あの雨の日から、ふたりは
第1章 雨の日と、六月のはじまり
五月三十一日。
朝の天気予報は、一日を通して晴れだった。
だから大庭 美織《おおば みおり》は、傘を持っていなかった。
仕事を終えてビルを出た時も、空はまだ完全に崩れているようには見えなかった。駅へ向かおうと歩き出してすぐ、頬に冷たいものが触れる。
「……雨?」
見上げる。
ぽつ、ともう一粒。
今度は手の甲に落ちた。
あれ、と思ったまま歩いたのは、ほんの数歩だった。五メートルも進まないうちに、乾いたアスファルトへ落ちる雨粒の数が目に見えて増えていく。
「え、ちょっと待って」
朝の天気予報は晴れだった。傘なんて持っていない。
美織はバッグを胸元へ寄せ、駅とは反対側へ踵を返した。さっき出てきた会社の先に、歩いて三分ほどのコンビニがある。昼休みに使うこともある、いつもの店だ。
駆け込んだ時には肩や髪にいくらか雨粒が残っていた。店内から振り返ると、その数十秒のあいだにも雨脚はさらに強くなり、舗道には一気に濃い斑点が広がっている。
「今日は晴れ予報だったのに……」
美織は小さく息を吐いた。
仕事帰りの服は、淡い色のブラウスに細身のパンツ。朝、きちんとまとめてきた髪もまだ大きくは崩れていない。少しくらい濡れたところで生活に支障が出るわけではないが、バッグには仕事の書類もノートパソコンもある。このまま駅まで走る選択肢は、できれば取りたくなかった。
入口脇の傘立てを見る。
空。
折りたたみ傘の棚も見る。
空。
「……うそ」
全部、売り切れ。
自分でも少し情けない声が出た。
念のため店員へ確認したが、返ってきたのは申し訳なさそうな「今日はもう全部出てしまって」という答えだった。
「そうですよね。ありがとうございます」
美織はいつもの癖で、きちんと笑って礼を言った。
困った時ほど、人に不機嫌をぶつけたくない。それで雨が止むわけでも、傘が棚へ戻ってくるわけでもない。
店の入口近くまで戻り、ガラス越しに外を見る。
駅までは、ここから歩いて15分ほどある。走れば多少は短くなるだろうが、バッグには仕事の書類もノートパソコンも入っている。自分だけならまだしも、中まで濡らすのは避けたかった。
雨宿りをするか。
それとも、覚悟を決めて走るか。
美織がバッグの中身を確認しながら考えている、その少し離れた場所で、同じ雨を見ている男がいた。
*
朝倉 湊《あさくら みなと》は、自分の会社から横断歩道を一つ渡った先にあるそのコンビニで、買った飲み物を片手に降ってるなぁ、と雨脚を眺めていた。美織の会社からならほぼ直線で三分ほどのここは、湊にとっても昼休みに立ち寄ることのある、仕事場のすぐ近くの店だった。
もう片方の手には、深い紺色の傘がある。
以前、雨の日に会社へ持ってきて、そのまま置き忘れていたものだった。今日になって急に雨が降ったから、結果的にはちょうどよかった。
店内で、女性が傘を探しているのが見えた。折りたたみ傘の棚を見て、店員へ何か確認し、それから入口まで戻ってくる。困っているのは見ればわかる。
傘がないのだろう。
そこまではわかる。
問題は、その先だった。
自分には傘がある。駅までは15分かからないほどだが、自分一人なら多少濡れても構わない。貸してしまって、自分は走るという手もある。
そこまで考えて、湊はやめた。
知らない男が、いきなり「傘どうぞ」と差し出してくる状況って、どうなんだ?
善意かどうかを知っているのは自分だけで、相手にはわからない。むしろ傘を受け取れば、返すための連絡先を聞かれるのではないか、その口実ではないかと警戒されてもおかしくない。
だったら黙って帰るほうがいい。
一度そう決めて、湊は傘の柄を握り直して帰ろうと思った。
けれど、入口の女性は外を見たまま動かない。スマートフォンで雨雲でも確認しているのかと思えば、やがてそれをバッグへ戻し、今度は中の書類らしきものを確かめてから、バッグそのものを胸元へ抱え直した。
走るつもりらしい。
湊はまた迷った。
声をかけたら、やっぱり怪しいだろうか。
断られたら、すぐ引けばいい。道を塞がないようにして、傘だけ申し出ればいい。変に近づかなければ――いや、そこまで考えている時点で、余計に怪しい気もする。
数秒のあいだに一人でそこまで考えて、それでも外の雨を見る。かなり雨足が強くなってきている。
――これは、さすがに濡れるよな。
結局、放っておけなかった。
湊は相手との距離を詰めすぎないところで立ち止まり、後ろから声をかけた。
「あの」
女性が振り返る。
その瞬間、湊は一拍だけ言葉を失った。
綺麗な人だな、と思った。
すっとした眉と、やわらかい目元。仕事帰りらしい整った服装。耳元には小さな銀色のピアスが揺れている。派手な印象ではないのに、視線が止まる。
一方、美織の中では、もっと現実的な警戒が先に立った。
――何だろう。ナンパ?
そう思って、声の主を見る。
そして一瞬だけ、判断が遅れた。
背が高い。180センチ近くありそうな身長に、細すぎない肩幅。脚が長く、立っているだけで全身のバランスがいい。仕事帰りなのだろうが、ネクタイはなく、淡いシャツに濃紺の薄手のジャケット、細身のパンツという肩肘の張らない格好が妙に似合っている。腕時計も靴も主張は強くないのに、きちんと選んでいることだけはわかる。
少し癖のあるやわらかな髪。穏やかそうな目元に、ほとんど縁の見えないリムレス眼鏡。
そして、顔が驚くほど整っていた。
――……何、この人。
ドラマなら、仕事のできる若手社員役で普通に出てきそうだった。もしくは海外ブランドのモデルかなにか。
ナンパなら警戒すべきだし、外見が整っているから安全だという理屈はもちろんない。ないのだが、あまりに「知らない男性」という一言で処理するには情報量が多くて、一瞬だけそちらに気を取られた。
――いや、顔がいい。背も高い。服も似合ってる。何、この満点ハイスペック感。
自分でも、今そこを見るところではないと思う。
美織は内心の混乱を表情には出さず、相手の言葉を待った。
「あ、すみません。さっき店員さんと話してるのが見えてしまって」
湊は、自分が怪しまれている可能性を察したらしい。少しだけ急いで説明した。
「傘、なかったんですよね」
「あ……はい」
「僕のこれ、もしよかったら使ってください」
そう言って、紺色の傘を少し持ち上げる。
美織は思わず目を瞬いた。
予想していた方向とまるで違った。
「え。あの……でも、それだと、あなたが濡れません?」
「駅まで走れば結構すぐなので、大丈夫です」
「いや、それは大丈夫ではないと思います」
「そう、ですかね」
「そうですよ」
湊は少し考えた。
美織も雨を見る。
善意なのは、たぶん本当だ。
ただし、知らない人から傘を一本受け取って、そのまま持って帰るのも気が引ける。そもそも返す方法がない。
「お気持ちはすごくありがたいんですけど、借りたら返せないですし」
「あ」
そこまで考えていなかったらしい。
湊が小さく笑った。
「確かに」
美織もつられて口元を緩めた。
変な人ではない。なんだか抜けている。
少なくとも、今のところは。
数秒だけ、二人で雨を見る。
湊が先に口を開いた。
「じゃあ……もし嫌じゃなければ、駅まで一緒に入りますか」
美織は、傘と湊を交互に見た。
知らない男性と相合傘。
言葉にすると、妙に距離が近い。
けれど、傘を渡して自分は濡れて帰ろうとした人に、必要以上の下心を疑うのも違う気がした。
それに。
駅までは、ここから15分ほど。
このままの雨の強さでは、バッグの中は無事ではいられないだろう、と外を見て眉を下げた。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「はい」
湊が先に自動ドアを出て傘を開いた。
ポンっと勢いよく弾けて、どうぞと微笑む。
「お邪魔します」
「はい」
その日、二人は初めて同じ傘の下へ入った。
*
傘は大きめだった。
それでも、成人した二人が並んで歩けば、自然と肩の距離は近くなる。
店を出ると、通りには急な雨に振り回された人たちがいた。鞄から折りたたみ傘を出せた人は足早に駅へ向かい、コンビニで買えたらしい透明なビニール傘がいくつも並ぶ。そのどちらも間に合わなかったのか、鞄や上着を頭の上にかざして走っていく人もいた。
その姿を見て、美織は胸の前でバッグの持ち手を握り直した。
――私も、ああなってたかもしれない。
駅までの距離。このなかなかな雨の中を、仕事の荷物を抱えて走ることになっていたらと思うと、隣に広がる紺色の傘が急にありがたく感じられた。
――本当に助かったな。
さっきも礼は言った。それでも、駅に着いたらもう一度ちゃんと伝えようと思った。
それから美織は、隣を歩く湊をあらためて横目で見た。背が高いぶん、同じ傘に入ると存在感がある。
さっき店内で見た時にも十分目立っていたのに、こうして肩を並べると余計にそう思う。
――こんな人、この辺にいたんだ。
毎日仕事で通っている街なのに、一度も見覚えがない。こんなにイケメンなのに。
けれど考えてみれば、美織はこの道を歩く時、会社へ向かうか、家へ帰るか、その日の仕事や夕食のことを考えていることがほとんどだった。通り過ぎる人の顔を一人ずつ覚えているわけではない。
それは湊も同じだった。駅と会社を往復する道は、いつも移動のための時間でしかない。信号の色や人の流れは見ていても、そこにいる誰かを意識して歩くことはほとんどなかった。
だから、これだけ目を引く相手でも、昨日まで互いの生活には存在していなかったのだ。
今は違う。
知らない人と、肩を並べて歩いている。その事実だけが、いつもの通勤路を少し妙なものに見せていた。
湊は美織が濡れないよう、少しだけ傘を彼女側へ傾けていた。
美織はそれに気づいたが、最初は何も言わなかった。
代わりに、仕事で身についたような穏やかな笑顔で話題を探す。
「本当にすみません。今日、晴れ予報だったから完全に油断してました」
「僕も見ました。晴れでしたよね」
「ですよね。私の記憶違いじゃなくてよかった」
「でも、僕は会社に傘置きっぱなしだったので」
「じゃあ、忘れてた傘に私が助けられたんですね」
「そうなりますね」
「忘れててよかったですね」
湊が横を見る。
「それ、褒められてます?」
「結果的には」
美織は少しだけ笑った。
今度は、さっき店員へ向けていた笑顔より自然だった。
湊はそれを見て、最初に抱いた印象を少し修正する。
もっと静かな人なのかと思った。
きちんとしていて、必要なことだけ話す人。
実際は、言葉の端に小さな冗談が混ざる。
「駅まで、いつもこの道ですか?」
湊が聞く。
「はい。会社がこの先なので」
「僕もです」
「この辺なんですか?」
美織は驚いたように目を丸くする。
「もう少し先です」
「じゃあ今まで普通にすれ違ってたかもしれないですね」
「あるかもしれないです」
美織は、その言葉を聞いて周囲を見る。
毎日歩いている道。毎日すれ違っている人たち。今までなら、ほとんど背景のように通り過ぎていた。
その中に、この人もいたのかもしれない。
昨日までなら、これほど背が高くて目立つ人でも、見ていなければ記憶には残らない。
けれど今日は、隣を歩いている。
声も、名前はまだ知らないけれど話し方も、歩く速さも、もう少しだけわかる。
知らない人だった誰かに輪郭がついていく。
そのことが、美織には少しだけ不思議だった。
「……あの」
美織が気になっていた事を言う。
「はい?」
「傘、こっちに寄せすぎじゃないですか」
「え」
湊が自分の右肩を見る。
少し濡れていた。
「ほら」
「あ、あぁ…本当だ」
「もうちょっと真ん中でいいです。私だけ濡れなければいいわけじゃないので」
「すみません」
「謝るところじゃないですけど」
美織が傘の柄へ少しだけ手を伸ばし、緩く掴んで角度を中央へ戻す。これで、中央だ。
ほんの一瞬。
二人の指が近づく。
触れはしなかった。
それくらいの距離。
初対面としては、十分近い。
でも、不思議と嫌ではなかった。
駅前が見えてくる頃には、あれほど激しかった雨が嘘のように細くなっていた。
二人が駅の屋根の下へ入るのとほとんど同時に、雨粒は途切れた。
美織は思わず振り返った。濡れた舗道には街灯が映り、軒先から残った雫だけが落ちている。
「……止んだ」
「止みましたね」
「すごい。一番ひどいところだけ一緒に歩いた感じ」
「タイミングよかったですね。……よかった、で合ってます?」
「私はだいぶ助かりました」
美織が笑う。
湊も少し笑ってから、傘についた水滴を払って閉じた。
これなら電車を降りた先でも、傘がなくて困ることはなさそうだった。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
「いえ。濡れなくてよかったです」
ここで別れても、何もおかしくない。
むしろ、それが普通だった。
美織の足は改札へ向かい定期で改札をくぐる。
けれど、数歩で止まった。
恩人に「ありがとうございました」で終わるのは、自分の中で少し収まりが悪い。
親切を受け取ったなら、きちんと返したい。
恋愛でも、運命でもない。
ただ、美織はそういう人だった。
「あの」
遅れて改札をくぐった湊が視線を向ける。
「よかったら今度、ちゃんとお礼させてください」
「お礼?」
「傘のお礼です。ご飯とか」
湊は少し驚いたようだった。
「いえ、そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」
「でも、私が気になるので」
美織は、やわらかく笑った。
大人として、礼儀は通さねば気が済まない。
万が一取引先になったりしたら、困る。
余所行きの、きちんとした笑顔。
ただし、言っていることは本心だった。
「……じゃあ」
湊も頷く。
そこで二人とも、少し間が空いた。
連絡先。
どうする。
スマートフォンを出して、その場で個人の連絡先を交換するほど近くはない。
美織も同じことを考えていた。
湊が先にバッグへ手を入れた。
「あ、これなら」
名刺入れ。
一枚抜いて差し出す。
「仕事用ですけど、メールアドレス載ってます」
「あ。それなら……待ってください」
美織もカバンの奥底に避難させた名刺入れを出した。
雨の日の駅の改札の中、人がたくさん通って行く中で、少し端にいそいそと移動している。
そして、さっきまで一本の傘を挟んで歩いていた二人が、今度は社会人らしく名刺交換をしている。
少しおかしな光景だった。
受け取った名刺を見る。
朝倉 湊。
美織はそこで初めて、彼の名前を知った。
湊も同じように、美織の名刺へ目を落とす。
大庭 美織。
名前がわかるだけで、さっきまでの「知らない人」から一段だけ輪郭が増える。
「じゃあ、また」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
二人は同じ改札を抜けた先は、別々の階段で別のホームへ向かった。
名残惜しいわけではない。
振り返ってしまうほどの何かが始まったわけでもない。
美織にとっては、困っていた自分を助けてくれた、感じのいい恩人。
湊にとっては、声をかけてよかったと思える、よく笑う綺麗な人。
そのくらいだった。
*
帰宅した湊は、玄関を開けるなり「ただいま」と言った。
茶色い縞模様の猫が、部屋の奥から顔を出す。
「小虎さん、ただいま」
靴を脱ぎ、傘を傘立てへ入れる。
その紺色を見て、さっきのことを思い出した。
「今日、ちょっと変わったことがあったんですよ」
小虎さんは答えない。
湊は慣れたものだった。
「傘なくて困ってる人がいて。最初、声かけたら怪しいかなと思ったんですけど」
ジャケットを脱ぎながら、続きを話す。
「結局、一緒に駅まで行きました」
小虎さんの尻尾が一度だけ床を叩く。
「綺麗な人でした」
言ってから、少し考える。
「でも、思ってたよりよく喋る人で」
笑い方も、話すテンポも思い出す。
「話しやすかったです」
小虎さんは興味をなくしたように向きを変えた。
「もう終わりますよ」
湊は笑った。
シャワーを浴びたあと、バッグを片づけようとして一旦手を止めると、中から名刺ケースを取り出す。
大庭 美織。と書かれた真新しい名刺。
声に出す必要はないのに、なんとなく心の中で名前を読む。
スマートフォンを見る。
別に、連絡が来ると決まったわけではない。
「お礼を」と言ってくれたのも、社交辞令かもしれない。
そう思った直後、メールの通知が入った。
見慣れないアドレス。
もしかして、と開く。
『朝倉さん
本日は本当にありがとうございました。
突然の雨で困っていたので、とても助かりました。
無事に帰宅しました。
また改めてお礼をさせてください。
大庭 美織』
「…えぇ…本当に連絡くれた」
湊は少しだけ笑った。
丁寧な文章。
駅で話していた時より、少しだけ距離を感じる。
でも、それが嫌ではなかった。
まだ今日会ったばかりなのだから、むしろ自然だ。
湊も同じくらいの温度で返信する。
その夜のやり取りは、それだけで終わった。
一方、美織も帰宅後に髪をほどき、銀色のピアスを外しながら、送ったメールを一度だけ見返していた。
「……ちょっと硬かったかな」
仕事のメールではない。
でも友人でもない。
知らない人ではなくなったけれど、親しい人でもない。
今の距離にちょうどいい言葉を選ぶと、どうしても丁寧になる。失礼にもならない。
まあいいか、とスマートフォンを伏せた。
今日一日の中で、少し変わった出来事があった。
それだけ。
美織はそう思って、その夜を終えた。
*
六月一日。
新しい月の最初の朝。
昨日と同じ駅。
昨日と同じ時間。
同じように改札から人が流れ出していく。
湊にとって、駅から会社までの十分ほどの道は、いつもならただの移動だった。
改札から吐き出される人の流れに乗って、信号を渡り、会社へ向かう。誰が前を歩いていたかも、誰とすれ違ったかも、普段はほとんど覚えていない。
昨日までなら、それで終わっていた。
けれど、その朝は人混みの中に見覚えのある後ろ姿が浮かび上がった。
仕事用にまとめられた髪。見覚えのあるバッグ。
昨日は「傘がなくて困っていた人」だった女性に、今は名前がある。
大庭さん。
大勢の中の一人だったはずなのに、一度知ってしまうと、そこだけ輪郭が濃く見える。
湊は特に迷わず声をかけた。
「おはようございます、大庭さん」
美織が振り返る。
一瞬だけ、誰だろうという顔をして。
すぐにわかった。
「あ。朝倉さん。おはようございます」
笑う。
昨日、名刺交換をした時と同じ、整った笑顔。
でも昨日の雨の中より少しだけ気安い。
「昨日はありがとうございました」
「いえいえ。ちゃんと帰れました?」
「はい。朝倉さんも濡れませんでした?」
「大丈夫でした」
「右肩、結構濡れてましたけど」
「見てたんですね」
「見えますよ、あれは」
自然な流れで、二人は並んで歩き始めた。
身長差がある。昨日と同じペースで歩く。
「大庭さん、いつもこの時間ですか?」
「だいたい。朝倉さんも?」
「僕もです」
「じゃあ、今まで同じ道歩いてたかもしれないですね」
「昨日も同じ話しましたね」
「あ、した。……あっ、しましたね」
口から出たあとで、美織は気づいた。
昨日、一本の傘に入れてもらって駅へ向かっていた時も、たった15分の道のりを話しているうちに、返事の端が時々ほんの少しだけ砕けていた。本人としては、まだ知り合ったばかりの相手にはきちんと話しているつもりだったのだ。
湊は一瞬だけ目を丸くしたあと、昨日の傘の下での会話を思い出したらしい。目元をやわらかく細めて、くすっと笑った。からかうような笑いではなく、また少しだけ素の言葉が出たことを面白がるような、穏やかな笑顔だった。
「……何ですか」
「いえ」
「今、笑いましたよね」
「ちょっとだけ」
美織はじわじわ恥ずかしくなってきた。仕事でも私生活でも、相手との距離に合わせて言葉を選ぶことはずっと意識してきた。それなのに、この人の前では時々、考えるより先に素の言葉が出る。
「忘れてください」
「難しいですね」
「そこは忘れてください」
湊はまた少し笑った。
昨日の話をもう一度してしまったことより、美織のほうは今、自分の言葉遣いのほうがよほど気になっていた。
10分の道は、話していると短い。
美織が自分の会社が入るビルの前で足を止めた。
「私、ここです」
「え」
湊も止まる。
道路の向こう側を指す。
「僕、あそこです」
横断歩道を挟んで、ほとんど向かい。
美織は思わず目を丸くした。
「近っ」
社会人らしい整った調子から、少しだけ素の声が出た。
湊が笑う。
「ほんとですね」
「こんな近くで働いてたんだ」
「気づかないものですね」
「気づかないですねえ」
「じゃあ、また」
「はい。また」
その「また」は、昨日より現実味があった。
同じ駅。
近い会社。
同じ時間。
会う可能性は、思っていたより高いらしい。
それだけのことだった。
*
昼休み。
美織は会社からまっすぐ三分ほど歩き、昨日と同じコンビニへ入った。普段から昼食や飲み物を買いに来る店で、美織にとっては昨日の出来事があってもなくても、いつもの行動範囲の中にある。
湊の会社から来るなら、横断歩道を一つ渡る。二人の会社のほぼ中間というほどではないが、どちらからも気軽に立ち寄れる距離だった。
飲み物を手に取り、昼食の棚の前へ向かう。
「「あ」」
先に声を漏らしたのは、どちらだったかわからない。
同時だったかもしれない。
朝倉湊がいた。
「また会いましたね」
湊が言う。
「ほんとですね」
朝も会った。
昼も会った。
会社が近いのだから、考えてみれば不思議ではない。
それでも少し可笑しい。
二人で同じ棚を見る。
美織は惣菜と弁当を見比べながら、ほとんど自分へ向けて呟いた。
「何食べようかな……」
「これ、美味しかったですよ」
すぐ横から返事が来た。
美織はゆっくり顔を上げる。
「……聞こえてました?」
「え?」
「今の、独り言です」
湊の顔が止まる。
「あ」
「聞かれたと思いました?」
「普通に聞かれたのかと」
あまりにも真顔で答えるので、美織は耐えきれず笑った。
「独り言におすすめ返されたの、初めてです」
「すみません」
「謝らなくていいです。面白いから」
昨日より、笑い方が少し崩れた。
湊もつられて笑う。
「じゃあ、それにします」
「え、いいんですか」
「おすすめしたんだから責任取ってください」
「責任って何ですか」
「美味しくなかったら報告します」
「それは困るなあ」
やり取りをしながら、美織は自分でも少し不思議だった。
昨日会ったばかりの人にしては、会話が楽だ。
ただし、その理由まで考えるほどではない。
気を遣わなくていい、というより。
気を遣っているのに、その気遣いが疲れない。
まだ余所行きの笑顔も使う。
言葉も選ぶ。
でも、それだけではなくなり始めている。
本人はまだ、その小さな変化に気づいていなかった。
*
コンビニを出て、会社へ戻る道。
美織のビルが近づいたところで、湊が言った。
「大庭さん」
「はい?」
「今日、何時くらいに仕事終わります?」
美織は少しだけ目を丸くした。
仕事の終業時間を聞かれる理由が、すぐにはわからない。
「定時なら18時くらいですけど」
「あ、僕も同じくらいです」
「そうなんですね」
「帰りに、またお話しませんか」
「…………」
美織の中に、一瞬だけ疑問符が浮かぶ。
どうして。
でも、すぐに答えを見つけた。
「あ。傘のお礼の話ですよね」
湊が、一拍だけ止まる。
「……はい。それも」
「それも?」
「いえ」
湊は少し笑った。
本人にも、なぜもう少し話したいと思ったのか、まだ説明できなかった。
楽しかったから。
話しやすかったから。
それだけで十分だった。
「じゃあ、18時くらいにここで」
「わかりました」
「またあとで」
「はい」
美織は会社へ入る。
振り返るほどの理由はない。
けれど、入口の手前で一度だけ後ろを見た。
湊は横断歩道へ向かうところだった。
背が高い。
姿勢もいい。
やっぱり目を引く。
美織はごく小さな声で呟いた。
「……顔、いいなあ」
それ以上でも、それ以下でもない。
まだ、恋愛として考える材料ではなかった。
ただ。
見かけると少し得をした気分になる人。
話すと穏やかに楽しい人。
昨日まで存在すら知らなかった人にしては、ずいぶん情報が増えた。いや、むしろ多い。
*
18時少し前。
美織はパソコンの時計を見た。
17時52分。
今日の作業はほぼ終わっている。
残ったメールを一通返し、デスクの上を整える。
17時56分。
もう一度時計を見る。
「……何してるんだろ、私」
小さく呟いた。
別に、待ち合わせに浮かれているわけではない。
傘のお礼について話す。
たぶん、ご飯へ行く。
それだけ。
それでも、人を待たせるのは嫌だった。
その理由を、美織はそれ以上掘り下げなかった。
18時前に会社を出ると、入口の少し離れたところに湊がいた。
スマートフォンを見るでもなく、周囲を眺めながら待っている。
立ってるだけで本当、絵になる男性である。
美織に気づくと、すぐに顔がやわらいだ。
「あ、大庭さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです。待ちました?」
「いえ。僕も今来たところです」
たぶん本当にそうなのだろう。
変な駆け引きをする感じがない。
それが美織には楽だった。
「じゃあ、駅前まで戻ります?」
「いいですね」
二人で歩き出す。
朝も歩いた道。
昼にも少しだけ歩いた道。
夕方になると、同じ場所でも空気が違う。
仕事を終えた人。
自転車のベル。
信号待ちの列。
昼の雨の名残が少しだけ残る路面。
「大庭さん、何系が好きですか?」
「食べ物?」
「はい。お礼って言ってもらいましたけど、僕も普通にご飯食べたいので」
「今日は私が出しますよ」
「いや、全部は」
「傘のお礼ですから」
美織は当然のように言う。
湊は少し考えたあと、変に押し問答を続けなかった。
「じゃあ、今日は甘えます」
「はい」
「店は大庭さんに任せてもいいですか」
「もちろん」
美織は少し考える。
「駅前の商業ビルの上に、創作料理のお店があるんです。行ったことはないんですけど、評判いいみたいで」
「いいですね」
「じゃあ、そこにしましょうか」
「お願いします」
片方が提案して、もう片方が受け取る。
何かを決めるのに、妙な駆け引きがない。
それが、二人にとって最初から少し楽だった。
*
駅前の商業ビルの最上階。
店内は照明が落ち着いていて、大きな窓から街の灯りが見えた。
高級すぎるわけではない。
でも、いつもの平日の夕食より少しだけ特別に見える。
案内されたのは窓際の席だった。
向かい合って座る。
そこで初めて、美織は少しだけ姿勢を正した。
さっきまで並んで歩いていた時には意識しなかったのに、真正面に座ると「二人で食事をする」という事実が急に輪郭を持つ。
相手は、昨日まで名前も知らなかった男性だ。
しかも、かなり顔がいい。
そう思った自分を、美織は内心で少しだけ呆れた。
だから何だという話である。
「改めて、昨日はありがとうございました」
美織は、きちんと笑って頭を下げた。
「こちらこそ。今日はごちそうになります」
「まだ料理出てきてませんけど」
「あ、確かに」
湊が笑う。
美織も笑う。
その一往復で、少し入っていた力が抜けた。
最初の話題は、仕事だった。
美織の仕事はデザイン関係。
湊はIT系で、開発寄り。
会社がこれだけ近いのに、業界はまるで違う。
「朝倉さん、パソコン得意そうですよね」
「仕事聞いた後に言ってません?」
美織は一瞬だけ止まった。
「……ばれた?」
「今のはわかります」
「でも見た目もなんとなく」
「どういう見た目ですか」
「説明できない。メガネだから?」
「適当ですね」
「そうとも言う」
美織が笑う。
湊は、最初に店内で見た時の「隙のない人」という印象が、また少し変わっていくのを感じていた。
もちろん、きちんとしている。
言葉遣いも丁寧。
店員への態度もやわらかい。
でも、話していると時々、妙に率直な一言が出る。
湊はそれを面白いと思った。
美織の側も、湊への印象を少しずつ更新していた。
これだけ整った外見なら、もっと自分がどう見えるかを意識していても不思議ではない。
けれど湊には、それがほとんどない。
知らないことは知らないと言う。
話を格好よくまとめようとしない。
美織の冗談を、少し考えてから真面目に受け取る時もある。
女性慣れしているというより、人に対して素直なのだと思った。
その感じが、妙に安心する。
「朝倉さんって休みの日って、何してるんですか?」
美織が聞く。
「家にいること多いです。猫いるので」
美織の顔が瞬時に変わった。
「猫?」
「はい」
「飼ってるんですか?」
「小虎さんっていうんですけど」
「……さん?」
「小虎さんです」
湊は真面目だった。
美織は一度唇を閉じて耐えようとしたが、無理だった。
「なんで“さん”なんですか」
「なんでって……小虎さんなので」
「答えになってない」
笑いがこぼれる。
それまでの整った笑顔とは違う。
目元までやわらかくなる。
「写真、あります?」
「ありますよ」
湊がスマートフォンを出す。
画面に、茶色い縞模様の猫。
美織は自然に身を乗り出した。
「……いいなあ」
「猫、好きなんですか?」
「大好きです」
声の温度が、少し変わった。
「本当は飼いたいんですけど」
「飼わないんですか?」
「今は無理かな。仕事で遅くなる日もあるし、一人暮らしだから。好きだからこそ、中途半端に迎えたくなくて」
湊は画面から美織へ視線を移した。
「そうなんですね」
「子猫とか見たら危ないですけどね。これは運命なかもしれない、って連れて帰りたくなる」
「でも我慢するんですね」
「します」
美織は小虎さんの写真を見たまま答えた。
「責任持てないのに飼うほうが、たぶん嫌だから」
湊は少し黙った。
その言葉を、ただの猫好きの話として聞き流さなかった。
この人は、自分が欲しいかどうかだけで決めない人なのだ。愛玩ではなく、命としてちゃんと考えている。
「……優しいですね」
美織が顔を上げる。
「え?」
「猫に」
「ああ」
美織は少し困ったように笑った。
「そうなのかな」
「僕はそう思います」
湊は、本当にそう思っただけだった。
だから、スルッと言葉に出た言葉だった。
美織はそれ以上返さず、また画面を見る。
褒められ慣れていないわけではない。
仕事でも、外見でも、社交辞令はいくらでもある。
でも今の言葉は、自分でもあまり意識していなかった部分へ触れた気がした。
だから、少しだけ返し方に困った。
この時点ではまだ、それだけだった。
*
食事が進むにつれて、会話の間に短い沈黙が入るようになった。
話題が尽きたからではない。
料理を食べる。
窓の外を見る。
飲み物を口にする。
それから、またどちらかが話す。
沈黙を埋めなくても気まずくならない。
美織は途中で、それに気づいた。
初対面に近い相手との食事では、普通もう少し「何か話さなければ」と思う。
今日は、それがあまりない。
湊も同じだった。
楽しいけれど、盛り上げ続ける必要がない。
静かでも退屈ではない。
まだ理由はわからない。
ただ、居心地がいい。
食事を終え、伝票が置かれる。
美織が先に手を伸ばした。
「今日は私が払います」
「でも、結構ちゃんと食べましたよ」
「お礼の傘一本分です」
「傘、高くなりましたね」
「人件費込みです」
「人件費?」
「駅まで送ってもらったので」
湊がそこまで込みですかと笑う。
「じゃあ今日は甘えます」
「そうしてください」
「じゃあ、その代わり」
「その代わり?」
湊は少し考えてから言った。
「次があるなら、その時は僕が払います」
伝票を手に取る美織の手が一瞬だけ止まった。
【つぎ。】
そこに大きな意味はない。
食事が楽しかったから、また行くかもしれない。
大人同士なら、それくらいは自然だ。
美織もそう受け取った。
「じゃあ、そうしましょう」
頷く。
湊も、穏やかに微笑んでそれ以上何も足さなかった。
*
店を出て、エレベーターで1階へ降りる。
駅前は夜の人通りが増えていた。
何気ない会話をしながら改札前まで来る。
昨日と同じ場所。
でも、昨日より互いに知っていることが少し増えている。
名前。
会社。
仕事。
猫。
笑い方。
「今日はありがとうございました」
湊が言う。
「こちらこそ。お付き合いありがとうございました」
「楽しかったです」
頷いて、美織は一拍だけ置いた。
社交辞令として返すこともできる。
でも。
「私も。楽しかったです」
それは普通に本心だった。
「じゃあ、また」
「はい。また」
二人は別々のホームへ向かう。
いつも通りの駅、2回目の挨拶を交わして。
*
美織は帰宅後、髪をほどきながら一日を振り返った。
朝。
昼。
夜。
同じ人と三度会った。
「……濃いな、今日」
思わず笑う。
でも、疲れてはいなかった。
むしろ、穏やかな気分だった。
明日の朝も、同じ時間なら会うかもしれない。
そう考えて。
ほんの少しだけ、楽しみだと思った。
それを運命とは考えない。
物語の始まりだとも思わない。
自分は、昨日たまたま雨に降られて、感じのいい人に助けられただけだ。
ただ、その人と今日も会って、少し話して、一緒に食事をした。
その結果、いつも通り何の変哲もない通勤路に、知っている顔がひとつ増えた。
それだけで、いつもの道がほんの少しだけ違って見える。
*
同じ頃。
湊は自宅で、小虎さんのご飯を用意していた。
「ねぇ小虎さん。今日、また会いました」
小虎さんは食器を見ている。
「朝も、昼も。夜はご飯行って」
餌を置く。
「猫、好きなんですって」
小虎さんはすぐに食べ始めた。
「小虎さんの写真、かなり真剣に見てました」
湊は少し笑う。
それから、ふと今日の美織の顔を思い出した。
店員へ向ける丁寧な笑顔。
独り言を拾われて笑った顔。
小虎さんを見た時の、力の抜けた目元。
同じ人なのに、少しずつ違う。
そのことが、なんとなく面白かった。
「また会うと思います」
小虎さんは食事に夢中で、もちろん返事はない。
湊も、それ以上は考えなかった。
五月三十一日。
雨の日に、二人は出会った。
六月一日。
名前を呼び、一緒に笑い、また会うかもしれない理由がいくつか増えた。
まだ二人の生活は、ほとんど何も変わっていない。
けれど、いつもの通勤路の中に。
昨日まではいなかった一人が。
ほんの少しだけ、輪郭を持ち始めていた。