あの雨の日から、ふたりは
第七章 好きな人のいる月曜日
月曜日の朝。
美織は目が覚めて、しばらく天井を見ていた。
いつもの部屋。
いつものベッド。
カーテンの隙間から入る夏の光も、
枕元に置いたスマートフォンも、何も変わっていない。
なのに、目を開けて最初に浮かんだのは、
土曜日の人混みだった。
大きな手。
自分の肩を引き寄せた腕。
耳に残っている、一瞬だけ呼び捨てになった声。
――美織っ。
そのあと、少し慌てたように「さん」が続いた。
そこまで思い出して美織は布団の中で目を閉じた。
「……朝からやめよう」
誰に言っているのかわからない。
でも、もう誤魔化す必要はなかった。
湊が好きだ。
そうわかっただけで、土曜日までの出来事が
全部少し違って見える。
好きな人と映画を見た。
好きな人に肩を引かれた。
好きな人と手を繋いだ。
言葉に直すたび、同じ出来事なのに妙に眩しい。
美織は起き上がり、顔を洗って、いつものように
仕事へ行く支度を始めた。
鏡の前で髪をまとめる。
ピアスをつける。
ブラウスの袖を整える。
そこで、自分の手が目に入った。
土曜日、この手が湊の手の中にあった。
指が長かった。
骨ばっていた。
思っていたより温かかった。
それだけを思い出したつもりだったのに、
次に浮かんだのは肩を引かれた時の感覚だった。
近かった。
自分よりずっと高い位置に肩があって、
身体つきも思っていたよりもっとしっかりしていた。
普段は服越しに「肩幅あるな」と見ていたものが、
あの一瞬だけ、男の人の身体としてはっきりわかった。
現実にいるのに、どこか2次元みたいな男の人。
それがくっきりと温度を持った生身の人間として存在した。
美織は鏡の中の自分と目が合った。
もし、あれが咄嗟に支えられたんじゃなくて。
ちゃんと抱きしめられたら、どんな感じなんだろう。
「…………」
数秒。
「何考えてんの、朝から」
思わず片手で顔を覆う。
仕事に行く前に、休日の余韻に浸ってるなんて。
でも、嫌な想像ではなかった。
むしろ、想像した自分が思った以上に
胸がときめいたことのほうが問題だった。
美織は小さく息を吐き、バッグを持つ。
「仕事」
「そう、今日は仕事」
今日は月曜日だ。
会社へ行く。
そして、たぶん。
湊に会う。
*
同じ頃。
湊もまた、自宅で自分の手を見ていた。
小虎さんへ朝ご飯を出したあと、仕事に行くため着替えて
時計をつけようとして止まった。
右手。
土曜日、美織と繋いだ手。
人混みを抜ける途中で、少しだけ握り返された。
あの小さな力を、まだ覚えている。
「……」
湊は時計のベルトをパチン、と留めた。
好きだと気づいたのは、もっと前だった。
だから土曜日も、自分の気持ちは知っていた。
それでも、実際に触れたことで初めて知ったことがある。
美織の手が、自分の手よりずっと小さいこと。
肩を引いた時、思っていたより軽くこちらへ寄ったこと。
いつも目線を下げて話しているのに、
近くなると身長差が思った以上にはっきりすること。
映画館で顔を寄せた時、美織の声が近いだけで緊張したこと。
湊はネクタイのない襟元を鏡で確認しながら、ふと考えた。
もし、美織を抱きしめたら。
たぶん頭は、自分の顎より少し下にくる。
腕を回したら、背中まで簡単に届く。
土曜日に肩へ触れた時より、もっと近くなる。
そこまで想像して、湊は鏡の前で動きを止めた。
「……朝から何考えてるんだろう」
小虎さんが、足元から見上げている。
「いや、なんでもないよ」
聞かれてもいないのに答える。
小虎さんは湊の足元に擦り寄って一周するとどこかへ行った。
湊は気を取り直してバッグを持った。
会いたい。
昨日もそう思った。
今朝もそう思う。
好きな人が、いつもの駅から会社へ向かう。
それだけで、月曜日が楽しみだった。