「…………」

 セレスティアは、そっと紅茶を飲んだ。
 
 「そういえば、殿方って、口づけしているうちに止まらなくなることもあるそうですわよ」

 「まあ!」

 ぶっ、と。

 危うく紅茶を吹きそうになった。

 「セレスティア様!?」

 「だ……大丈夫です」

 「本当に?」

 「はい」

 静かにカップを戻す。

 ――止まらなくなる。

 『……少し、止まらなくなった』

 「…………」

 同じことを。

 ベイルは言っていた。
 
 「でも、どうして止まらなくなるの?」

 「そんなこと、私に聞かれても」

 「好きな方に触れていたら、もっと触れたくなるからではなくて?」

 「まあ……」

 「素敵」

 「でも、ちょっと怖いですわ」

 「婚約者なら、怖くはないでしょう?」

 「それとこれとは別です」

 「でも、普段は冷静な方が、自分にだけそんなふうになるのって――」

 「分かります!」

 「ちょっと、憧れますわよね」

 「ええ」

 「…………」

 セレスティアは、無言になった。

 ――普段は冷静な方が、自分にだけ。

 その言葉まで、妙に引っかかる。

 そしてまた、あの時のベイルの声が蘇った。

 『今まで、抑えてきたのに……』

 『そこに、お前から「もう一度」なんて言われたら……』

 『……無理だった』

 「…………」

 今まで。

 深く考えたことがなかった。

 いや。

 正確には、考えるための知識がなかった。

 だから。

 ベイルが言った言葉を。

 そのまま受け取っていた。

 けれど――。

 「好きな方には、やっぱり触れたくなるものなのでしょうね」

 「手を繋ぐのだってそうでしょう?」

 「抱きしめるのも」

 「口づけも」

 「それに、もっと――」

 「もう。それ以上は結婚してからのお話でしょう?」

 「まあ!」

 「ふふっ」

 「…………」

 セレスティアは、瞬きをした。

 結婚してから。

 また。

 同じ言葉が出てきた。

 『結婚してからの楽しみに取っておく』

 あの時。

 ベイルは確かに、そう言った。

 では。

 あの「その先」には。

 一体――。

 「…………」

 想像しようとして。

 やめた。

 分からない。

 分からないのだが。

 分からないからこそ。

 余計に気になる。

 「セレスティア様」

 「はい」

 「……今日一番、真剣なお顔をなさっていますよ」

 エレノアに言われ。

 セレスティアは顔を上げた。

 「そうでしょうか」

 「ええ」

 「ですが、とても勉強になります」

 「勉強……」

 思いもよらない言葉だったのか。

 エレノアが、ぱちりと瞬きをした。

 「はい」

 セレスティアは真顔で頷く。

 冗談を言っているつもりは、もちろんない。

 エレノアが何とも言えない顔をした。

 「セレスティア様。これは別に、お勉強ではありませんよ?」

 「そうなのですか?」

 「……たぶん」

 セレスティアに真顔で問い返され、なぜか、エレノアの方まで自信がなくなった。

 「でも、知らないことばかりです」

 セレスティアは、先ほどまで令嬢たちが話していた内容を思い返す。

 口づけにも、いろいろあること。

 好きな相手には、もっと触れたくなること。

 時には、それが止められなくなることもあるということ。

 どれも、セレスティアには新鮮だった。

 同じ年頃の令嬢たちは、こんなことを考え、こんなふうに恋をするのか。

 知らなかった世界を、ひとつずつ教えてもらっているような気がした。

 知れば知るほど、なるほどと思う。

 そして、これまでよく分からないまま受け止めていたベイルの言葉や行動まで、少しずつ違って見えてくる。

 「それは……そうかもしれませんけれど」
 
 エレノアが曖昧に頷く。

 「でしたら、知っておいた方がよいのでは?」

 セレスティアは、ごく当然のことのように言った。

 「…………」

 エレノアが黙った。

 どうやら、反論する言葉が見つからないらしい。

 「一理ありますわね」

 横から、一人の令嬢が助け舟を出した。

 「エレノア様、セレスティア様はもうご婚約されているのですもの」

 「そうですけれど……」

 エレノアはそう答えながらも、まだどこか釈然としない様子でセレスティアを見た。

 「では、続きを」

 当然のように先を促すセレスティアに、エレノアが目を見開く。

 「まだ聞くのですか!?」

 「はい」

 セレスティアは、ぱっと顔を輝かせた。

 その瞳には、先ほどまでにはなかった好奇心がきらきらと宿っている。

 知らないことを知るのが、楽しくて仕方がない。

 そんな様子が、本人の自覚以上に顔に出ていた。

 エレノアは、複雑そうな顔でセレスティアを見つめた。

 楽しそうなのは、何よりである。

 何よりなのだが――。

 なぜだろう。

 このまま話を続けて、本当に大丈夫なのだろうか。

 そんな一抹の不安が、胸をよぎった。

 何しろ。

 セレスティアがこうして熱心に学んでいる恋愛の、その相手は――。

 自分の兄である。

 「…………」

 それを思うと、なぜだか余計に不安になった。

 エレノアは、そっと紅茶を口にした。

 そうして。

 その日の茶会は――。

 予定していた時間を、少しばかり過ぎることになった。
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