あの雨の日から、ふたりは


 夕方。

 湊の会議は予定より長引いた。

 美織は先に仕事を終えて、帰る準備も終わっていた。

 以前なら、そのまま帰ったかもしれない。

 今日はスマートフォンを開く。

『まだ?』

 打ってから、消す。

 彼女か、と自分でツッコミをいれる。

待っているみたいで少し恥ずかしい。

 でも、待っている。

 少し話したい。

 ちょっとでいいから、会いたい。

 もう、その気持ちを自分には隠さなくていい。

 美織はうーんと考えて、別の文にした。

『会議終わった?』

 ……数分後。

『今終わりました。いやー長引きました』

 本当に長丁場だったんだね、と返信していたら、さらに続き

『まだ会社ですか?』

 おっと?美織は打っていた文章を慌てて消して返信する。

『うん。今出るとこ』

 湊からすぐ返事が返ってきた。

『じゃあ、駅まで一緒に行きたいです』

 美織の胸が、強く鳴った。

 言い方が、まっすぐだ。

 会えたら、ではない。

 一緒に行きたい。

 美織は画面を見ながら、じんわりと笑った。

『じゃあ下で待ってるね』

 送信。

 好きな人を待つ。一緒に帰れる。

その言葉を心の中で言うだけで、月曜の夕方が急に特別になる

まるで学生時代に戻ったような感覚だ。

ただ、仕事を終えて帰るだけの足が、また軽くなる。

 


   *


 美織が会社を出ると、湊は横断歩道の向こうから走らずに、
でも少し早足で渡って、こちらに向かってきた。

「お待たせしました」

「そんな待ってないよ」

「すみません。会議長くて」

「仕事だから仕方ない仕方ない」

 二人は自然と並ぶ。

 夕方の10分。

 朝と同じ道を、今度は駅へ向かって歩く。

出逢ってからもう何度目だろう。

「疲れた?」

 疲れを感じる目元に気づいて、美織が聞く。

「ちょっと……今日は疲れましたね」

「じゃあ、ご飯食べて帰る?」

 帰って休んでね、ではなく、自然に誘いに出た。

 湊はそれにすぐ笑って言う。

「行きたいです、もちろん」

「ふふ、何食べよっか」

「何でもいいです」

「それ一番困るやつって、知ってる?」

「じゃあ……美織さんが食べたいもの?」

「自主性ゼロ。同じじゃないの」

 このテンポのいい、やりとりが楽しい。
二人で仕事の疲れも忘れて笑う。


   *


 途中、信号待ちで並んだ時。

 風が少し強く吹いた。

 美織の髪が頬へかかる。

 湊は一瞬、手を伸ばしかけた。

 払いたい。

 そう思った。

 でも、しなかった。

 【まだ】その触れ方をしていいわけではない。

 美織は自分で髪を耳へかける。

 その仕草で、首筋としずく型のピアスが見えた。

 湊は目を逸らすほどではない。

 でも、前より意識する。

 綺麗だ、と思う。

 同時に、抱きしめたらこの人はどんなふうに腕の中へ
収まるんだろう、と朝の想像が急に戻ってきた。
ああ、あぶない。
 湊は小さく息を吐いた。

「どうしたの?」

 溜息かと思った美織が問いかける。

「えっ!いや。なんでもないです」

「今日それ多いね」

「美織さんもです」

「そうだっけ」

「そうです」

 また照れくさそうに笑って前を向く。

 美織も同じように、湊の横顔をそっと見る。

 顎のライン。

 首。

 肩。

 シャツ越しでもわかる体格。

 もし抱きしめられたら。

 今度は咄嗟ではなく、ちゃんと。

 そう考えて、自分で少し頬が熱くなる。

 でも、もう「何考えてるの」と自分を責める気はなかった。

 ああ、私の好きな人だ。

 そういう想像をすることくらい、ある。

しばらくぶりの感情に、浸っている。

 むしろその事実が、少し嬉しかった。


   *


 なんだかんだ探しながら、
結局夕食は、駅近くの小さな洋食店へ入った。

 特別な店ではない。

 美織はドリア。

 湊はハンバーグ。

 仕事の話を少しして。

 瀬尾が会議で妙な例えをした話をして。

 真帆が昼に新商品へ挑戦して結局定番へ戻った話をして。

 土曜日のフェスの写真を見返して。

 次の休日に何をするか、まだ決めていないことを話した。

 何も大きなことは起きない。

 でも。

 好きな人と食べるご飯。

 好きな人が自分の話で笑う。

 好きな人が「これ美味しい」と言う。

 その一つ一つが、今日は妙に嬉しい。

 気持ちに名前がつくと、世界が劇的に変わるわけではなかった。

 ただ、今まで見えていたものへ、少し光が増えた。


   *


 改札の前。

「じゃあ、また明日」

 ばいばい、と手を振って美織が言う。

「はい。また明日」

 湊が笑って手を振り返す。

 もう、その言葉に驚かない。

 明日また会いたい。

 それを自然に口にできる。

 美織は一歩離れてから、ふと思った。

 好きな人がいる月曜日。

 悪くない。

 むしろ、かなりいい。

スキップしたい気分だった。
しないけど。


   *


 帰宅した湊は、小虎さんの隣へ座った。

「ただいま」

 小虎さんが顔を上げて尻尾を一度動かす。

「今日、美織さんと朝会って、昼も会って、夜もご飯食べました」

 ぱたん。

「なんと、一日に三回です」

 じっと見てくるが反応は薄い。

 湊は気にせずに笑う。

「でも、まだ会いたいんですよね」

 自分で言って、少し驚く。

 重たい感じではない。

 足りないと苦しくなるわけでもない。

 ただ、好きな人だから。

 顔を見たら嬉しい。

 声を聞いたら嬉しい。

 また会えたらもっと嬉しい。

「単純ですね、俺って」

 小虎さんは何も答えない。

 湊は自分の右手を見る。

 土曜日の感触は、もう薄れている。

 それでも、記憶は残っている。

 いつかまた触れられたらいい。

 今度は人混みを理由にしなくても。

 そんな日が来たらいいと思った。


   *


 美織も自宅で、ソファに座りながら猫のクッションを抱いて
同じようなことを考えていた。

 ……好きな人。

 その言葉は、昨日より少し馴染んでいる。

 ……湊くん。

 名前を心の中で呼ぶと、胸があたたかくなる。

 朝、見た。

 昼も見た。

 夜は一緒にご飯を食べた。

 それでも、連絡が来たらきっと嬉しい。

 美織は少し笑った。

 片思いだとか、今後どうなるんだろうとか、
今はそういうことを考えなかった。

 答えを急ぐ必要も感じない。

 ただ、自分がこの人を好きだということが嬉しい。

 この人と過ごしてきた時間が、
その気持ちへ繋がったことが嬉しい。

 そして明日。

 また会えたら、きっともっと嬉しい。



それぞれの夜を過ごすふたりは、同じことを思う。

 好きだと知ったあとの日常は、昨日までとほとんど同じだった。

 朝の道も。

 コンビニも。

 仕事終わりの10分も。

 交わす言葉も。

 何も変わっていない。

 それでも二人には、すべてが少しだけ眩しく見えた。

 目の前にいる相手が、もうただの「いつもの人」ではない。

 僕の。

 私の。

 好きな人。

 そう思えるだけで、同じ一日が少し嬉しくなる。

 七月の月曜日は、そんなふうに始まった。
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