あの雨の日から、ふたりは
第2話 名前のある人
帰宅した湊は、玄関を開けるなり「ただいま」と言った。
茶色い縞模様の猫が、部屋の奥から顔を出す。
「小虎さん、ただいま」
靴を脱ぎ、傘を傘立てへ入れる。
その紺色を見て、さっきのことを思い出した。
「今日、ちょっと変わったことがあったんですよ」
小虎さんは答えない。
湊は慣れたものだった。
「傘なくて困ってる人がいて。最初、声かけたら怪しいかなと思ったんですけど」
ジャケットを脱ぎながら、続きを話す。
「結局、一緒に駅まで行きました」
小虎さんの尻尾が一度だけ床を叩く。
「綺麗な人でした」
言ってから、少し考える。
「でも、思ってたよりよく喋る人で」
笑い方も、話すテンポも思い出す。
「話しやすかったです」
小虎さんは興味をなくしたように向きを変えた。
「もう終わりますよ」
湊は笑った。
シャワーを浴びたあと、バッグを片づけようとして名刺が目に入る。
大庭美織。
声に出す必要はないのに、なんとなく心の中で名前を読む。
スマートフォンを見る。
別に、連絡が来ると決まったわけではない。
「お礼を」と言ってくれたのも、社交辞令かもしれない。
そう思った直後、メールの通知が入った。
見慣れないアドレス。
開く。
『朝倉さん
本日は本当にありがとうございました。
突然の雨で困っていたので、とても助かりました。
無事に帰宅しました。
また改めてお礼をさせてください。
大庭美織』
「……本当に連絡くれた」
湊は少しだけ笑った。
丁寧な文章。
駅で話していた時より、少しだけ距離を感じる。
でも、それが嫌ではなかった。
まだ今日会ったばかりなのだから、むしろ自然だ。
湊も同じくらいの温度で返信する。
その夜のやり取りは、それだけで終わった。
一方、美織も自宅で髪をほどき、銀色のピアスを外しながら、送ったメールを一度だけ見返していた。
「……ちょっと硬かったかな」
仕事のメールではない。
でも友人でもない。
知らない人ではなくなったけれど、親しい人でもない。
今の距離にちょうどいい言葉を選ぶと、どうしても丁寧になる。
まあいいか、とスマートフォンを伏せた。
今日一日の中で、少し変わった出来事があった。
それだけ。
美織はそう思って、その夜を終えた。
*
六月一日。
新しい月の最初の朝。
昨日と同じ駅。
昨日と同じ時間。
同じように改札から人が流れ出していく。
湊にとって、駅から会社までの道は、いつもならただの移動だった。
改札から吐き出される人の流れに乗って、信号を渡り、会社へ向かう。誰が前を歩いていたかも、誰とすれ違ったかも、普段はほとんど覚えていない。
昨日までなら、それで終わっていた。
けれど、その朝は人混みの中に見覚えのある後ろ姿が浮かび上がった。
仕事用にまとめられた髪。見覚えのあるバッグ。
昨日は「傘がなくて困っていた人」だった女性に、今は名前がある。
大庭さん。
大勢の中の一人だったはずなのに、一度知ってしまうと、そこだけ輪郭が濃く見える。
湊は特に迷わず声をかけた。
「おはようございます、大庭さん」
美織が振り返る。
一瞬だけ、誰だろうという顔をして。
すぐにわかった。
「あ。朝倉さん。おはようございます」
笑う。
昨日、名刺交換をした時と同じ、整った笑顔。
でも昨日の雨の中より少しだけ気安い。
「昨日はありがとうございました」
「いえいえ。ちゃんと帰れました?」
「はい。朝倉さんも濡れませんでした?」
「大丈夫でした」
「右肩、結構濡れてましたけど」
「見てたんですね」
「見えますよ、あれは」
自然な流れで、二人は並んで歩き始めた。
「大庭さん、いつもこの時間ですか?」
「だいたい。朝倉さんも?」
「僕もです」
「じゃあ、今まで同じ道歩いてたかもしれないですね」
「昨日も同じ話しましたね」
「あ、した。……あっ、しましたね」
口から出たあとで、美織は気づいた。
昨日、一本の傘に入れてもらって駅へ向かっていた時も、話しているうちに、返事の端が時々ほんの少しだけ砕けていた。本人としては、まだ知り合ったばかりの相手にはきちんと話しているつもりだったのだ。
湊は一瞬だけ目を丸くしたあと、昨日の傘の下での会話を思い出したらしい。目元をやわらかく細めて、くすっと笑った。からかうような笑いではなく、また少しだけ素の言葉が出たことを面白がるような、穏やかな笑顔だった。
「……何ですか」
「いえ」
「今、笑いましたよね」
「ちょっとだけ」
美織はじわじわ恥ずかしくなってきた。仕事でも私生活でも、相手との距離に合わせて言葉を選ぶことはずっと意識してきた。それなのに、この人の前では時々、考えるより先に素の言葉が出る。
「忘れてください」
「難しいですね」
「そこは忘れてください」
湊はまた少し笑った。
昨日の話をもう一度してしまったことより、美織のほうは今、自分の言葉遣いのほうがよほど気になっていた。
いつもの道は、話していると短い。
美織が自分の会社が入るビルの前で足を止めた。
「私、ここです」
「え」
湊も止まる。
道路の向こう側を指す。
「僕、あそこです」
横断歩道を挟んで、ほとんど向かい。
美織は思わず目を丸くした。
「近っ」
社会人らしい整った調子から、少しだけ素の声が出た。
湊が笑う。
「ほんとですね」
「こんな近くで働いてたんだ」
「気づかないものですね」
「気づかないですねえ」
「じゃあ、また」
「はい。また」
その「また」は、昨日より現実味があった。
同じ駅。
近い会社。
同じ時間。
会う可能性は、思っていたより高いらしい。
それだけのことだった。
*
昼休み。
美織は会社からまっすぐ三分ほど歩き、昨日と同じコンビニへ入った。普段から昼食や飲み物を買いに来る店で、美織にとっては昨日の出来事があってもなくても、いつもの行動範囲の中にある。
湊の会社から来るなら、横断歩道を一つ渡る。二人の会社のほぼ中間というほどではないが、どちらからも気軽に立ち寄れる距離だった。
飲み物を手に取り、昼食の棚の前へ向かう。
「あ」
先に声を漏らしたのは、どちらだったかわからない。
朝倉湊がいた。
「また会いましたね」
湊が言う。
「ほんとですね」
朝も会った。
昼も会った。
会社が近いのだから、考えてみれば不思議ではない。
それでも少し可笑しい。
二人で同じ棚を見る。
美織は惣菜と弁当を見比べながら、ほとんど自分へ向けて呟いた。
「何食べようかな……」
「これ、美味しかったですよ」
すぐ横から返事が来た。
美織はゆっくり顔を上げる。
「……聞こえてました?」
「え?」
「今の、独り言です」
湊の顔が止まる。
「あ」
「聞かれたと思いました?」
「普通に聞かれたのかと」
あまりにも真顔で答えるので、美織は耐えきれず笑った。
「独り言におすすめ返されたの、初めてです」
「すみません」
「謝らなくていいです。面白いから」
昨日より、笑い方が少し崩れた。
湊もつられて笑う。
「じゃあ、それにします」
「え、いいんですか」
「おすすめしたんだから責任取ってください」
「責任って何ですか」
「美味しくなかったら報告します」
「それは困るなあ」
やり取りをしながら、美織は自分でも少し不思議だった。
昨日会ったばかりの人にしては、会話が楽だ。
ただし、その理由まで考えるほどではない。
気を遣わなくていい、というより。
気を遣っているのに、その気遣いが疲れない。
まだ余所行きの笑顔も使う。
言葉も選ぶ。
でも、それだけではなくなり始めている。
本人はまだ、その小さな変化に気づいていなかった。
*
コンビニを出て、会社へ戻る道。
美織のビルが近づいたところで、湊が言った。
「大庭さん」
「はい?」
「今日、何時くらいに仕事終わります?」
美織は少しだけ目を丸くした。
仕事の終業時間を聞かれる理由が、すぐにはわからない。
「定時なら18時くらいですけど」
「あ、僕も同じくらいです」
「そうなんですね」
「帰りに、またお話しませんか」
「…………」
美織の中に、一瞬だけ疑問符が浮かぶ。
どうして。
でも、すぐに答えを見つけた。
「あ。傘のお礼の話ですよね」
湊が、一拍だけ止まる。
「……はい。それも」
「それも?」
「いえ」
湊は少し笑った。
本人にも、なぜもう少し話したいと思ったのか、まだ説明できなかった。
楽しかったから。
話しやすかったから。
それだけで十分だった。
「じゃあ、18時くらいにここで」
「わかりました」
「またあとで」
「はい」
美織は会社へ入る。
振り返るほどの理由はない。
けれど、入口の手前で一度だけ後ろを見た。
湊は横断歩道へ向かうところだった。
背が高い。
姿勢もいい。
やっぱり目を引く。
美織はごく小さな声で呟いた。
「……顔、いいなあ」
それ以上でも、それ以下でもない。
まだ、恋愛として考える材料ではなかった。
ただ。
見かけると少し得をした気分になる人。
話すと穏やかに楽しい人。
昨日まで存在すら知らなかった人にしては、ずいぶん情報が増えた。
帰宅した湊は、玄関を開けるなり「ただいま」と言った。
茶色い縞模様の猫が、部屋の奥から顔を出す。
「小虎さん、ただいま」
靴を脱ぎ、傘を傘立てへ入れる。
その紺色を見て、さっきのことを思い出した。
「今日、ちょっと変わったことがあったんですよ」
小虎さんは答えない。
湊は慣れたものだった。
「傘なくて困ってる人がいて。最初、声かけたら怪しいかなと思ったんですけど」
ジャケットを脱ぎながら、続きを話す。
「結局、一緒に駅まで行きました」
小虎さんの尻尾が一度だけ床を叩く。
「綺麗な人でした」
言ってから、少し考える。
「でも、思ってたよりよく喋る人で」
笑い方も、話すテンポも思い出す。
「話しやすかったです」
小虎さんは興味をなくしたように向きを変えた。
「もう終わりますよ」
湊は笑った。
シャワーを浴びたあと、バッグを片づけようとして名刺が目に入る。
大庭美織。
声に出す必要はないのに、なんとなく心の中で名前を読む。
スマートフォンを見る。
別に、連絡が来ると決まったわけではない。
「お礼を」と言ってくれたのも、社交辞令かもしれない。
そう思った直後、メールの通知が入った。
見慣れないアドレス。
開く。
『朝倉さん
本日は本当にありがとうございました。
突然の雨で困っていたので、とても助かりました。
無事に帰宅しました。
また改めてお礼をさせてください。
大庭美織』
「……本当に連絡くれた」
湊は少しだけ笑った。
丁寧な文章。
駅で話していた時より、少しだけ距離を感じる。
でも、それが嫌ではなかった。
まだ今日会ったばかりなのだから、むしろ自然だ。
湊も同じくらいの温度で返信する。
その夜のやり取りは、それだけで終わった。
一方、美織も自宅で髪をほどき、銀色のピアスを外しながら、送ったメールを一度だけ見返していた。
「……ちょっと硬かったかな」
仕事のメールではない。
でも友人でもない。
知らない人ではなくなったけれど、親しい人でもない。
今の距離にちょうどいい言葉を選ぶと、どうしても丁寧になる。
まあいいか、とスマートフォンを伏せた。
今日一日の中で、少し変わった出来事があった。
それだけ。
美織はそう思って、その夜を終えた。
*
六月一日。
新しい月の最初の朝。
昨日と同じ駅。
昨日と同じ時間。
同じように改札から人が流れ出していく。
湊にとって、駅から会社までの道は、いつもならただの移動だった。
改札から吐き出される人の流れに乗って、信号を渡り、会社へ向かう。誰が前を歩いていたかも、誰とすれ違ったかも、普段はほとんど覚えていない。
昨日までなら、それで終わっていた。
けれど、その朝は人混みの中に見覚えのある後ろ姿が浮かび上がった。
仕事用にまとめられた髪。見覚えのあるバッグ。
昨日は「傘がなくて困っていた人」だった女性に、今は名前がある。
大庭さん。
大勢の中の一人だったはずなのに、一度知ってしまうと、そこだけ輪郭が濃く見える。
湊は特に迷わず声をかけた。
「おはようございます、大庭さん」
美織が振り返る。
一瞬だけ、誰だろうという顔をして。
すぐにわかった。
「あ。朝倉さん。おはようございます」
笑う。
昨日、名刺交換をした時と同じ、整った笑顔。
でも昨日の雨の中より少しだけ気安い。
「昨日はありがとうございました」
「いえいえ。ちゃんと帰れました?」
「はい。朝倉さんも濡れませんでした?」
「大丈夫でした」
「右肩、結構濡れてましたけど」
「見てたんですね」
「見えますよ、あれは」
自然な流れで、二人は並んで歩き始めた。
「大庭さん、いつもこの時間ですか?」
「だいたい。朝倉さんも?」
「僕もです」
「じゃあ、今まで同じ道歩いてたかもしれないですね」
「昨日も同じ話しましたね」
「あ、した。……あっ、しましたね」
口から出たあとで、美織は気づいた。
昨日、一本の傘に入れてもらって駅へ向かっていた時も、話しているうちに、返事の端が時々ほんの少しだけ砕けていた。本人としては、まだ知り合ったばかりの相手にはきちんと話しているつもりだったのだ。
湊は一瞬だけ目を丸くしたあと、昨日の傘の下での会話を思い出したらしい。目元をやわらかく細めて、くすっと笑った。からかうような笑いではなく、また少しだけ素の言葉が出たことを面白がるような、穏やかな笑顔だった。
「……何ですか」
「いえ」
「今、笑いましたよね」
「ちょっとだけ」
美織はじわじわ恥ずかしくなってきた。仕事でも私生活でも、相手との距離に合わせて言葉を選ぶことはずっと意識してきた。それなのに、この人の前では時々、考えるより先に素の言葉が出る。
「忘れてください」
「難しいですね」
「そこは忘れてください」
湊はまた少し笑った。
昨日の話をもう一度してしまったことより、美織のほうは今、自分の言葉遣いのほうがよほど気になっていた。
いつもの道は、話していると短い。
美織が自分の会社が入るビルの前で足を止めた。
「私、ここです」
「え」
湊も止まる。
道路の向こう側を指す。
「僕、あそこです」
横断歩道を挟んで、ほとんど向かい。
美織は思わず目を丸くした。
「近っ」
社会人らしい整った調子から、少しだけ素の声が出た。
湊が笑う。
「ほんとですね」
「こんな近くで働いてたんだ」
「気づかないものですね」
「気づかないですねえ」
「じゃあ、また」
「はい。また」
その「また」は、昨日より現実味があった。
同じ駅。
近い会社。
同じ時間。
会う可能性は、思っていたより高いらしい。
それだけのことだった。
*
昼休み。
美織は会社からまっすぐ三分ほど歩き、昨日と同じコンビニへ入った。普段から昼食や飲み物を買いに来る店で、美織にとっては昨日の出来事があってもなくても、いつもの行動範囲の中にある。
湊の会社から来るなら、横断歩道を一つ渡る。二人の会社のほぼ中間というほどではないが、どちらからも気軽に立ち寄れる距離だった。
飲み物を手に取り、昼食の棚の前へ向かう。
「あ」
先に声を漏らしたのは、どちらだったかわからない。
朝倉湊がいた。
「また会いましたね」
湊が言う。
「ほんとですね」
朝も会った。
昼も会った。
会社が近いのだから、考えてみれば不思議ではない。
それでも少し可笑しい。
二人で同じ棚を見る。
美織は惣菜と弁当を見比べながら、ほとんど自分へ向けて呟いた。
「何食べようかな……」
「これ、美味しかったですよ」
すぐ横から返事が来た。
美織はゆっくり顔を上げる。
「……聞こえてました?」
「え?」
「今の、独り言です」
湊の顔が止まる。
「あ」
「聞かれたと思いました?」
「普通に聞かれたのかと」
あまりにも真顔で答えるので、美織は耐えきれず笑った。
「独り言におすすめ返されたの、初めてです」
「すみません」
「謝らなくていいです。面白いから」
昨日より、笑い方が少し崩れた。
湊もつられて笑う。
「じゃあ、それにします」
「え、いいんですか」
「おすすめしたんだから責任取ってください」
「責任って何ですか」
「美味しくなかったら報告します」
「それは困るなあ」
やり取りをしながら、美織は自分でも少し不思議だった。
昨日会ったばかりの人にしては、会話が楽だ。
ただし、その理由まで考えるほどではない。
気を遣わなくていい、というより。
気を遣っているのに、その気遣いが疲れない。
まだ余所行きの笑顔も使う。
言葉も選ぶ。
でも、それだけではなくなり始めている。
本人はまだ、その小さな変化に気づいていなかった。
*
コンビニを出て、会社へ戻る道。
美織のビルが近づいたところで、湊が言った。
「大庭さん」
「はい?」
「今日、何時くらいに仕事終わります?」
美織は少しだけ目を丸くした。
仕事の終業時間を聞かれる理由が、すぐにはわからない。
「定時なら18時くらいですけど」
「あ、僕も同じくらいです」
「そうなんですね」
「帰りに、またお話しませんか」
「…………」
美織の中に、一瞬だけ疑問符が浮かぶ。
どうして。
でも、すぐに答えを見つけた。
「あ。傘のお礼の話ですよね」
湊が、一拍だけ止まる。
「……はい。それも」
「それも?」
「いえ」
湊は少し笑った。
本人にも、なぜもう少し話したいと思ったのか、まだ説明できなかった。
楽しかったから。
話しやすかったから。
それだけで十分だった。
「じゃあ、18時くらいにここで」
「わかりました」
「またあとで」
「はい」
美織は会社へ入る。
振り返るほどの理由はない。
けれど、入口の手前で一度だけ後ろを見た。
湊は横断歩道へ向かうところだった。
背が高い。
姿勢もいい。
やっぱり目を引く。
美織はごく小さな声で呟いた。
「……顔、いいなあ」
それ以上でも、それ以下でもない。
まだ、恋愛として考える材料ではなかった。
ただ。
見かけると少し得をした気分になる人。
話すと穏やかに楽しい人。
昨日まで存在すら知らなかった人にしては、ずいぶん情報が増えた。