【番外編】元・訳あり男装剣士の初めての舞踏会
翌日の午後。
セレスティアは、アーデン家の一室にいた。
普段は小規模な集まりなどに使われているその部屋は、舞踏の稽古をするには十分な広さがある。
壁際では、ライザとエレノアが楽しそうにこちらを眺めていた。
「それじゃあ、まずは一曲踊ってみたら?」
ライザが言う。
「セレスティアは舞踏のお稽古も十分だと聞いているし。あとは二人で合わせておけば、本番も安心でしょう?」
「はい」
セレスティアは頷いた。
舞踏の稽古なら、これまで何度も受けている。
足運びも、姿勢も、相手との動きの合わせ方も。
講師からは、もう舞踏会へ出ても問題ないと言われていた。
だから。
何も心配することはない。
「セレスティア」
呼ばれて顔を上げる。
ベイルが、こちらへ手を差し出していた。
「手を」
その手に、自分の手を重ねる。
ベイルのもう片方の手が、セレスティアの腰へ添えられた。
セレスティアも教わった通りに構える。
「大丈夫か?」
「はい」
セレスティアが頷く。
「では、始めるぞ」
ベイルが、ゆっくりと足を踏み出した。
一歩。
続いて、もう一歩。
セレスティアの身体は、教わった通りに自然と動いた。
やはり、何も問題はない。
ベイルの動きも安定している。
考えてみれば、侯爵家の子息として育ったのだ。
舞踏ができるのは、当然なのだろう。
少し意外ではあったけれど。
「上手じゃない」
壁際から、ライザの弾んだ声が聞こえる。
「兄様も、ちゃんと踊れるんですね」
「……どういう意味だ」
「あら。褒めているんですよ?」
「そうは聞こえないが」
エレノアがくすくすと笑う。
セレスティアも、思わず頬を緩めた。
そのまま。
何気なく、ベイルを見上げる。
「…………」
目が合った。
「…………」
セレスティアは一度、視線を落とした。
そして。
もう一度、そっと顔を上げる。
「…………」
また、目が合った。
「…………」
そこで、ふと。
昨日の茶会で聞いた言葉が蘇った。
『ベイル様なら、周りには目もくれず、セレスティア様ばかり見ていそうですわね』
「…………」
セレスティアは、ベイルを見た。
やはり。
こちらを見ている。
「……ベイル様」
「ん?」
「先ほどから、ずっと私を見ていませんか?」
「…………」
ベイルが僅かに眉を寄せた。
「踊ってるんだから、見るだろう」
「あまり見ないでください」
「…………」
「……なぜ?」
「気になるので」
「俺が見ていると?」
「はい」
「…………」
ベイルが困ったような顔をする。
その意味を考えるように、じっとこちらを見ている。
「……」
「ベイル様」
「何だ?」
「だから、あまり見ないでください」
「……悪い」
ベイルは、少しだけ視線を外した。
「…………」
これでいい。
そう思ったはずなのに。
なぜか。
今度は、ベイルがどこを見ているのか気になった。
そっと、顔を上げる。
その時。
ちょうどこちらへ戻ってきた鋼色の瞳と、視線が重なった。
「…………」
まただ。
目が合っただけなのに。
先ほどよりも、妙に落ち着かない。
セレスティアは、逃げるように視線を下げた。
――その先に。
ベイルの唇があった。
「…………」
昨日の茶会。
あの言葉が、ふいに蘇る。
『そこで、口づけされたりして』
「…………」
口づけ。
そして。
王都を見下ろす丘の上で。
自分から、もう一度してほしいと頼んだこと。
そのあと。
ベイルが身体を引き寄せて――。
――どくん。
胸が、大きく鳴った。
「――っ」
足が止まる。
「セレスティア?」
「あっ……!」
次の足が出ない。
体勢が崩れた瞬間、腰に回っていたベイルの腕に力が入った。
ぐっと引き寄せられる。
「危ない」
「…………!」
近い。
目の前に、ベイルの顔がある。
――どくん。
また、胸が鳴った。
そしてまた。
どうしても、その唇が目に入る。
『口づけにも、いろいろあるのでしょう?』
『触れるだけの口づけなら、可愛らしいものですけれど』
『それだけではありませんわ』
「…………」
「セレスティア?」
さらに顔を覗き込まれた。
思わず、視線を逸らす。
「大丈夫か?」
「――み、見ないで」
ベイルの眉間に皺が寄る。
「……?」
「俺が、何かしたか?」
「…………」
セレスティアは答えに詰まった。
何かしたかと言われれば――
今、ベイルが何かしたわけではない。
ただ。
その顔を見ていると。
あの時のことを、思い出してしまうだけだ。
「……今は、何もしていません」
「今は?」
「…………」
「では、何なんだ?」
「……うまく……言えません」
ベイルは、何もしていない。
昨日までと、何も変わっていない。
変わったのは――。
自分なのだ。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
先ほどから、鼓動がやけに速い。
セレスティアは、自分の胸元へそっと手を当てる。
「胸が、どきどきして」
「…………」
ベイルは黙ったまま、セレスティアの様子を窺っている。
「それに、顔も熱くて」
その言葉に、ベイルの表情が僅かに曇った。
「熱でもあるんじゃないのか?」
「熱……」
ベイルの手が、額へ伸びてくる。
「――っ」
その手が額に触れる寸前。
セレスティアは、思わず顔を反らした。
「…………」
ベイルの手が、宙で止まる。
そのまま、しばらく動かない。
「…………」
やがて。
ベイルは小さく息を吐いた。
それから、何も言わずにその手を下ろす。
「……本当に、具合が悪いんじゃないのか?」
「……分かりません」
本当に、分からない。
ただ。
ベイルの顔が近づいたり、手が伸びてきたりするたびに、胸の鼓動が速くなる。
そして、また顔が熱くなる。
「…………」
やはり、おかしい。
「少し、外で風に当たってきます」
「外?」
「はい。そうすれば、少し落ち着くかもしれません」
ベイルは何か言いたげにセレスティアを見た。
「だが――」
「すぐに戻りますから」
それ以上何か言われる前に、セレスティアは足早に扉へと足を向けた。
そのまま、部屋を出る。
――バタン。
扉が、閉じられた。
「…………」
あとに残された部屋には、何とも言えない沈黙が落ちた。
ベイルは、閉じられた扉を見つめたまま動かない。
「……セレスティア、大丈夫かしら」
ライザが、心配そうに呟く。
しばらくして。
「……あら」
エレノアが、そんな兄を見て首を傾げる。
「兄様。もしかして、嫌われてしまったんじゃないですか?」
「…………」
ベイルの肩が、ぴくりと動いた。
「……エレノア」
低い声だった。
「はい?」
エレノアは、にこりと笑った。
ベイルは閉じた扉を見つめていたが。
やがて、ゆっくりと振り返った。
そのベイルの顔を見て、エレノアの笑顔が僅かに引きつった。
「昨日の茶会で、何を話した?」
「そういえば、私も気になっていたのよね」
ライザも、エレノアへ顔を向ける。
「お母様まで……」
エレノアは兄と母を交互に見た。
「……ふ、普通に恋のお話をしただけです!」
「……本当に、それだけか?」
「それだけですよ」
「…………」
ベイルは、じっとエレノアを見る。
「……何ですか、その目は」
「他には?」
「他って……」
エレノアは少し考えて。
「……口づけの……お話くらいはしましたけれど」
「…………」
ぴたりと。
ベイルの表情が固まった。
「……兄様?」
「…………」
呼びかけにも、すぐには答えない。
「もしかして、心当たりがあるんですか?」
「…………」
「……ない」
「あるんですね」
「ないと言っただろ」
「じゃあ、今の間は何なんですか」
ベイルは答えない。
「まあ」
ライザが、ぱっと顔を輝かせた。
「ベイルったら」
「……母上」
けれど、ライザは気にした様子もない。
「やっぱり、兄様にも何かあるんじゃないですか」
「私のせいみたいに問い詰めておいて」
ベイルは答えなかった。
ただ、先ほどセレスティアが出て行った扉へ、もう一度視線を向ける。
「……少し、見てくる」
ベイルはそれだけ言うと、扉へ向かった。
やがて、扉が閉じる。
エレノアは、閉じられた扉をじっと見つめた。
その目が、すっと細くなる。
「……怪しいですね」
「そうねえ」
隣で、ライザが楽しそうに笑った。
セレスティアは、アーデン家の一室にいた。
普段は小規模な集まりなどに使われているその部屋は、舞踏の稽古をするには十分な広さがある。
壁際では、ライザとエレノアが楽しそうにこちらを眺めていた。
「それじゃあ、まずは一曲踊ってみたら?」
ライザが言う。
「セレスティアは舞踏のお稽古も十分だと聞いているし。あとは二人で合わせておけば、本番も安心でしょう?」
「はい」
セレスティアは頷いた。
舞踏の稽古なら、これまで何度も受けている。
足運びも、姿勢も、相手との動きの合わせ方も。
講師からは、もう舞踏会へ出ても問題ないと言われていた。
だから。
何も心配することはない。
「セレスティア」
呼ばれて顔を上げる。
ベイルが、こちらへ手を差し出していた。
「手を」
その手に、自分の手を重ねる。
ベイルのもう片方の手が、セレスティアの腰へ添えられた。
セレスティアも教わった通りに構える。
「大丈夫か?」
「はい」
セレスティアが頷く。
「では、始めるぞ」
ベイルが、ゆっくりと足を踏み出した。
一歩。
続いて、もう一歩。
セレスティアの身体は、教わった通りに自然と動いた。
やはり、何も問題はない。
ベイルの動きも安定している。
考えてみれば、侯爵家の子息として育ったのだ。
舞踏ができるのは、当然なのだろう。
少し意外ではあったけれど。
「上手じゃない」
壁際から、ライザの弾んだ声が聞こえる。
「兄様も、ちゃんと踊れるんですね」
「……どういう意味だ」
「あら。褒めているんですよ?」
「そうは聞こえないが」
エレノアがくすくすと笑う。
セレスティアも、思わず頬を緩めた。
そのまま。
何気なく、ベイルを見上げる。
「…………」
目が合った。
「…………」
セレスティアは一度、視線を落とした。
そして。
もう一度、そっと顔を上げる。
「…………」
また、目が合った。
「…………」
そこで、ふと。
昨日の茶会で聞いた言葉が蘇った。
『ベイル様なら、周りには目もくれず、セレスティア様ばかり見ていそうですわね』
「…………」
セレスティアは、ベイルを見た。
やはり。
こちらを見ている。
「……ベイル様」
「ん?」
「先ほどから、ずっと私を見ていませんか?」
「…………」
ベイルが僅かに眉を寄せた。
「踊ってるんだから、見るだろう」
「あまり見ないでください」
「…………」
「……なぜ?」
「気になるので」
「俺が見ていると?」
「はい」
「…………」
ベイルが困ったような顔をする。
その意味を考えるように、じっとこちらを見ている。
「……」
「ベイル様」
「何だ?」
「だから、あまり見ないでください」
「……悪い」
ベイルは、少しだけ視線を外した。
「…………」
これでいい。
そう思ったはずなのに。
なぜか。
今度は、ベイルがどこを見ているのか気になった。
そっと、顔を上げる。
その時。
ちょうどこちらへ戻ってきた鋼色の瞳と、視線が重なった。
「…………」
まただ。
目が合っただけなのに。
先ほどよりも、妙に落ち着かない。
セレスティアは、逃げるように視線を下げた。
――その先に。
ベイルの唇があった。
「…………」
昨日の茶会。
あの言葉が、ふいに蘇る。
『そこで、口づけされたりして』
「…………」
口づけ。
そして。
王都を見下ろす丘の上で。
自分から、もう一度してほしいと頼んだこと。
そのあと。
ベイルが身体を引き寄せて――。
――どくん。
胸が、大きく鳴った。
「――っ」
足が止まる。
「セレスティア?」
「あっ……!」
次の足が出ない。
体勢が崩れた瞬間、腰に回っていたベイルの腕に力が入った。
ぐっと引き寄せられる。
「危ない」
「…………!」
近い。
目の前に、ベイルの顔がある。
――どくん。
また、胸が鳴った。
そしてまた。
どうしても、その唇が目に入る。
『口づけにも、いろいろあるのでしょう?』
『触れるだけの口づけなら、可愛らしいものですけれど』
『それだけではありませんわ』
「…………」
「セレスティア?」
さらに顔を覗き込まれた。
思わず、視線を逸らす。
「大丈夫か?」
「――み、見ないで」
ベイルの眉間に皺が寄る。
「……?」
「俺が、何かしたか?」
「…………」
セレスティアは答えに詰まった。
何かしたかと言われれば――
今、ベイルが何かしたわけではない。
ただ。
その顔を見ていると。
あの時のことを、思い出してしまうだけだ。
「……今は、何もしていません」
「今は?」
「…………」
「では、何なんだ?」
「……うまく……言えません」
ベイルは、何もしていない。
昨日までと、何も変わっていない。
変わったのは――。
自分なのだ。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
先ほどから、鼓動がやけに速い。
セレスティアは、自分の胸元へそっと手を当てる。
「胸が、どきどきして」
「…………」
ベイルは黙ったまま、セレスティアの様子を窺っている。
「それに、顔も熱くて」
その言葉に、ベイルの表情が僅かに曇った。
「熱でもあるんじゃないのか?」
「熱……」
ベイルの手が、額へ伸びてくる。
「――っ」
その手が額に触れる寸前。
セレスティアは、思わず顔を反らした。
「…………」
ベイルの手が、宙で止まる。
そのまま、しばらく動かない。
「…………」
やがて。
ベイルは小さく息を吐いた。
それから、何も言わずにその手を下ろす。
「……本当に、具合が悪いんじゃないのか?」
「……分かりません」
本当に、分からない。
ただ。
ベイルの顔が近づいたり、手が伸びてきたりするたびに、胸の鼓動が速くなる。
そして、また顔が熱くなる。
「…………」
やはり、おかしい。
「少し、外で風に当たってきます」
「外?」
「はい。そうすれば、少し落ち着くかもしれません」
ベイルは何か言いたげにセレスティアを見た。
「だが――」
「すぐに戻りますから」
それ以上何か言われる前に、セレスティアは足早に扉へと足を向けた。
そのまま、部屋を出る。
――バタン。
扉が、閉じられた。
「…………」
あとに残された部屋には、何とも言えない沈黙が落ちた。
ベイルは、閉じられた扉を見つめたまま動かない。
「……セレスティア、大丈夫かしら」
ライザが、心配そうに呟く。
しばらくして。
「……あら」
エレノアが、そんな兄を見て首を傾げる。
「兄様。もしかして、嫌われてしまったんじゃないですか?」
「…………」
ベイルの肩が、ぴくりと動いた。
「……エレノア」
低い声だった。
「はい?」
エレノアは、にこりと笑った。
ベイルは閉じた扉を見つめていたが。
やがて、ゆっくりと振り返った。
そのベイルの顔を見て、エレノアの笑顔が僅かに引きつった。
「昨日の茶会で、何を話した?」
「そういえば、私も気になっていたのよね」
ライザも、エレノアへ顔を向ける。
「お母様まで……」
エレノアは兄と母を交互に見た。
「……ふ、普通に恋のお話をしただけです!」
「……本当に、それだけか?」
「それだけですよ」
「…………」
ベイルは、じっとエレノアを見る。
「……何ですか、その目は」
「他には?」
「他って……」
エレノアは少し考えて。
「……口づけの……お話くらいはしましたけれど」
「…………」
ぴたりと。
ベイルの表情が固まった。
「……兄様?」
「…………」
呼びかけにも、すぐには答えない。
「もしかして、心当たりがあるんですか?」
「…………」
「……ない」
「あるんですね」
「ないと言っただろ」
「じゃあ、今の間は何なんですか」
ベイルは答えない。
「まあ」
ライザが、ぱっと顔を輝かせた。
「ベイルったら」
「……母上」
けれど、ライザは気にした様子もない。
「やっぱり、兄様にも何かあるんじゃないですか」
「私のせいみたいに問い詰めておいて」
ベイルは答えなかった。
ただ、先ほどセレスティアが出て行った扉へ、もう一度視線を向ける。
「……少し、見てくる」
ベイルはそれだけ言うと、扉へ向かった。
やがて、扉が閉じる。
エレノアは、閉じられた扉をじっと見つめた。
その目が、すっと細くなる。
「……怪しいですね」
「そうねえ」
隣で、ライザが楽しそうに笑った。