あの雨の日から、ふたりは

第2章 会えない1日、会えた夕方


 六月二日。

 朝の駅前は、昨日と変わらない顔をしていた。

 改札から吐き出される人の流れ。信号が青へ変わる電子音。足早に歩く会社員と、その隙間を縫う自転車。前日の雨を忘れたように空は明るく、ビルの間を抜ける風にだけ、まだ少し湿り気が残っていた。

 美織はいつものように駅を出て、会社へ向かった。

 ただ、昨日までとひとつだけ違う。

 人混みを、少し見るようになっていた。

 探している、というほどではない。

 けれど、前方に背の高い人がいると一度だけ視線が向く。少し癖のある髪が見えると、横顔まで確認しそうになる。

 違う人だとわかれば、それで終わり。

 美織は自分でも、その変化を少し面白く思った。

 五月三十日までは、顔も姿も声も名前も知らなかった。

 それが今は、朝倉湊という名前を知っている。声も、笑った時の目元も、小虎さんという茶トラの猫と暮らしていることも知っている。

 一度「誰か」になった人は、もう完全な背景には戻らないらしい。

「大庭さん」

 横から名前を呼ばれて、美織は振り向いた。

「あ」

 今しがた頭に浮かべていた人が、そこにいた。

 湊は仕事用のバッグを肩へかけ、リムレスの眼鏡の向こうで、昨日と同じ穏やかな顔をしている。

「おはようございます」

「おはようございます、朝倉さん」

 返した声が、自分で思っていたより少しだけ明るかった。

 湊はそれを気にした様子もなく、自然に歩調を合わせる。

 二人はそのまま並んで歩き始めた。

 約束はしていない。

 けれど昨日もこうして歩いたからか、わざわざ「一緒に行きますか」と確認する必要を、どちらも感じなかった。

「昨日はありがとうございました」

 湊が言った。

 美織は横を見る。

「え。お礼したの、私のほうですよね」

「ご飯、ごちそうになったので」

「傘のお礼です」

「でも美味しかったです」

「それならよかったです」

 昨日の店の料理の話から、今日の仕事へ話題が移る。六月に入ったのに朝はまだ少し涼しいこと。駅前の工事がいつ終わるのかわからないこと。美織の会社では月初の確認作業が多いこと。湊のほうも、今日は午前中に打ち合わせが続くらしい。

 特別な話はひとつもしていない。

 けれど、美織にはそれが少し楽しかった。

 会社へ向かうだけだった10分の道に、昨日までなかった要素がひとつ増えたような感じがする。

 しかも相手は、普通なら街で見かけたら誰もが一度くらい振り返りそうなほど目立つ。

 顔がいい。

 背も高い。

スタイルがいい。

 服もセンスがいい。

 朝からずいぶん景色がいいな、と、少しだけ芸能人でも眺めるような気楽さで思う。

 それでいて、話してみると妙に構えなくていい。

 その組み合わせが、美織には今のところ純粋に面白かった。

 会社のビルが見えてくる。

「じゃあ、私はここで」

「はい。今日も頑張りましょう」

「朝倉さんも」

「また」

 湊が言う。

 美織も自然に返した。

「また」

 その言葉が、昨日より少しだけ現実味を帯びていた。


   *


 昼休み。

 美織は同僚と二人で、会社からまっすぐ3分ほどのコンビニへ向かった。

 二日前、突然の雨から逃げ込んだ店。

 昨日は湊と昼に顔を合わせた店。

 とはいえ、それ以前から使っている、ただのいつものコンビニでもある。

「今日何にしようかな」

 隣の同僚が弁当の棚を覗き込む。

「私、昨日お弁当だったから今日は麺かな」

 そう返しながら、美織も棚へ目を向けた。

 その時、通路の向こうで視線が合った。

 湊だった。

 彼の会社からなら、横断歩道を一つ渡って4分ほど。同じ店を使っていても、何も不思議ではない。

 ほんの一瞬だけ、互いの表情が変わった。

 湊の目元が明るくなり、美織の口元も自然に緩む。

 けれど、美織の隣には同僚がいた。

 湊もすぐにそれに気づいたらしい。

 わざわざこちらへ来ることはせず、軽く会釈をした。

 美織も同じように返す。

 それだけだった。

「知り合い?」

 同僚に聞かれて、美織は一瞬だけ考えた。

「うん。向かいの会社の人」

「へえー」

 同僚はそれ以上興味を示さず、また昼食選びへ戻っていく。

 美織も棚へ視線を戻した。

 向かいの会社の人。

 今のところ、それがいちばん正しい。

 雨の日に助けてもらった。

 何度か話した。

 一度食事もした。

 それだけ。

 けれど、さっき目が合った時の湊の顔を思い出すと、言葉にした途端、少しだけ情報が削られた感じもした。

 美織はそのことを、面白いな、と思う程度で終えた。


   *


 その日の帰り。

 湊が駅へ着いた時、改札へ向かう人の流れの少し先に、見覚えのある後ろ姿があった。

 まとめた髪。

 仕事用のバッグ。

 歩き方まで、もうなんとなくわかる。

 大庭さんだ。

 湊は反射的に歩調を速めた。

 声をかけるには、まだ少し遠い。

 夕方の駅前は朝より人が多く、何人かが間へ入るたびに姿が隠れる。

 もう少し近づけば名前を呼べる。

 そう思っているうちに、美織は改札を抜け、そのままホームへ続く階段へ向かった。

「大庭さ――」

 呼びかけるには遅かった。

 階段の途中で姿が見えなくなる。

 湊は改札の手前で足を止めた。

「……間に合わなかった」

 口から出た言葉を聞いて、自分で少しだけ眉を上げた。残念だ。

 別に約束をしていたわけではない。

 朝は一緒に歩いた。

 昼にも顔を見た。

 今日一日、会えなかったわけですらない。

 それでも、帰り際にもう少し話せなかったことが残念だった。

 何か用事があったわけではない。

 話したい話題があったわけでもない。

 ただ、朝の10分が思ったより心地よかった。

 昨日の食事もそうだった。

 何を話していても、時間を使った感じがちゃんと残る。

 何か有益な情報を得たという意味ではなく、話している時間そのものに損がない。

 湊は、そういう相手をあまり意識したことがなかった。

 だからたぶん、もう少し話したかった。

 それだけだと思った。

 それで十分だった。


   *


 六月三日。

 今度は、美織が先に湊を見つけた。

 駅を出て、会社へ向かう道を少し進んだところ。

 十メートルほど前。

 人の頭より少し高い位置に、見覚えのある柔らかな髪が見える。背が高いから、こうして一度覚えてしまえば、人混みの中でも見つけやすい。

 朝倉さん。

 心の中で名前が出た。

 声を出せば届く距離だった。

 美織は口を開きかけて、やめた。

 昨日も一緒に歩いた。

 一昨日も。

 でも、それは駅でたまたま会ったからだ。

 見つけるたびに自分から呼び止め、追いついて、一緒に歩く。

 そこまでしていい関係なのか、と考えた瞬間、いつもの「ちゃんとしておこう」という感覚が先に立った。

 知り合って、まだ数日。

 感じのいい人ではある。

 喋りやすい。

 見た目もかなりいい。

 でも、わざわざ追いかけるほどの仲ではない。

 美織はそう考えて、そのままの歩調で進んだ。

 前方の湊は、美織に気づかない。

 横断歩道が青になり、長い脚で人の流れと一緒に渡っていく。

 その姿が見えなくなってから、美織はほんの少しだけ思った。

 声、かけてもよかったかな。

 ただ、おはようございますと言うだけだったのに。

 それ以上でも、それ以下でもない。

「まぁ、いいか」

 美織は案外さっぱりと、そのまま会社へ入った。


   *


 午前中は忙しかった。

 打ち合わせをして、資料を直して、メールを返す。

 仕事をしている間、美織は朝のことをほとんど考えなかった。

 昼休みになって、いつものコンビニへ向かう。

 店に入った瞬間、視線が一度だけ店内を回った。

 レジ。

 飲み物の棚。

 弁当の棚。

 背の高い人影。

 いない。

 湊を表すワードを思い浮かべ、そこまで確認してから、美織は自分の視線の動きに気づいた。

 ――あ、見てた。

 少しおかしくなる。

 別に毎日いるわけではない。

 会社も違う。

 昼休みの時間だって、同じとは限らない。

「そりゃ、いない日もあるよね」

 小さく言って、昼食を選ぶ。

 昨日までなら何も感じなかった店内が、今日は少しだけ平坦に見えた。

 喋りやすくて、見た目もいい、ちょっと面白い人。

 会社へ来る日々に増えた小さな楽しみが、今日はたまたまない。

 美織にとっては、まだそのくらいだった。


   *


 湊が同じコンビニへ来たのは、それから30分近く後だった。

 午前中の打ち合わせが延びて、昼休みがずれ込んだ。

 店へ入る。

 飲み物を取る前に、なんとなく店内を見る。

 レジ周り。

 窓際。

 弁当の棚。

 いない。

 湊は一度だけ瞬きをした。

 昨日、美織が立っていた辺りにも目が行く。

「……今日は見てないな」

 小さく漏れた。

 朝も会っていない。

 昼もいない。

 それだけなのに、昨日までより一日が少し静かに感じる。

 別に話題があるわけではない。

 何かを伝えたいわけでもない。

 でも、顔を見れば何かしら喋る。

 その時間が存外好きだったのだと、会わない日になって初めてわかった。

 湊は弁当を手に取りながら、ほんの少しだけ残念そうに息を吐いた。


   *


 美織はその日、いつもより少し早く仕事を終えた。

 会社を出る。

 空はまだ明るさを残していて、駅へ向かう人の影が舗道に長く伸びている。

 10分の帰り道。

 朝は湊を見かけた。

 昼は会わなかった。

 今日は一度も話していない。

 そう思ってから、自分で少し笑う。

 何を数えているんだろう。

 六月一日の偶然が濃すぎただけだ。

 朝に会って。

 昼にも会って。

 夜には一緒に食事までした。

 昨日だって朝は一緒に歩いたし、昼にも顔を見た。

 そんな日が続けば、会うほうが普通みたいに錯覚する。

「……今日は普通の日か」

 呟いて、歩く。

 悪い意味ではない。

 いつもの仕事帰りだ。

 ただ少しだけ、昨日までより地味に感じる。

 会社へ行く一日の中に、ここ二日ほど急に増えたちょっとしたエンターテインメントが、今日は休演だった。

 そんな感じだった。

 横断歩道を一つ過ぎたところで、後ろから足音が近づいてきた。

 最初は、自分に向けられたものだとは思わない。

「――大庭さん!」

 名前を呼ばれて、美織は振り返った。

「え?」

 少し離れたところから、湊が走ってくる。

 仕事帰りの格好のまま、肩にはバッグ。長い脚で人の間を抜け、片手でずれた眼鏡の位置を直しながら、まっすぐこちらへ向かってくる。

 そして、顔。

 美織を見つけたことが、そのまま全部出ている。

 目が明るい。

 口元が緩んでいる。

 いつもの穏やかな笑顔より、ずっとわかりやすい。

 美織の頭に、ぼんやり大きな犬が浮かんだ。

 飼ったこともないのに、飼い主を見つけて全力で走ってくる大型犬。

 ――何、この人。

 こんなに格好いいのに。

 こんなに背が高くて、服も似合って、街中でも目立つのに。

 なんでこんなに曇りがないんだろう。

 湊は美織の前まで来ると、ひとつ息を吐いた。

「……朝倉さん?」

「よかった」

「何がですか?」

 美織が聞く。

 湊は、本当にそのまま答えた。

「見つけた」

 一拍。

 美織は言葉を返せなかった。

 何、その言い方。

 でも、顔を見ればわかる。

 狙っていない。

 変に格好つけてもいない。

 ただ、見つけたから嬉しかった。

 だから走った。

 それだけ。

 しかも、その「それだけ」が妙にまっすぐで、可笑しいくらい気持ちがいい。

 美織の中で、湊への好感度がまたひとつ上がった。

 顔がいい。

 喋りやすい。

 感じがいい。

 そこへ、変な濁りがない、が加わる。

「今日、会いませんでしたね」

 湊が言う。

 美織は少し笑いながら返した。

「……そうですね」

「朝もいなかったし」

「いましたよ」

「え?」

「朝。10メートルくらい前、歩いてました」

 湊が本気で驚いた顔をした。

「えっ。声かけてくださいよ」

「いや……なんとなく」

「なんとなく?」

「毎回、見つけるたびに声かけるのもどうなのかなって思って」

 湊は数秒、美織を見た。

 何を迷っていたのか、理解しようとしているようだった。

 やがて、少し首を傾ける。

「……僕は、声かけてほしいですけど」

 あまりにも普通に言うので、美織のほうが少し可笑しくなる。

「そうなんだ」

 つい、少しだけお姉さんじみた相槌になった。

「はい」

「じゃあ、次は声かけます」

「お願いします」

「お願いされることなんだ」

「だって今日、1回も話してないので」

 湊は本当に残念だったらしい。

 その顔を見ていると、美織はなんとなく「うんうん」と聞いてやりたくなる。

 もちろん、子ども扱いしているわけではない。

 ただ、この人は思っていることが顔にも言葉にも素直に出るんだな、と面白く思う。

 自分なら、一度も話せなかったくらいでここまでわかりやすくはならない。

 でも、嫌ではない。

 むしろ気分がいい。

 二人は並んで駅へ向かった。


   *


「午前中、打ち合わせ長引いたんです」

「だからお昼ずれてたんですね」

「大庭さんもコンビニ行ったんですか?」

「行きました」

「……いたんだ」

「いましたよ」

「今日、全部綺麗にすれ違ってますね」

「うん、そうですね」

 湊は本当に残念そうに言う。

 美織はそれを見ながら、また少し笑った。

 何を話しているわけでもない。

 朝見た、昼いなかった。

 そんな話だけで、この人はちゃんと楽しそうだ。

 駅の入口が見えてくる。

 このまま改札へ入れば、それぞれのホームへ向かう。

 自然な終わりだった。

 湊が少しだけ歩調を緩めた。

「あの」

「はい?」

「もし時間あったら……少し、お茶しませんか」

 美織が湊を見る。

 さっきまであれだけ素直に喋っていたのに、誘った途端だけ少し様子が変わった。

「なんか、このまま帰るのも……」

 言葉が続かない。

 理由をうまく説明できないらしい。

名残惜しい?

 美織は、その不器用さまで少し面白かった。

「いいですよ」

 そう答えた瞬間。

 湊の顔が、ぱっとほどけた。

「ほんとですか」

 子どもみたい、そう思って美織は思わず笑う。

「はい。そんなに喜びます?」

「……喜んでました?」

「かなり」

 湊は少しだけ照れたように目を逸らした。

 美織は、その様子を見ながら思う。

 この人、ずるいな。

 何も狙っていないのに、するすると距離が近くなる。

 近づこうとしている感じがないから、こちらも身構える理由がない。

 気づけば、昨日より今日のほうが、ずっと喋りやすくなっている。


   *


 駅前の商業エリアにあるコーヒーショップへ入った。

 ガラス張りの明るい店内には、仕事帰りの会社員や、パソコンを広げる学生がいる。昨日の最上階のレストランよりずっと気軽で、生活の途中へそのまま座れるような店だった。

 美織はカフェラテ。

 湊はブラックコーヒー。

 窓際の二人席に向かい合って座る。

「なんか、昨日より気楽ですね」

 美織はカップを両手で包みながら言った。

「昨日、緊張してました?」

「少しは。ほとんど初対面ですし」

「そうですよね」

「朝倉さん、全然そう見えなかったけど」

「僕も緊張してましたよ」

「え、本当に?」

「本当に」

 美織は少し疑うように湊を見る。

「傘の時から普通でしたよね」

「普通に見えるようにしてたわけじゃないです。あれは……声かける前が一番悩みました」

「そうなんですか?」

「かなり」

 湊はコーヒーへ目を落とした。

「怪しいかなとか、傘渡したら連絡先聞きたい人みたいに見えるかなとか」

 美織は思わず笑った。

「そこまで考えてたんですか」

「考えました」

「でも声かけたんだ?」

「走って帰りそうだったので」

「……うん、覚悟してました。あの日は、本当に助かりました」

 美織の声が少しだけ真面目になり深々と頭を下げる。

「駅まで結構ありますし。途中で傘なしで走ってる人見たじゃないですか。あれ見て、私も普通にああなってたなって」

「たしか、パソコン入ってたんですよね」

「そう。だから、改めてありがとうございます」

 湊は一瞬だけ美織を見て、それから穏やかに笑った。

「どういたしまして」

 今度は互いに、余計な遠慮を足さなかった。


   *


「そういえば、小虎さんって何歳なんですか?」

 美織が尋ねると、湊の目元が少し変わった。

「三歳です」

「三歳かあ」

「昨日の写真、まだ見ます?」

「見ます」

 パッと視線がスマホに向いた。答えが早かった。

 湊は笑いながらスマートフォンを取り出す。

「そんな即答します?」

「猫に関してはします。当たり前です」

 画面には、窓辺で丸くなっている小虎さん。段ボール箱へ無理に収まろうとしている小虎さん。湊のパソコンのキーボード前を陣取っている小虎さん。

 美織は一枚ずつ真剣に見る。

「この顔……いい〜」

「これ、作業させてくれなかった時です」

「絶対わかってやってる」

「ですよね」

「猫って人間が困る位置、正確に知ってますよね」

「知ってます」

 湊の返事にも妙な実感があって、美織は笑った。

「朝倉さん、家で仕事とかするんですか?」

「仕事というより、気になったこと調べ始めると止まらなくなる時があります。コード試したり」

「休日にも?」

「休日にも」

「ちゃんと休んでます?」

「小虎さんに止められます」

「なるほど。優秀な家族」

「僕よりですか」

「そこはまだ比較材料が足りないので」

「よかった。挽回できる」

 会話が自然に休日の話へ移っていく。

「大庭さんは、休みの日何してるんですか?」

「予定なかったら、まず寝ます」

 美織は指を1本立てると迷わず答えた。

「結構寝ます」

「意外です」

「何が意外なんですか」

「朝ちゃんとしてるので」

「平日はちゃんと起きますよ。休みだから寝るんです」

「何時くらいまで?」

「前の日によりますけど……十時とか十一時とか」

「結構ですね」

「引きました?」

「いや、いっぱい寝れて健康的だなと」

「絶対思ってないやつだ」

 美織が疑うように目をスッと細める。

 湊は少し笑った。それから話の続きを頬杖をついて待つ。

「起きたら、音楽かけてご飯作ることが多いです。時間ある時に、平日作らないもの作ったり」

「料理好きなんですね」

「好きです。自分が食べたいもの作るだけですけど」

「それが一番いい気がします」

「朝倉さんは? 小虎さんとずっと家?」

「家も好きです。出かけるの嫌いじゃないですけど、予定ないなら無理に作らないですね」

「わかります」

 美織はすぐにうんうんと頷いた。

「私も、何も予定ない休日、好きです」

「退屈しないですか?」

「しないです。寝て、珈琲飲んで、音楽流して料理して、気づいたら夕方」

「いいですね」

「いいですよ。幸せです」

 美織は本当に満足そうに言った。

 湊はその答えを、なんとなく気に入った。

 誰かと過ごさなければ休日にならない人ではない。

 一人の時間を普通に楽しめる。

 湊も同じだった。

 小虎さんがいて、好きなことをして、一日誰とも会わなくても困らない。

 だから余計に、こうして誰かと喋っている時間をわざわざ長く感じないことが、不思議で心地よかった。

「猫成分も補給しますけど」

 美織が付け足す。

「猫成分?」

「必要なんですよ。定期的に」

「何ですか、それ」

「不足すると猫カフェを検索し始めます」

「猫成分!」

 湊が笑い吹き出した。

 その笑い方を見て、美織も笑う。

 数日前までなら、知り合ったばかりの男性に「猫成分」なんて言ったかどうかはわからない。

 でも湊なら、そのくらい言っても変に受け取らない。

 そういう安心感だけは、もう少しずつできていた。


   *


 会話は、猫から珈琲へ、珈琲から音楽へ、また仕事へと行ったり来たりした。

 どちらも相手のことを知ろうと質問しているのに、面接のようにはならない。

 聞かれたことに答え、その答えの中で気になったことをまた聞く。

 途中、何度か沈黙もあった。

 美織がカフェラテを飲む。

 湊が窓の外を見る。

 店内のBGMが聞こえる。

 それでも気まずくない。

 美織にとっては、喋りやすい人と話している時間だった。

 湊にとっては、それよりもう少しだけ説明しにくい。

 何の話をしていても、ちゃんと時間を使った感じがする。

 相手を楽しませようと無理をしなくていい。

 黙っても気まずくない。

 だから、また話したくなる。

 それだけだった。

 先に時計へ気づいたのは美織だった。

「あ」

「どうしました?」

「結構、喋ってましたね」

 湊も時間を見る。

「ほんとだ」

 あっという間だった。思っていたより長くいた。

「そろそろ帰ります?」

 伺うように美織が言う。

「……そうですね」

 湊は少し間を置いてから頷く。

 けれど、二人ともすぐには立たなかった。

 数秒して、美織がカップを置く。

 ほぼ同時に湊も立ち上がった。

 タイミングが重なって、二人で笑う。

 そういうどうでもいいことまで、なんとなく楽しかった。


   *


 改札の前。

 二日前、初めて互いの名前を知った場所だった。

「今日はありがとうございました」

 美織が言う。

「こっちこそ。急に誘ってすみません」

「全然。楽しかったです」

 湊の顔がやわらかくなる。

「僕もです」

 美織は小さく頷いた。

「じゃあ、また」

 いつものようにそう言った。

 湊も頷く。

「はい、また明日」

 美織は一歩だけ動きかけて、止まった。

「……明日?」

 湊も、自分が何を言ったのかそこで気づいたらしい。

「あ」

 少しだけ目を見開く。

「いや、その……会えたら」

 言い直し方が妙に不器用で、美織は笑った。

「はい。会えたら」

「……はい」

 今度は湊が少し照れたように笑う。

 待ち合わせをしたわけではない。

 何時に駅で、と決めたわけでもない。

 それでも「また」は、いつかの話ではなくなった。

 明日、また顔を見られるかもしれない。

 そんな小さな予感が、初めて言葉になった。


   *


 帰りの電車。

 美織は吊り革につかまりながら、窓に映る自分をぼんやり見た。

 今日は朝から、ずっと湊とすれ違っていた。

 自分は見つけたのに声をかけなかった。

 昼は時間がずれた。

 帰りも、会わないと思っていた。

 なのに最後には、後ろから走ってきた。

 ――見つけた。

 あの時の声と顔を思い出す。

 美織は窓の外へ視線を逃がした。

「……ほんと、面白い人」

 格好いいのに、妙に曇りがない。なんだか、かわいい。

 大人なのに、会えたことをあんなにそのまま喜ぶ。

まるで、大型犬のよう。

 距離を詰めようとしている感じがないのに、気づけば昨日より近く感じる。

 そして最後には、「また明日」とまで言った。

 美織は少しだけ笑った。

 会社へ行く日々に、妙な楽しみが増えた。

 今のところ、それで十分だった。


   *


 同じ頃。

 湊は玄関を開けると、靴を脱ぎながら言った。

「小虎さん、ただいま」

 茶トラの小虎さんが、部屋の奥からこちらを見る。

「今日、大庭さんに会えましたよ〜」

 言ってから、湊は自分で少し笑った。

 今日の報告がそこから始まったことが、なんとなくおかしい。

「朝も昼も会わなかったんですけど」

 バッグを置く。身振り手振りしながら

「帰りに前歩いてて」

 小虎さんが尻尾を一度、床へ落とす。

「走りました」

 今度は、自分でもはっきり笑った。

「……見つけたら、普通に嬉しかったんですよね」

 急がなくてもよかった。

 追いつかなければ、また別の日に会えたかもしれない。

 でも、今日は一度も話していなかった。

 だから姿を見つけた時、ああ、いた、と思った。

 話せる、と思った。

 それだけで足が速くなった。

「お茶もしました」

 小虎さんはもう興味を失ったように顔を逸らした。

「聞いてます?」

 返事はない。

 湊は気にせず続ける。

「大庭さん、休みの日かなり寝るらしいです」

 小虎さんの耳だけが少し動く。

「ちゃんとしてる人だと思ってたんですけど。いや、ちゃんとしてるんですけど」

 湊は少し考える。

 仕事の話をする時の落ち着いた声。

 店員へ向ける丁寧な笑顔。

 気が緩んだ時に少し砕ける口調。

 猫の写真を見る時の真剣な顔。

 「猫成分」と大真面目に言うところ。

「思ってたより、いろんな顔する人なんですよね」

 そして、何を話していても妙に楽だ。

 自分の話を無理に面白くしなくていい。

 相手の話を聞くのも苦にならない。

 特別な話題がなくても、話した後に時間を無駄にした感じがしない。

 湊はそれがかなり気に入っていた。

「また明日って言っちゃいました」

 小虎さんは聞いているのか聞いていないのか、トトト、と餌の置いてある場所へ歩き始める。

「あ、ご飯ですね」

 湊もそちらへ向かった。

 少ししてから、ふと一人で笑った。

「……会えるかわからないのに」

 それでも、会えたらいいと思った。


 六月三日。

 二人の間に、約束らしい約束はまだなかった。

 ただ、「また」が少しずつ、次の日のほうを向き始めていた。
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