あの雨の日から、ふたりは
駅前。
湊が先に美織を見つけた。
人の流れの向こう。
仕事の日の髪。
細い首元に、小さなしずく型のピアス。
肩にかけたバッグ。
いつもと同じ。
なのに。
――好きな人だ。
その言葉が浮かんだだけで、輪郭が一段明るくなる。
「美織さん」
少し離れているので、はっきりと呼ぶ。
美織が自分の声に気づいて振り返る。
目が合った瞬間、彼女の顔も少しだけ明るくなった。
「おはよう、湊くん」
いつもの挨拶。
でも二人とも、一拍だけ間があった。
土曜日の手を思い出したからだ。
「……おはようございます」
湊が少し照れくさそうに笑う。
美織もつられるように笑った。
二人は並んで歩き始める。
ここから、会社までたったの10分。
もう何度も歩いた道だった。
*
「土曜日、楽しかったね」
美織が先に出かけた日の話をしだした。
「はい。グルメフェス、思ったより大きかったです」
「タコスまた食べたい」
「結局そこですか」
「うん、だって美味しかったもん」
思い出したら口が恋しいと笑う。
会話は普通だった。
それが少し嬉しかった。
気持ちに気づいたからといって、
急にぎこちなくなるわけではない。
昨日まで積み重ねてきたものは、ちゃんと残っている。
ただ、その上に新しい意味が一枚増えた。
信号で止まる。
美織の右手が、湊の左手のすぐ近くにある。
二人とも、ほとんど同時にそこを見た。
目が合う。
「……」
「……」
先に笑ったのは美織だった。
「今、手見た?」
湊は一瞬だけ困った顔をする。
「美織さんも見てましたよね」
「私は、たまたま」
「僕もたまたまです」
「じゃあ、お互いたまたま」
「そういうことにします?」
「そうしよ」
二人で笑う。
追求はしない。
信号が青になる。
今日は手を繋がない。
必要もない。
それでも、隣を歩く手の位置を少しだけ意識してしまう。
そのことまで、何だか嬉しかった。
*
美織は歩きながら、湊の腕を見た。
仕事用のシャツ。
袖口から見える手首。
時計。
その先の、大きな手。
今までも何度も見ていたはずなのに、
今日はくっきりと細部まで目に入る。
自分より骨が大きい。
指の関節もしっかりしている。
血管の浮く手の甲が色気がある。
肩幅もある。
歩く時の一歩も、自分より長い。
ああ、男の人だ。
当たり前のことを、今さら確認している。
「美織さん?」
「え」
「また見てました?」
「……うん、今は見てた」
美織はもう誤魔化さなかった。
湊が素直な返事をもらって少し目を丸くする。
「何をですか」
「別に。湊くん、手大きいなと思って」
言ってから、美織のほうが少し照れた。
湊は数秒、返事が遅れた。
照れ顔が、胸に刺さったのだ。
「……美織さんが小さいんじゃないですか」
「身長差の話?」
「手も」
「昨日比較したから?」
今度は湊が完全に黙った。
唇が真っ直ぐ結ばれて、明らかに照れている。
美織はその反応を見て笑った。
「湊くん、わかりやすいね」
「美織さんも今日は結構わかりやすいですよ」
「何が」
「わかりやすいです」
「……そう?」
「はい」
湊は屈託なく笑った。
その顔を見るだけで、美織の胸が少し跳ねる。
昨日までと同じ笑顔なのに。
好きな人の笑顔だと思うと、ずるいくらい効く。
*
会社の前。
「じゃあ、また」
湊が言う。
「うん。またあとで会えたら」
美織が返す。
湊は横断歩道へ向かう。
美織はビルへ入る。
数歩進んでから、美織は一度振り返った。
湊の背中が見える。
いつもの仕事の日。
なのに、少しだけ嬉しい。
好きな人を朝見た。
それだけで、午前中を少し機嫌よく始められる。
美織は自分でも可笑しくなった。
会社のビルに入るだけなのに、足が軽い。
*
「美織」
午前中の確認作業が一段落した頃、真帆がデスクの横へ来た。
「今日、なんかすごい機嫌いいね」
「そう?」
「うん。朝からちょっと口元ゆるい」
美織は画面を見たまま、数秒黙った。
以前なら「気のせい」で流したかもしれない。
今日は。
「……ちょっとね」
そう言って笑った。
真帆の目が少し大きくなる。
「へえ」
「何」
「いや。前にも聞いたなと思って」
「何を」
「“ちょっとね”」
真帆は嬉しそうに笑う。
美織は少しだけ頬を熱くした。
「さ、仕事しよ」
「はいはい」
真帆は自席へ戻りながら、無理に問い詰めなかった。
ただ、美織の「ちょっとね」が前よりずっと
柔らかかったことだけは、しっかり見ていた。
*
湊の会社でも、似たようなことが起きていた。
「朝倉ー」
瀬尾がデスクの横へ立つ。
「はい?」
「お前、今日さらに機嫌いいな」
湊は一度目を瞬いた。
以前なら、本気で理由がわからなかった。
今日はわかる。
「そうですか?」
口では同じことを言いながら、口元が少し上がる。
瀬尾が指を差した。
「それ。それだよ」
「何ですか」
「自覚ある顔になった」
湊が一瞬止まる。
「……何の話ですか」
「さあ?」
瀬尾はにやっと笑う。
そこへ久世が通りかかった。
「何してる」
「朝倉観察」
「仕事しろ」
「はい、すんません」
瀬尾がそそくさと自席へ戻る。
久世は湊を一度見た。
口元。
目元。
それから何も聞かずに、
「まあ、いい月曜ならよかったな?」
とだけ言った。
湊は少し笑う。
「はい」
そのやり取りを自席でに見ていた瀬尾も、
満足そうに笑っていた。