あの雨の日から、ふたりは
昼食は、ギャラリー近くの小さなカフェに入った。
大きな窓と木のテーブル。
美織はサンドイッチと珈琲。
湊はパスタ。
「やっぱり珈琲なんですね」
「好きだから」
「家でも飲むって言ってましたよね」
「飲みます。朝も」
「豆とかこだわるんですか」
「すごく詳しいわけじゃないけど、好きなのはあるよ」
言ってから、美織が少しだけ止まる。
「……あります」
湊が笑う。
「今、また出ましたね」
「聞かなかったことにしてください」
「無理です」
「その返し好きですね」
「大庭さんが何回も言うので」
美織は少し恥ずかしそうにしながらも、もう最初ほど本気で
直そうとはしていなかった。
湊も、そのほうが自然に見えた。
「今度、おすすめ教えてください」
「朝倉さん、珈琲飲むんですか?」
「飲みます。好きですよ?でも詳しくはないです」
「じゃあ、小虎さんの写真のお礼に教えます」
「小虎さん、働きますね」
「本人知らないけど」
また笑う。
仕事の話をしなくても、話題は尽きない。
会社という共通点がなくても、それぞれの休日や家での
過ごし方、食べ物、音楽、小虎さんの話で時間が進む。
美織は途中で思った。
この人といる時、話題を探す感じがない。
沈黙になっても困らない。
だから疲れない。
湊も似たことを感じていた。
相手を楽しませなければ、と力を入れなくていい。
美織は自分で面白いものを見つけるし、湊が何気なく話した
こともきちんと拾って会話がひろがる。
ずっと喋っている必要がないのに、気づけば会話が続いてる。
テンポがいいし、心地いい。
その感覚を、湊はかなり気に入った。
*
食後。
駅へ戻ろうと歩き始めたところで、美織が通り過ぎようとして
いた一軒の店へ目を止めた。足も止まった。
ウィンドウの中に、いろんな猫の雑貨が並んでいる。
マグカップ。
小さなポーチ。
文房具。
キーホルダー。
吸い込まれそうだな、と気づいた湊が美織を見る。
「……見たいです?」
「ちょっと」
「行きましょう」
「やった。いいんですか」
「僕も見たいです」
「小虎さん用?」
「自分用かも」
美織が目を丸くする。
「朝倉さん、猫グッズ持つんだ」
「持ちますよ」
「なんか意外」
「またですか」
「今日、意外なこと多い」
美織は笑いながら店へ吸い込まれた。
*
店内で、美織が手に取るものには少し傾向があった。
大きく猫の顔が描かれているものより、
よく見れば猫だとわかるもの。
色も、派手なものより落ち着いたもの。
湊はそれに気づいていた。
しばらくして、小さなポーチを一つ手に取る。
外側はほとんど無地。
ファスナーの引き手だけが、小さな猫の形になっている。
「ねぇ、大庭さん、これ好きそう」
美織が振り返る。
湊の手元を見る。
数秒、黙る。そして湊の顔を見る。
「……なんでわかったんですか」
「え?」
「こういうの、すごく好き」
「へー、そうなんですね」
「いや、当てた人が驚くのおかしいでしょ」
「なんとなくです」
「また便利な言葉」
美織は笑ってポーチを受け取る。
手の中で裏返して見る。
確かに好みだった。
目立たない。
でも、自分だけは猫だとわかる。
「いいな、買おうかな」
「気に入りました?」
「うん!」
また砕けた返事が出た。
今度は美織も気づいたが、言い直さなかった。
湊も何も言わなかった。
ただ少しだけ嬉しそうに笑った。
*
店を出る。
午後の街は、朝より人が増えていた。
気づけば、待ち合わせから何時間も経っている。
美織はバッグの中の新しいポーチを思い出す。
湊と会った。
写真展を見た。
昼を食べた。
雑貨店まで寄った。
それでも、長かったという感じがしない。
むしろ駅へ近づくにつれて、
――もう終わるんだ。
と思った。
少し先を歩く人の間を見ながら、美織はその感覚を面白く思う。
一人の休日も好きだ。
今日、一日誰にも会わなくてもそれはそれで楽しい。
それは何も変わらない。
でも今日は、誰かと過ごしても疲れなかった。
それが新しい。
湊のほうも、似たことを考えていた。
休日は小虎さんと家にいるのが好きだ。
一人で好きなことをしていても困らない。
それなのに今日は、帰る時間が近づいても
「やっと一人になれる」とは思わなかった。
まだ話せる気がした。
それが、自分には少し意外だった。
*
改札の前。
「今日はありがとうございました」
美織が言う。
「こっちこそ」
「写真展、よかった」
「よかったですね」
「小虎さん以外の猫もちゃんと見れたし」
「基準が小虎さんなんですね」
「そりゃそうでしょ」
美織が笑う。
そこで、ほんの少しだけ間が空いた。
平日の帰りなら、
「じゃあ、また明日」
と言える。
今日は土曜日だった。
次に会うのは、たぶん月曜日。
「じゃあ……また月曜」
美織が言った。
湊の顔がやわらかくなる。
「はい。また月曜」
その言葉を聞いて、美織は少しだけ安心したような気がした。
休日に会ったからといって、何かが変わるわけではない。
月曜になれば、また会社へ行く。
駅から同じ道を歩く。
それまでの日常に、今日の一日が一枚増えただけだ。
*
帰りの電車。
美織は座席に座ると、バッグの中から買ったポーチを
そっと、取り出した。
ファスナーの先の、小さな猫。
「……なんとなく、ね」
湊が選んだもの。
プレゼントではない。
自分で買った。
それでも、見ると今日を思い出す。
私服の湊。
写真展。
珈琲。
猫雑貨。
そして、待ち合わせで言われた言葉。
――すごく、いいです。
ああいうの、よくないよ朝倉さん。
美織はポーチをバッグへ戻した。
「……しかし目の保養、強かったな」
真帆の言葉を思い出して、ひとりで少し笑う。
でも今日増えたのは、それだけではなかった。
仕事では見えなかった話し方。
猫雑貨を普通に見るところ。
美織が好きそうなものを、なんとなく当てるところ。
仕事以外の場所でも、やっぱり喋りやすいこと。
知らなかった要素が、また増えた。
そのことが、普通に楽しかった。
*
一方。
帰宅した湊は、玄関を開けると小虎さんへ言った。
「ただいま」
茶トラが部屋の奥からこちらを見る。
「今日、写真展行ってきました」
靴を脱ぐ。
「大庭さん、すごい楽しそうでした」
バッグを置く。
そこで、朝の美織を思い出す。
仕事の日とは違う髪。
やわらかい服。
少し力の抜けた表情。
「……私服、ほんとよかったです」
言ってから、少し照れた。
「わー、いいなって思いました」
小虎さんは無言だった。
「いや、変な意味じゃなくて」
誰に弁解しているのか自分でもわからない。
湊は笑って、小虎さんの背を撫でる。
「仕事の時と違って、なんか柔らかくて」
それに。
猫を見ている時の顔。
雑貨を選んでいる時の迷い方。
珈琲の話をする時。
言葉遣いが少し崩れた時。
今日だけで、また知らなかった美織が増えた。
「ずっと一緒にいても、疲れなかったんですよね」
湊はぽつりと言った。
一人の休日は好きだ。
それは今日を過ごしたからといって変わらない。
でも。
「また、どっか行けたらいいですね」
小虎さんは何も答えない。
湊も、それ以上の理由は考えなかった。
月曜日になれば、二人はまた会社へ行く。
仕事の日の服を着て。
いつもの駅を使って。
いつもの道を歩く。
ただ、次に顔を合わせた時。
二人はもう、仕事をしていない相手の顔も知っている。