あの雨の日から、ふたりは

第1章 雨の日と、六月のはじまり

第1話 雨の降るはずじゃなかった日


五月三十一日。

 朝の天気予報は、一日を通して晴れだった。

 だから大庭 美織は、傘を持っていなかった。

 仕事を終えてビルを出た時も、空はまだ完全に崩れているようには見えなかった。駅へ向かおうと歩き出してすぐ、頬に冷たいものが触れる。

「……雨?」

 見上げる。

 ぽつ、ともう一粒。

 今度は手の甲に落ちた。

 あれ、と思ったまま歩いたのは、ほんの数歩だった。五メートルも進まないうちに、乾いたアスファルトへ落ちる雨粒の数が目に見えて増えていく。

「え、ちょっと待って」

 朝の天気予報は晴れだった。傘なんて持っていない。

 美織はバッグを胸元へ寄せ、駅とは反対側へ踵を返した。さっき出てきた会社の先に、歩いて三分ほどのコンビニがある。昼休みに使うこともある、いつもの店だ。

 駆け込んだ時には肩や髪にいくらか雨粒が残っていた。店内から振り返ると、その数十秒のあいだにも雨脚はさらに強くなり、舗道には一気に濃い斑点が広がっている。

「今日は晴れ予報だったのに……」

 美織は小さく息を吐いた。

 仕事帰りの服は、淡い色のブラウスに細身のパンツ。朝、きちんとまとめてきた髪もまだ大きくは崩れていない。少しくらい濡れたところで生活に支障が出るわけではないが、バッグには仕事の書類もノートパソコンもある。このまま駅まで走る選択肢は、できれば取りたくなかった。

 入口脇の傘立てを見る。

 空。

 折りたたみ傘の棚も見る。

 空。

「……うそ」

 自分でも少し情けない声が出た。

 念のため店員へ確認したが、返ってきたのは申し訳なさそうな「今日はもう全部出てしまって」という答えだった。

「そうですよね。ありがとうございます」

 美織はいつもの癖で、きちんと笑って礼を言った。

 困った時ほど、人に不機嫌をぶつけたくない。それで雨が止むわけでも、傘が棚へ戻ってくるわけでもない。

 店の入口近くまで戻り、ガラス越しに外を見る。

 駅までは、ここから歩いて十三、四分ほどある。走れば多少は短くなるだろうが、バッグには仕事の書類もノートパソコンも入っている。自分だけならまだしも、中まで濡らすのは避けたかった。

 雨宿りをするか。

 それとも、覚悟を決めて走るか。

 美織がバッグの中身を確認しながら考えている、その少し離れた場所で、同じ雨を見ている男がいた。


   *


 朝倉 湊は、自分の会社から横断歩道を一つ渡った先にあるそのコンビニで、買った飲み物を片手に雨脚を眺めていた。美織の会社からならほぼ直線で三分ほど。湊にとっても昼休みに立ち寄ることのある、仕事場のすぐ近くの店だった。

 もう片方の手には、深い紺色の傘がある。

 以前、雨の日に会社へ持ってきて、そのまま置き忘れていたものだった。今日になって急に雨が降ったから、結果的にはちょうどよかった。

 店内で、女性が傘を探しているのが見えた。折りたたみ傘の棚を見て、店員へ何か確認し、それから入口まで戻ってくる。困っているのは見ればわかる。

 傘がないのだろう。

 そこまではわかる。

 問題は、その先だった。

 自分には傘がある。駅までは十三、四分ほどだが、自分一人なら多少濡れても構わない。貸してしまって、自分は走るという手もある。

 そこまで考えて、湊はやめた。

 知らない男が、いきなり「傘どうぞ」と差し出してくる。

 善意かどうかを知っているのは自分だけで、相手にはわからない。むしろ傘を受け取れば、返すための連絡先を聞かれるのではないかと警戒されてもおかしくない。

 だったら黙って帰るほうがいい。

 一度そう決めて、湊は傘の柄を握り直した。

 けれど、入口の女性は外を見たまま動かない。スマートフォンで雨雲でも確認しているのかと思えば、やがてそれをバッグへ戻し、今度は中の書類らしきものを確かめてから、バッグそのものを胸元へ抱え直した。

 走るつもりらしい。

 湊はまた迷った。

 声をかけたら、やっぱり怪しいだろうか。

 断られたら、すぐ引けばいい。道を塞がないようにして、傘だけ申し出ればいい。変に近づかなければ――いや、そこまで考えている時点で、余計に怪しい気もする。

 数秒のあいだに一人でそこまで考えて、それでも外の雨を見る。

 ――これは、さすがに濡れるよな。

 結局、放っておけなかった。

 湊は相手との距離を詰めすぎないところで立ち止まり、声をかけた。

「あの」

 女性が振り返る。

 その瞬間、湊は一拍だけ言葉を失った。

 綺麗な人だな、と思った。

 すっとした眉と、やわらかい目元。仕事帰りらしい整った服装。耳元には小さな銀色のピアスが揺れている。派手な印象ではないのに、視線が止まる。

 一方、美織の中では、もっと現実的な警戒が先に立った。

 ――何だろう。ナンパ?

 そう思って、声の主を見る。

 そして一瞬だけ、判断が遅れた。

 背が高い。百八十センチ近くありそうな身長に、細すぎない肩幅。脚が長く、立っているだけで全身のバランスがいい。仕事帰りなのだろうが、ネクタイはなく、淡いシャツに濃紺の薄手のジャケット、細身のパンツという肩肘の張らない格好が妙に似合っている。腕時計も靴も主張は強くないのに、きちんと選んでいることだけはわかる。

 少し癖のあるやわらかな髪。穏やかそうな目元に、ほとんど縁の見えないリムレス眼鏡。

 そして、顔が驚くほど整っていた。

 ――……何、この人。

 ドラマなら、仕事のできる若手社員役で普通に出てきそうだった。

 ナンパなら警戒すべきだし、外見が整っているから安全だという理屈はもちろんない。ないのだが、あまりに「知らない男性」という一言で処理するには情報量が多くて、一瞬だけそちらに気を取られた。

 ――いや、顔がいい。背も高い。服も似合ってる。何、このハイスペック感。

 自分でも、今そこを見るところではないと思う。

 美織は内心の混乱を表情には出さず、相手の言葉を待った。

「あ、すみません。さっき店員さんと話してるのが見えてしまって」

 湊は、自分が怪しまれている可能性を察したらしい。少しだけ急いで説明した。

「傘、なかったんですよね」

「あ……はい」

「僕、これあるので。もしよかったら使ってください」

 そう言って、紺色の傘を少し持ち上げる。

 美織は思わず目を瞬いた。

 予想していた方向とまるで違った。

「え。あの……でも、それだと、あなたが濡れません?」

「僕は駅までなので、走っても大丈夫です」

「いや、それは大丈夫ではないと思います」

「そうですか」

「そうですよ」

 湊は少し考えた。

 美織も雨を見る。

 善意なのは、たぶん本当だ。

 ただし、知らない人から傘を一本受け取って、そのまま持って帰るのも気が引ける。そもそも返す方法がない。

「お気持ちはすごくありがたいんですけど、借りたら返せないですし」

「あ」

 そこまで考えていなかったらしい。

 湊が小さく笑った。

「確かに」

 美織もつられて口元を緩めた。

 変な人ではない。

 少なくとも、今のところは。

 数秒だけ、二人で雨を見る。

 湊が先に口を開いた。

「じゃあ……もし嫌じゃなければ、駅まで一緒に入りますか」

 美織は、傘と湊を交互に見た。

 知らない男性と相合傘。

 言葉にすると、妙に距離が近い。

 けれど、傘を渡して自分は濡れて帰ろうとした人に、必要以上の下心を疑うのも違う気がした。

 それに。

 駅までは、ここから十三、四分ほど。

「……じゃあ、お言葉に甘えます」

「はい」

 湊が傘を開いた。

 その日、二人は初めて同じ傘の下へ入った。


   *


 傘は大きめだった。

 それでも、成人した二人が並んで歩けば、自然と肩の距離は近くなる。

 店を出ると、通りには急な雨に振り回された人たちがいた。鞄から折りたたみ傘を出せた人は足早に駅へ向かい、コンビニで買えたらしい透明なビニール傘がいくつも並ぶ。そのどちらも間に合わなかったのか、鞄や上着を頭の上にかざして走っていく人もいた。

 その姿を見て、美織は胸の前でバッグの持ち手を握り直した。

 ――私も、ああなってたかもしれない。

 駅まで十三、四分。この雨の中を、仕事の荷物を抱えて走ることになっていたらと思うと、隣に広がる紺色の傘が急にありがたく感じられた。

 ――本当に助かったな。

 さっきも礼は言った。それでも、駅に着いたらもう一度ちゃんと伝えようと思った。

 それから美織は、隣を歩く湊をあらためて横目で見た。背が高いぶん、同じ傘に入ると存在感がある。さっき店内で見た時にも十分目立っていたのに、こうして肩を並べると余計にそう思う。

 ――こんな人、この辺にいたんだ。

 毎日仕事で通っている街なのに、一度も見覚えがない。

 けれど考えてみれば、美織はこの道を歩く時、会社へ向かうか、家へ帰るか、その日の仕事や夕食のことを考えていることがほとんどだった。通り過ぎる人の顔を一人ずつ覚えているわけではない。

 それは湊も同じだった。駅と会社を往復する道は、いつも移動のための時間でしかない。信号の色や人の流れは見ていても、そこにいる誰かを意識して歩くことはほとんどなかった。

 だから、これだけ目を引く相手でも、昨日まで互いの生活には存在していなかったのだ。

 今は違う。

 知らない人と、肩を並べて歩いている。その事実だけが、いつもの通勤路を少し妙なものに見せていた。

 湊は美織が濡れないよう、少しだけ傘を彼女側へ傾けていた。

 美織はそれに気づいたが、最初は何も言わなかった。

 代わりに、仕事で身についたような穏やかな笑顔で話題を探す。

「本当にすみません。今日、晴れ予報だったから完全に油断してました」

「僕も見ました。晴れでしたよね」

「ですよね。私の記憶違いじゃなくてよかった」

「でも、僕は会社に傘置きっぱなしだったので」

「じゃあ、忘れてた傘に私が助けられたんですね」

「そうなりますね」

「忘れててよかったですね」

 湊が横を見る。

「それ、褒められてます?」

「結果的には」

 美織は少しだけ笑った。

 今度は、さっき店員へ向けていた笑顔より自然だった。

 湊はそれを見て、最初に抱いた印象を少し修正する。

 もっと静かな人なのかと思った。

 きちんとしていて、必要なことだけ話す人。

 実際は、言葉の端に小さな冗談が混ざる。

「駅まで、いつもこの道ですか?」

 湊が聞く。

「はい。会社がこの先なので」

「僕もです」

「この辺なんですか?」

「もう少し先です」

「じゃあ今まで普通にすれ違ってたかもしれないですね」

「あるかもしれないです」

 美織は、その言葉を聞いて周囲を見る。

 毎日歩いている道。毎日すれ違っている人たち。今までなら、ほとんど背景のように通り過ぎていた。

 その中に、この人もいたのかもしれない。

 昨日までなら、これほど背が高くて目立つ人でも、見ていなければ記憶には残らない。

 けれど今日は、隣を歩いている。

 声も、名前はまだ知らないけれど話し方も、歩く速さも、もう少しだけわかる。

 知らない人だった誰かに輪郭がついていく。

 そのことが、美織には少しだけ不思議だった。

「……あの」

 美織が言う。

「はい?」

「傘、こっちに寄せすぎじゃないですか」

「え」

 湊が自分の右肩を見る。

 少し濡れていた。

「ほら」

「あ、本当だ」

「もうちょっと真ん中でいいです。私だけ濡れなければいいわけじゃないので」

「すみません」

「謝るところじゃないですけど」

 美織が傘の柄へ少しだけ手を伸ばし、角度を中央へ戻す。

 ほんの一瞬。

 二人の指が近づく。

 触れはしなかった。

 それくらいの距離。

 初対面としては、十分近い。

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 駅前が見えてくる頃には、あれほど激しかった雨が嘘のように細くなっていた。

 二人が駅の屋根の下へ入るのとほとんど同時に、雨粒は途切れた。

 美織は思わず振り返った。濡れた舗道には街灯が映り、軒先から残った雫だけが落ちている。

「……止んだ」

「止みましたね」

「すごい。一番ひどいところだけ一緒に歩いた感じ」

「タイミングよかったですね。……よかった、で合ってます?」

「私はだいぶ助かりました」

 美織が笑う。

 湊も少し笑ってから、傘についた水滴を払って閉じた。

 これなら電車を降りた先でも、傘がなくて困ることはなさそうだった。

「本当に助かりました。ありがとうございます」

「いえ。濡れなくてよかったです」

 ここで別れても、何もおかしくない。

 むしろ、それが普通だった。

 美織も一度は改札へ向かおうとした。

 けれど、数歩で止まった。

 恩人に「ありがとうございました」で終わるのは、自分の中で少し収まりが悪い。

 親切を受け取ったなら、きちんと返したい。

 恋愛でも、運命でもない。

 ただ、美織はそういう人だった。

「あの」

 湊が振り返る。

「よかったら今度、ちゃんとお礼させてください」

「お礼?」

「傘のお礼です。ご飯とか」

 湊は少し驚いたようだった。

「そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」

「でも、私が気になるので」

 美織は、やわらかく笑った。

 余所行きの、きちんとした笑顔。

 ただし、言っていることは本心だった。

「……じゃあ」

 湊も頷く。

 そこで二人とも、少し間が空いた。

 連絡先。

 どうする。

 スマートフォンを出して、その場で個人の連絡先を交換するほど近くはない。

 美織も同じことを考えていた。

 湊が先にバッグへ手を入れた。

「あ、これなら」

 名刺入れ。

 一枚抜いて差し出す。

「仕事用ですけど、メールアドレス載ってます」

「あ。それなら」

 美織も名刺入れを出した。

 雨の日の駅前。

 さっきまで一本の傘を挟んで歩いていた二人が、今度は社会人らしく名刺交換をしている。

 少しおかしな光景だった。

 受け取った名刺を見る。

 朝倉 湊。

 美織はそこで初めて、彼の名前を知った。

 湊も同じように、美織の名刺へ目を落とす。

 大庭 美織。

 名前がわかるだけで、さっきまでの「知らない人」から一段だけ輪郭が増える。

「じゃあ、また」

「はい。今日は本当にありがとうございました」

 二人は同じ改札を通り、別のホームへ向かった。

 名残惜しいわけではない。

 振り返ってしまうほどの何かが始まったわけでもない。

 美織にとっては、困っていた自分を助けてくれた、感じのいい恩人。

 湊にとっては、声をかけてよかったと思える、よく笑う綺麗な人。

 そのくらいだった。
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