あの雨の日から、ふたりは
第6章 近すぎる、距離
七月に入ってから、
湊は美織を名前で呼ぶようになった。
最初の数日は、そのたびに自分の中で小さな変化が次々と起きた。
「あ、美織さん」
朝、駅を出たところで呼ぶ。
振り返った美織が、
「おはよう、湊くん」
と返す。
それだけで、胸の内側に静かに何かが落ちる。
名字で呼んでいた頃と、目の前にいる人は何も変わらない。
服も、声も、歩き方も同じ。
けれど名前を口にすると、以前より少しだけ近い場所へ入る許可をもらったような気がした。
美織さん。
家族や昔からの友人ならともかく、知り合って一か月ほどの自分がそう呼んでいい。
その事実が、思っていた以上に嬉しい。
湊はもう、自分の気持ちに気づいていた。
美織が好きだ。
それは、ある日突然生まれたものではなかった。
話していて楽しい。
会えたら嬉しい。
小虎さんの写真を見せたい。
何かを見つければ、美織さんならどう言うだろうと思う。
休日に会いたい。
帰り道が同じなら、少し長く話したい。
名前で呼べるようになって、その全部が同じ方向を向いていることが、ようやくわかった。
ただ、わかったからといって、急に何かを変えようとは思わなかった。
今の関係が好きだった。
美織が自然に笑うこと。
たまに敬語が抜けること。
気を遣いすぎずに一緒にいられること。
それを自分の気持ちのために急いで変えてしまうほうが、湊には違う気がした。
片思いだとか、自分の気持ちに名前はつかなかった。
ただ、この人が好きだなぁ、好きなんだなと心で思う。
ただそれだけ。
だから七月の最初の二週間も、表面上は六月とほとんど変わらなかった。
*
朝、会えば一緒に歩く。
「今日暑いですね」
「ほーんと、まだ朝なのにね」
「美織さん、日傘使わないんですか」
「持ってるけど、通勤で荷物増えるの嫌なんだよね」
「わかります」
「湊くんは日焼けとか気にしなそう」
「そんなに外いないので」
「ITっぽい」
「うわ、偏見です」
昼、コンビニで会えば少し話す。
「それ新しいやつ?」
「はい。瀬尾が美味しいって」
「瀬尾さん信用できる?」
「食べ物はかなり」
「じゃあ私も買お」
「それ僕の感想じゃなくて瀬尾の信用じゃないですか」
「信用の連鎖。より安心」
帰りが重なれば、ご飯を食べる日もある。
メールも続く。
『小虎さん、またパソコンの上です』
『仕事させる気ないね』
『今日は完全に妨害です』
『小虎さんが正しい。休めってこと』
『美織さんまでそっち側なんですか』
『もちろん小虎さんの味方です』
そんなやり取りが、何日も何週間も積み上がっていく。
湊はその間ずっと、美織を好きだと知っている。
けれど、その気持ちを知ったからこそ、美織の一つ一つを前より慎重に受け取るようにもなった。
名前を呼んだ時に笑う。
メールの返信が少し砕けている。
休日の予定を聞けば、自然に空いている日をするっと教えてくれる。
そういうことが嬉しい。
でも、全部を自分に都合よく意味づけたくはなかった。
美織が自分といる時間を好きでいてくれる。
それは確信めいたもの。
今は、それだけで十分だった。
*
一方、美織は。
自分が湊をどう見ているのか、まだ積極的に考えないまま過ごしていた。
湊くん。
名前で呼ぶようになってから、少しだけ親しみは増した。
朝見つければ、以前より気軽に手を上げる。
メールで変な小虎さんの写真が来れば、仕事中でも口元が緩む。
休日の予定を決める時も、もう妙に構えない。
それでも、美織の中ではまだ、
喋りやすいな。
一緒にいると楽しいな。
顔がいいな。
目の保養だなぁ。
そのあたりで説明がついていた。
少なくとも、本人はそう思っていた。
「美織」
『あの雨の日から、ふたりは』
第六章 近すぎる距離【第二稿】
七月に入ってから、湊は美織を名前で呼ぶようになった。
最初の数日は、そのたびに自分の中で小さな変化が起きた。
「美織さん」
朝、駅を出たところで呼ぶ。
振り返った美織が、
「おはよう、湊くん」
と返す。
それだけで、胸の内側に静かに何かが落ちる。
名字で呼んでいた頃と、目の前にいる人は何も変わらない。
服も、声も、歩き方も同じ。
けれど名前を口にすると、以前より少しだけ近い場所へ入る許可をもらったような気がした。
美織。
家族や昔からの友人ならともかく、知り合って一か月ほどの自分がそう呼んでいい。
その事実が、思っていた以上に嬉しい。
湊はもう、自分の気持ちに気づいていた。
美織が好きだ。
それは、ある日突然生まれたものではなかった。
話していて楽しい。
会えたら嬉しい。
小虎さんの写真を見せたい。
何かを見つければ、美織さんならどう言うだろうと思う。
休日に会いたい。
帰り道が同じなら、少し長く話したい。
名前で呼べるようになって、その全部が同じ方向を向いていることが、ようやくわかった。
ただ、わかったからといって、急に何かを変えようとは思わなかった。
今の関係が好きだった。
美織が自然に笑うこと。
たまに敬語が抜けること。
気を遣いすぎずに一緒にいられること。
それを自分の気持ちのために急いで変えてしまうほうが、湊には違う気がした。
だから七月の最初の二週間も、表面上は六月とほとんど変わらなかった。
*
朝、会えば一緒に歩く。
「今日暑いですね」
「まだ朝なのにね」
「美織さん、日傘使わないんですか」
「持ってるけど、通勤で荷物増えるの嫌なんだよね」
「わかります」
「湊くんは日焼けとか気にしなそう」
「そんなに外いないので」
「ITっぽい」
「偏見です」
昼、コンビニで会えば少し話す。
「それ新しいやつ?」
「はい。瀬尾が美味しいって」
「瀬尾さん信用できる?」
「食べ物はかなり」
「じゃあ私も買お」
「それ僕の感想じゃなくて瀬尾の信用じゃないですか」
「信用の連鎖」
帰りが重なれば、ご飯を食べる日もある。
LINEも続く。
『小虎さん、またパソコンの上です』
『仕事させる気ないね』
『今日は完全に妨害です』
『小虎さんが正しい。休めってこと』
『美織さんまでそっち側なんですか』
『猫側です』
そんなやり取りが、何日も何週間も積み上がっていく。
湊はその間ずっと、美織を好きだと知っている。
けれど、その気持ちを知ったからこそ、美織の一つ一つを前より慎重に受け取るようにもなった。
名前を呼んだ時に笑う。
LINEの返信が少し砕けている。
休日の予定を聞けば、自然に空いている日を教えてくれる。
そういうことが嬉しい。
でも、全部を自分に都合よく意味づけたくはなかった。
美織が自分といる時間を好きでいてくれる。
今は、それだけで十分だった。
*
一方、美織は。
自分が湊をどう見ているのか、まだ積極的に考えないまま過ごしていた。
湊くん。
名前で呼ぶようになってから、少しだけ親しみは増した。
朝見つければ、以前より気軽に手を上げる。
LINEで変な小虎さんの写真が来れば、仕事中でも口元が緩む。
休日の予定を決める時も、もう妙に構えない。
それでも、美織の中ではまだ、
喋りやすい。
一緒にいると楽しい。
顔がいい。
目の保養。
そのあたりで説明がついていた。
少なくとも、本人はそう思っていた。
「美織」
昼休み。
真帆が向かいでサンドイッチを食べながら言う。
「最近さ」
「うん」
「朝倉さんの話、普通にするようになったね」
美織は一瞬だけ目を上げた。
「そう?」
「うん。『湊くんがさ』って」
「名前で呼ぶようになったからでしょ」
「それもそうだけど」
真帆は少し笑う。
「前より、話す時の顔がやわらかい」
「また顔の話?」
「同期だからわかるの」
美織はサラダへ視線を落とす。
「楽しいからじゃない?」
「うん。そうだと思う」
真帆はそれ以上続けなかった。
美織も、続きを求めなかった。
楽しい。
それは本当だった。
*
七月三週目の土曜日。
二人は映画を見に行くことになった。
きっかけは、平日のLINEだった。
『これ、気になってるんですけど』
湊が送ってきたのは、公開されたばかりのサスペンス映画。
『私も予告見た』
『行きます?』
『行く』
それだけで決まった。
以前なら休日に二人で映画を見るという予定に、もう少し意味を感じたかもしれない。
今は、行きたいものが同じだから行く。
その自然さが、二人にはもうあった。
*
映画館の前。
湊は先に着いていた。
美織を見つけるのは、もうかなり早い。
人混みの向こうで、やわらかな色のトップスと、薄手の羽織り。今日はパンツスタイルで、髪は下ろしている。
湊は彼女を見つけた瞬間、口元が緩む。
好きだと自覚してから、この反応を隠せる気はあまりしなかった。
「美織さん」
呼ぶ。
美織がこちらを見る。
「お待たせ」
「全然。僕も今来たところです」
「ほんと?」
「五分前です」
「それは今来たって言っていいね」
並んで映画館へ入る。
美織は一度、湊を横目で見た。
今日も顔がいい。
私服も似合っている。
目の保養。
いつもの、便利な言葉。
そう思った。
その時までは。
*
座席は横並びだった。
中央より少し後ろ。
上映前の明るい館内では、特に何も変わらない。
「飲み物、何にします?」
「アイスコーヒー」
「やっぱり」
「湊くんは?」
「炭酸」
「映画館っぽい」
「どういう分類ですか、それ」
ポップコーンは一つ。
塩味とキャラメルで迷って、結局ハーフにした。
席に着く。
肩と肩の間に、肘掛けひとつ。
それだけの距離。
美織は何も思わなかった。
照明が落ちるまでは。
*
館内が暗くなる。
スクリーンの光だけが、隣にいる湊の横顔を断片的に照らす。
そこで初めて、美織は距離を意識した。
近い。
思っていたよりずっと。
明るい場所では何でもなかったのに、暗闇になると隣にいる人の気配が大きくなる。
肘掛けの向こうにある腕。
ポップコーンへ伸びる手。
わずかに聞こえる呼吸。
低い声。
知っているものばかりなのに、いつもと違う。
――近いな。
美織はスクリーンを見る。
映画へ集中すればいい。
そう思う。
できるはずだった。
けれど、隣の存在がときどき視界の外から意識へ入ってくる。
スクリーンの光が湊の鼻筋と顎の線を浮かび上がらせる。
そのたびに、美織は内心で思う。
顔がいい。
だから。
目の保養だから。
それだけ。
そう言い聞かせるほど、なぜか落ち着かなくなった。
*
映画の中盤。
突然、大きな音が響いた。
美織の肩が小さく揺れる。
その直後。
「大丈夫です?」
湊が顔を寄せた。
耳元。
近い。
声が低い。
美織は反射的に横を向いた。
目の前に、湊の顔がある。
思っていたより近かった。
「……大丈夫」
小声で返す。
湊はすぐ前へ向き直る。
それだけ。
それだけなのに、美織の心臓だけが一気に速くなった。
映画のせいではない。
そこはもう、誤魔化せなかった。
*
少しして。
今度は美織のほうが、小さな声で言った。
「今の人、怪しくない?」
「え?」
湊が聞き取ろうと、また少し顔を寄せる。
近い。
「さっきの人」
「ああ。僕もそう思います」
耳元へ返ってくる声。
美織は前を向いたまま、喉の奥で小さく息を飲んだ。
どうして今まで、平気だったんだろう。
朝一緒に歩いた。
何度もご飯を食べた。
休日を一緒に過ごした。
名前で呼び合うようになった。
それなのに、こんなふうに距離を意識したことはなかった。
いや。
意識しないようにしていただけかもしれない。
この人は喋りやすい。
一緒にいると楽しい。
顔がいい。
目の保養。
その説明でずっと止めていた。
それ以上考えたら、今の心地よさが変わってしまいそうだったから。
美織はスクリーンを見つめる。
映画の内容はちゃんと頭へ入っている。
でも、その横で別のこともはっきりしていく。
湊は、男の人だ。
自分は今、この人を異性として意識している。
その認識が、静かに、でも確実に落ちた。
*
上映が終わり、照明がつく。
「面白かったですね」
湊が言う。
「うん」
美織はいつも通りに返したつもりだった。
「美織さん?」
「何?」
「なんか、ぼーっとしてます?」
「映画の余韻」
「なるほど」
湊は疑わなかった。
美織は少しだけ安心した。
明るい場所へ出る。
人の声。
夏の湿った空気。
白い日差し。
全部がいつもの世界へ戻してくれる。
けれど、美織の中だけは映画を見る前と同じではなかった。
*
映画館を出てしばらく歩くと、大きな公園の周辺が賑わっていた。
音楽。
旗。
人の流れ。
そして十台以上のキッチンカー。
「何これ」
美織の表情がぱっと明るくなる。
「グルメフェスみたいですね」
「え、行きたい」
「行きましょう」
「即決」
「美織さんがもう行く顔してるので」
「そんな顔してた?」
「してました」
美織は少し笑った。
映画館での落ち着かなさが、食べ物を前にするといったん遠のく。
タコス。
スパイスカレー。
ホットサンド。
焼きたてのソーセージ。
台湾風の屋台料理。
クラフトレモネード。
「待って、あっちも美味しそう」
「さっきタコスって言ってませんでした?」
「それとこれとは別」
「別なんだ」
「湊くん何食べたい?」
「美織さんが選んだのでいいです」
「それ一番困るやつ」
笑いながら歩く。
いつもの二人に戻ったように思えた。
*
ただ、人が多かった。
家族連れ。
友人同士。
カップル。
子ども。
キッチンカーの列と、人の流れが交差している。
美織が少し先の店を見ようと、横へ一歩出た。
その瞬間。
横から勢いよく人が来た。
「美織っ――」
腕を引かれる。
肩ごと、強く湊のほうへ寄せられた。
「……さん、危ないですよ」
胸元へ近い位置で声が落ちる。
美織は目を見開いた。
呼ばれた。
今。
美織。
呼び捨て。
ほんの一瞬。
咄嗟だったのだろう。
すぐ「さん」が付いた。
でも確かに聞こえた。
「……え」
美織は顔を上げる。
近い。
湊の腕が、自分の肩を守るように回っている。
映画館より近い。
明るい場所なのに。
逃げ場がないくらい、はっきり見える。
湊は、美織の丸くなった目を見た。
その表情が、思いがけず幼く見えた。
普段は落ち着いていて、仕事でも休日でもどこか大人っぽい。
その美織が、今は完全に不意を突かれている。
――かわいい。
胸の奥に、鋭く落ちた。
湊は一瞬、自分のほうが固まった。
いや。
落ち着け。
今は人混み。
危ない。
それだけ。
「すみません。急に引いて」
「う、ううん」
美織はまだ少し目を丸くしている。
湊は肩から手を離した。
けれど、人の流れはまだ激しい。
後ろから人が来る。
横からも入る。
美織が押されそうになる。
湊は一度だけ息を吸った。
落ち着け。
理由はある。
ちゃんとある。
「美織さん」
「うん?」
「……危ないですし」
少し間。
「はぐれたらいけないので」
湊は手を差し出した。
「手、いいですか」
美織はその手を見る。
大きい。
骨ばっている。
長い指。
前なら、きっと「人混みだしね」で済んだ。
でも、今は映画館で自分の気持ちに気づいた直後だった。
だから、意味が変わる。
いや。
意味が変わったのは行動ではなく、自分の受け取り方だ。
「……うん」
美織は手を重ねた。
湊の指が、そっと閉じる。
*
手を繋いだ瞬間。
美織は、全部そこへ意識が集まるのを感じた。
温かい。
思ったよりしっかり握られている。
強くはない。
でも、離れない程度には確実。
湊が一歩前へ出る。
「こっちです」
人の流れの間を見ながら、美織の手を引く。
美織は半歩遅れてついていく。
人混みの中を、さらわれるように進む。
湊の背中。
繋いだ手。
たまに振り返って、美織がちゃんといるか確認する顔。
美織の心臓が、どんどん速くなる。
――なに。
――え、待って。
――こういうことするの?
意外だった。
湊は優しい。
気を遣う。
距離を無理に縮めない。
だからこそ、こんなふうに身体ごと守られたり、手を引かれたりする姿を、美織は想像していなかった。
でも嫌ではない。
むしろ。
心地いい。
それが、一番困った。
美織は前を向いたまま思う。
ああ。
そうか。
自分は、今の関係を変えたくなかったのかもしれない。
この人と話す時間が好きで。
一緒にいるのが楽で。
無理をしなくてよくて。
失くしたくなかった。
だから、目の保養だとか、喋りやすいとか、そういう言葉の中に置いておけば安全だった。
考えないようにしていただけだった。
繋いだ手から伝わる温度が、逃げ道をなくしていく。
映画館で近づいた声。
咄嗟に呼ばれた「美織」。
肩を引かれた感触。
そして今、自分を人混みの向こうへ連れていく手。
美織は、ようやく認めた。
――私、この人が好きなんだ。
気づいた瞬間、何かが劇的に変わるわけではなかった。
むしろ逆だった。
今までの出来事が、一斉に同じ意味へ繋がった。
朝見つけると嬉しかったこと。
LINEが来ると笑ったこと。
休日の予定を楽しみにしていたこと。
名前で呼ばれるのが嬉しかったこと。
どれも、急に生まれたものではない。
ずっと積み重なっていた。
美織は、人混みの中で湊の手を少しだけ握り返した。
*
その小さな力に、湊は気づいた。
振り返る。
美織は少しだけ俯いている。
頬が、ほんのり赤い。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
返事が小さい。
湊はそれ以上聞かなかった。
ただ、手だけは離さなかった。
自分のほうも、心臓がかなり速い。
人混みだから。
危ないから。
はぐれないため。
全部本当。
でも、手を差し出した時。
本当は少しだけ、触れたかった。
好きな人の手を。
それを自覚しているからこそ、湊は余計に慎重だった。
美織が嫌そうならすぐ離すつもりだった。
でも。
今、握り返された。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
*
人の少ない場所まで抜けた。
もう、はぐれる心配はない。
湊も美織も、すぐにそれがわかった。
手を離していい。
理由はもうなくなった。
なのに、どちらもすぐには離さない。
数歩。
また数歩。
美織が繋いだ手を見る。
湊もその視線に気づく。
目が合う。
先に笑ったのは美織だった。
困ったような、照れたような顔。
「……もう大丈夫そうだね」
「そうですね」
湊も笑う。
まだ繋いでいる。
さらに数歩。
それから、どちらからともなく、ゆっくり手を離した。
指先が離れた瞬間、美織は少しだけ物足りないと思った。
その感情に、もう驚かなかった。
*
「何食べます?」
湊が言う。
少しだけ声が硬い。
美織はそれに気づいて、内心で少し安心した。
自分だけではないらしい。
「タコス」
「結局そこなんですね」
「ずっと気になってたから」
「じゃあタコス」
いつもの会話。
でも、さっきまでとは違う。
美織はもう、自分が湊をどう見ているのか知っている。
それだけで、同じ言葉の温度が少し変わった。
*
タコスとレモネードを買い、公園の木陰のベンチへ座る。
遠くで音楽が鳴っている。
子どもの声。
紙皿の上のタコス。
夏の空気。
「美味しい」
美織が目を細める。
「ほんとだ」
「湊くん、これ好きそう」
「今?」
「今」
「食べてるの見て?」
「そう」
湊が笑う。
「美織さん、最近それ増えましたよね」
「何が?」
「僕が好きそう、とか」
美織は一瞬止まる。
前なら、軽く流せた。
今は、その言葉の意味を自分で知ってしまっている。
「……湊くんもでしょ」
「僕も?」
「小虎さんの写真とか、お店とか。何か見つけると送ってくる」
「ああ」
湊は少し考えてから言った。
「美織さんに見せたいって思うんですよね」
美織はレモネードのストローを見つめた。
以前なら「そうなんだ」で済ませていた言葉。
今は胸の奥へまっすぐ入る。
「……そっか」
「はい」
湊はいつも通りだった。
美織は少しだけ笑った。
自分だけが、今日からその言葉を違う意味で受け取る。
*
夕方。
フェスの人混みは少しずつ落ち着いていた。
二人は公園の中をゆっくり歩く。
もう手は繋いでいない。
でも、美織には距離が少し近く感じた。
たぶん物理的には、いつもと変わらない。
自分の心のほうが変わったのだ。
「映画、また行きたいですね」
美織が言う。
「行きましょう」
湊はすぐ答える。
「次はもう少し平和なのにしよ」
「僕も賛成です」
「びっくりするの苦手なんだっけ」
「苦手です」
「今日、肩揺れてたもんね」
「見てたんですか」
「隣だったから」
美織が笑う。
湊も笑う。
次の話が自然に出る。
今までと同じ。
でも、美織の中ではもう同じではなかった。
*
改札前。
「じゃあ、また月曜」
美織が言う。
「はい。また月曜」
湊が笑う。
少しだけ間。
美織は一歩下がる。
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
また少し間。
「……あと」
「はい?」
美織は一瞬だけ迷った。
「さっき、助かった」
「人混み?」
「うん」
「危なかったので」
「ありがと」
美織は笑った。
湊も少し照れたように笑う。
「どういたしまして」
それだけで別れた。
*
帰宅した美織は、靴を脱ぎ、バッグを置いて、ソファへ座った。
しばらく何もしなかった。
映画館。
暗闇。
耳元の声。
肩を引かれた瞬間。
「美織っ――」
あの一瞬。
手。
大きかった。
温かかった。
自分から握り返した。
美織は両手で顔を覆った。
「……ああ、もう」
今までなら「何してんの私」と笑えたかもしれない。
今日は違う。
答えを知ってしまった。
「好きなんじゃん」
小さく呟く。
言葉にすると、妙にすっきりした。
突然何かが始まったわけではない。
六月から、ずっと増えていた。
ただ今日、名前がついた。
美織は手を開く。
まだ、湊の手の温度が残っている気がした。
*
その頃。
湊は自宅で、小虎さんの前に座っていた。
「小虎さん」
茶トラの尻尾がぱたんと動く。
「今日、美織さんと手繋ぎました」
言ってから、湊は少し間を置く。
「人多かったので」
小虎さんは無反応。
「危なかったし」
また無反応。
「はぐれたら困るし」
湊は自分で言いながら、少し笑った。
「……言い訳ですね」
小虎さんはそっぽを向いた。
湊は自分の手を見る。
美織の手は小さかった。
柔らかかった。
そして、人混みを抜ける途中で、少しだけ握り返してきた。
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
好きだと自覚してからも、急がないつもりだった。
今もそれは変わらない。
でも。
「会いたいな」
口から出た。
今日会ったばかりなのに。
月曜になれば、また会えるかもしれないのに。
それでも、もう一度顔を見たいと思う。
湊は小さく笑った。
「重症ですね」
小虎さんは何も答えなかった。
七月。
名前で呼ぶようになった二人は、同じ時間を重ねながら、少しずつ相手を見る目を変えていった。
湊は先に、自分の気持ちを知っていた。
美織は今日、ようやく追いついた。
何かが突然生まれたわけではない。
ずっと積み重なっていたものに、二人がそれぞれ気づいただけだった。
*
ある昼休み。
「美織ぃ」
真帆が向かいでサンドイッチを食べながら言う。
「最近さ」
「うん」
「朝倉さんの話、普通にするようになったね」
美織は一瞬だけ目を上げた。
「そう?」
「うん。『湊くんがさ』って」
「名前で呼ぶようになったからでしょ」
「それもそうだけど」
真帆は少し笑う。
「前より、話す時の顔がやわらかい」
「また顔の話?」
「同期だからわかるの」
美織はサラダへ視線を落とす。
「うーん、普通に楽しいからじゃない?」
「うん。そうだと思う」
真帆はそれ以上続けなかった。
美織も、続きを求めなかった。
一緒にいると楽しい。
それは本当だった。
*
七月三週目の土曜日。
二人は映画を見に行くことになった。
きっかけは、平日の連絡だった。
『美織さん、実は僕これ、気になってるんですけど』
湊が送ってきたURLは、公開されたばかりのサスペンス映画。
『それ私も予告見た』
『一緒に行きます?』
『行く』
それだけで決まった。
以前なら休日に二人で映画を見るという予定に、もう少し意味を感じたかもしれない。
今は、行きたいものが同じだから行く。
その自然さが、二人にはもうあった。
*
映画館の前。
湊は先に着いていた。
美織を見つけるのは、もうかなり早い。
人混みの向こうで、やわらかな色のトップスと、薄手の羽織り。今日はパンツスタイルで、髪は下ろしている。
湊は彼女を見つけた瞬間、口元が緩む。
好きだと自覚してから、この反応を隠せる気はあまりしなかった。自動的に口がむに、と笑ってしまう。
「美織さん」
好きな人の名前を呼ぶ。
美織が気づいてこちらを見る。
「あーごめん、早く出たけど湊くんが早かったか。お待たせ」
「全然。僕も今来たところです」
「ほんと?」
「五分前です」
「それは今来たって言っていいね」
並んで見たい上映をやっている映画館へ入る。
美織は一度、湊をそっと横目で見た。
しかしやはり、今日も顔がいい。
私服もセンスが良くて似合っている。
目の保養。ああ、眼福。
いつもの、便利な言葉。
そう思った。
その時まではそれだけだった。
*
座席は横並びだった。
中央より少し後ろ。
上映前の明るい館内では、特に何も変わらない。
「飲み物、何にします?」
「アイスコーヒー」
「やっぱり」
「湊くんは?」
「やはり、コーラ」
「映画館っぽい」
「どういう分類ですか、それ」
ポップコーンは一つ。
塩味とキャラメルで迷って、結局ハーフにした。
席に着く。
肩と肩の間に、肘掛けひとつ。
それだけの距離。
美織は何も思わなかった。
照明が落ちるまでは。
*
館内が暗くなる。
スクリーンの光だけが、隣にいる湊の横顔を断片的に照らす。
そこで初めて、美織は距離を意識した。
わ、近い。
思っていたよりずっと。
明るい場所では何でもなかったのに、暗闇になると隣にいる人の気配が途端に大きくなる。
肘掛けの向こうにある腕。
ポップコーンへ伸びる大きな手。
わずかに聞こえる呼吸。
低い声。
知っているものばかりなのに、いつもと違う。
――近いな。
美織はスクリーンを見る。
そうだ、映画へ集中すればいい。
そう思う。
できるはずだった。
けれど、隣の存在がときどき視界の外から意識へ入ってくる。
スクリーンの光が湊の鼻筋と顎、喉仏の線を浮かび上がらせる。
そのたびに、美織は内心で思う。
ほんと、顔がいい。
横顔もいい。
だから。
目の保養だから。
それだけ、それだけ。
そう言い聞かせるほど、なぜか落ち着かなくなった。
*
映画の中盤。
突然、大きな音が響いた。
美織の肩が小さく揺れる。
その直後。
「大丈夫です?」
湊が気づいて顔を寄せた。
耳元。
近い。
声が低い。
美織は反射的に横を向いた。
目の前に、湊の顔がある。
思っていたより近くて肩が固まる。
「……うん、うん大丈夫」
小声で返す。
湊はすぐ前へ向き直る。
それだけ。
それだけなのに、美織の心臓だけが一気にドクドクと速くなった。
これは、この映画のせいではない。
そこはもう、誤魔化せなかった。
*
少ししてから、映画に没入して
今度は美織のほうが、小さな声で言った。
「今の人、怪しくない?」
「え?」
湊が聞き取ろうと、また少し顔を寄せる。
ああ、近い。
「……さっきの人」
「ああ。僕もそう思います」
耳元へ返ってくる声。
美織は前を向いたまま、喉の奥で小さく息を飲んだ。
どうして今まで、平気だったんだろう。
朝一緒に歩いた。
何度もご飯を食べた。
休日を一緒に過ごした。
名前で呼び合うようになった。
それなのに、こんなふうに距離を意識したことはなかった。
いや。
意識しないようにしていただけかもしれない。
この人は喋りやすい。
一緒にいると楽しい。
顔がいい。
目の保養。
その説明でずっと止めていた。
それ以上考えたら、今の心地よさが変わってしまいそうだったから。
美織はスクリーンを見つめる。
映画の内容はちゃんと頭へ入っている。
でも、その横で別のこともはっきりしていく。
湊は、男の人だ。
自分は今、この人を異性として意識している。
その認識が、静かに、でも確実に落ちた。
*
上映が終わり、照明がつく。
「面白かったですね」
湊が言う。
「うん、だね」
美織はいつも通りに返したつもりだった。
「美織さん?」
「何?」
「なんか、ぼーっとしてます?」
「映画の余韻に浸ってるの」
「なるほど」
湊は疑わなかった。
美織は少しだけ安心した。
明るい場所へ出る。
人の声。
夏の湿った空気。
白い日差し。
全部がいつもの世界へ戻してくれる。
けれど、美織の中だけは映画を見る前と同じ世界でではなくなっていた。
*
映画館を出てしばらく歩くと、大きな公園の周辺が賑わっていた。
音楽。
旗。
人の流れ。
そして十台以上のキッチンカー。
「何これ、なにかやってる?」
美織の表情がぱっと明るくなる。
「グルメフェスみたいですね」
「え、行きたい」
「行きましょう」
「あはは、即決」
「美織さんがもう行く顔してるので」
「そんな顔してた?」
「してました」
美織は少し笑った。
映画館での落ち着かなさが、食べ物を前にするといったん遠のく。
タコス。
スパイスカレー。
ホットサンド。
焼きたてのソーセージ。
台湾風の屋台料理。
クラフトレモネード。
「待って待って、あっちも美味しそう」
「さっきタコスって言ってませんでした?」
「それとこれとは別」
「別なんだ」
「湊くん何食べたい?」
「美織さんが選んだのでいいです」
「それ一番困るやつ」
笑いながら歩く。
この気安さ、会話のテンポ。いつもの二人に戻ったように思えた。
大丈夫。これなら大丈夫、と美織は考えるのを止めた。
*
ただ、如何せん休日のイベントは人が多かった。
大勢の家族連れ。
笑い合う友人同士。
楽しそうなカップル。
はしゃぐ子ども。
キッチンカーの列と、人の流れが交差している。
これじゃ、どこに何があるか分かりづらい。
美織が少し先の店を見ようと、横へ一歩出た。
その瞬間。
横から勢いよく人が来た。
「美織っ――」
腕を引かれる。
肩ごと、強く湊のほうへ寄せられた。
「……さん、危ないですよ」
胸元へ近い位置で声が落ちる。
服越しに温度を感じる。
美織は目を見開いた。
呼ばれた。
今。
美織って、
呼び捨て。
ほんの一瞬。
咄嗟だったのだろう。
すぐ「さん」が付いた。
でも確かに聞こえた。
「……え、あ、ありがと」
美織は顔を上げて胸が跳ね上がる
近い。
湊の腕が、自分の肩を守るように回っている。
映画館より近い!
明るい場所なのに。
逃げ場がないくらい、はっきり見える。
湊は、美織の丸くなった目を見た。
その表情が、思いがけず幼く見えた。
普段は落ち着いていて、仕事でも休日でもどこか大人っぽい。
その美織が、今は完全に不意を突かれている。
――かわいい。
胸の奥に、鋭く落ちた。
湊は一瞬、自分のほうが固まった。
いや。
落ち着け、落ち着け。
今は人混み。
危ないよな?
それだけ。
「すみません。急に引いて」
「う、ううん」
美織はまだ少し目を丸くしている。
湊は肩から手を離した。熱が離れる。
けれど、人の流れはまだ激しい。
後ろから人が来る。
横からも入る。
美織が押されそうになる。
湊は一度だけ息を吸った。
落ち着け。
理由はある。
ちゃんとある。
「美織さん」
「うん?」
「……危ないですし」
少し間。
「はぐれたらいけないので」
湊は手を差し出した。
「手、いいですか」
美織はその手を見る。
大きい。
骨ばっている。
長い指。
前なら、きっと「人混みだしね」で済んだ。
でも、今は映画館で自分の気持ちに気づいた直後だったからこそ、戸惑う。
だから、意味が変わる。
いや、
意味が変わったのは行動ではなく、これは自分の受け取り方だ。
「……うん」
美織は手を重ねた。
湊の指が、そっと閉じる。
*
手を繋いだ瞬間。
美織は、全部そこへ意識が集まるのを感じた。
温かい。
思ったよりしっかり握られている。
強くはない。
でも、離れない程度には確実。
湊が一歩前へ出る。
「こっちです」
人の流れの間を見ながら、美織の手を引く。
美織は半歩遅れてついていく。
人混みの中を、さらわれるように進む。
湊の背中。
繋いだ手。
たまに振り返って、美織がちゃんといるか確認する顔。
美織の心臓が、どんどん速くなる。
――なに。
――え、待って。
――こういうことするの?
意外だった。
湊は優しい。
気を遣う。
距離を無理に縮めない。
だからこそ、こんなふうに身体ごと守られたり、手を引かれたりする姿を、美織は想像していなかった。
でも嫌ではない。
むしろ。
心地いい。
それが、一番困った。
美織は前を向いたまま思う。
ああ。
そうか。
自分は、今の関係を変えたくなかったのかもしれない。
この人と話す時間が好きで。
一緒にいるのが楽で。
無理をしなくてよくて。
失くしたくなかった。
だから、目の保養だとか、喋りやすいとか、そういう言葉の中に置いておけば安全だった。
考えないようにしていただけだった。
繋いだ手から伝わる温度が、逃げ道をなくしていく。
映画館で近づいた声。
咄嗟に呼ばれた「美織」。
肩を引かれた感触。
そして今、自分を人混みの向こうへ連れていく大きな包み込む手。
美織は、ようやく認めた。
――私、この人が好きなんだ。
気づいた瞬間、何かが劇的に変わるわけではなかった。
むしろ逆だった。
今までの出来事が、一斉に同じ意味へ繋がった。
朝見つけると嬉しかったこと。
連絡が来ると笑ったこと。
休日の予定を楽しみにしていたこと。
名前で呼ばれるのが嬉しかったこと。
どれも、急に生まれたものではない。
ずっと積み重なっていた。
美織は、泣きそうだった。人混みの中で湊の手を、離したくなくて少しだけ握り返した。
*
その小さな力に、湊は気づいた。
振り返る。
美織は少しだけ俯いている。
頬が、ほんのり赤い。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
返事が小さい。
湊はそれ以上聞かなかった。
ただ、手だけは離さなかった。
自分のほうも、心臓がかなり速い。
人混みだから。
危ないから。
はぐれないため。
全部本当。
でも、手を差し出した時。
本当は少しだけ、触れたかった。
好きな人の手を。
それを自覚しているからこそ、湊は余計に慎重だった。
美織が嫌そうならすぐ離すつもりだった。
でも。
今、握り返された。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
*
人の少ない場所まで抜けた。
もう、はぐれる心配はない。
湊も美織も、すぐにそれがわかった。
手を離していい。
理由はもうなくなった。
なのに、どちらもすぐには離さない。
数歩。
また数歩。
美織が繋いだ手を見る。
湊もその視線に気づく。
目が合う。
先に笑ったのは美織だった。
困ったような、照れたような顔。
湊は胸がキュンとする。
その顔は、反則級にかわいい。
「……もう大丈夫そうだね」
「そうですね」
湊は、雑念を払って落ち着いて笑ってみせる。
まだ繋いでいる。
さらに数歩。
それから、どちらからともなく、ゆっくり手を離した。
指先が離れた瞬間、美織は少しだけ物足りないと思った。
その感情に、もう驚かなかった。
*
「何食べます?」
湊が言う。
少しだけ声が硬い。
美織はそれに気づいて、内心で少し安心した。
自分だけではないらしい。
「タコス」
「結局そこなんですね」
「ずっと気になってたから」
「じゃあタコス」
いつもの会話。
でも、さっきまでとは違う。
美織はもう、自分が湊をどう見ているのか知っている。
それだけで、同じ言葉の温度が少し変わった。
*
タコスとレモネードを買い、公園の木陰のベンチへ座る。
遠くで音楽が鳴っている。
子どもの声。
紙皿の上のタコス。
夏の空気。
「美味しい」
美織が目を細める。
「ほんとだ」
「湊くん、これ好きそう」
「今?」
「今」
「食べてるの見て?」
「そう」
湊が笑う。
「美織さん、最近それ増えましたよね」
「何が?」
「僕が好きそう、とか」
美織は一瞬止まる。
前なら、軽く流せた。
今は、その言葉の意味を自分で知ってしまっている。
「……湊くんもでしょ」
「僕も?」
「小虎さんの写真とか、お店とか。何か見つけると送ってくる」
「ああ」
湊は少し考えてから言った。
「美織さんに見せたいって思うんですよね」
美織はレモネードのストローを見つめた。
以前なら「そうなんだ」で済ませていた言葉。
今は胸の奥へまっすぐ入る。
「……そっか」
「はい」
湊はいつも通りだった。
美織は少しだけ笑った。
自分だけが、今日からその言葉を違う意味で受け取る。もう、戻れない。
*
夕方。
フェスの人混みは少しずつ落ち着いていた。
二人は公園の中をゆっくり歩く。
もう手は繋いでいない。
でも、美織には距離が少し近く感じた。
たぶん物理的には、いつもと変わらない。
自分の心のほうが変わったのだ。
「映画、また行きたいね」
美織が言う。
「行きましょう」
湊はすぐ答える。
「次はもう少し平和なのにしよ」
「僕も賛成です」
「びっくりするの苦手なんだっけ」
「苦手です」
「今日、肩揺れてたもんね」
「見てたんですか」
「隣だったから」
美織が笑う。
湊も笑う。
次の話が自然に出る。
今までと同じ。
でも、美織の中ではもう同じではなかった。
その些細な言葉ですら、胸にひとつずつ大事に刻まれていく感覚だった。
*
改札前、
あっという間に時間は駆け抜けていってしまった。
「じゃあ……また月曜」
美織がいつも通り装って言う。
「はい。また月曜」
湊が嬉しそうに笑う。
少しだけ間。
美織は一歩下がる。
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
また少し間。
「……あと」
「はい?」
美織は一瞬だけ迷った。
「さっき、助かった」
「人混み?」
「うん」
「危なかったので」
「ありがと」
美織は笑った。
湊も少し照れたように笑う。
「どういたしまして」
それだけで今日は別れた。
終わりの時間が初めて名残惜しかった。
手を振って階段を降りていく湊を、
美織はしばらくずっと見ていた。
*
帰宅した美織は、靴を脱ぎ、バッグを置いて、ソファへ崩れるように座った。
しばらく何もしなかった。
映画館。
暗闇。
耳元の声。
肩を引かれた瞬間。
「美織っ――」
あの一瞬。
手。
大きかった。
温かかった。
自分から握り返した。
美織は両手で顔を覆った。
「……ああ、もう」
今までなら「何してんの私」と笑えたかもしれない。
今日は違う。
答えを知ってしまった。
「好きなんじゃん」
小さく呟く。
言葉にすると、妙にすっきりした。
突然何かが始まったわけではない。
六月から、ずっと増えていた。
ただ今日、名前がついた。
美織は手を開く。
まだ、湊の手の温度が残っている気がした。
いつかまた、誰か好きになる日がくるとは考えもしなかった。
思い浮かべると、笑顔もリアクションも、かけてくれる言葉も全部全部、宝物みたいに眩しくて、
「湊くんが、すき……」
他でもない、湊だった事に美織は嬉しくて泣いた。
*
その頃。
湊は自宅で、小虎さんの前に座っていた。
「小虎さん」
茶トラの尻尾がぱたんと動く。
「今日、美織さんと手繋ぎました」
言ってから、湊は少し間を置く。
「人多かったので」
小虎さんは無反応。
「危なかったし」
また無反応。
「はぐれたら困るし」
湊は自分で言いながら、少し笑った。
「……言い訳ですね」
小虎さんはそっぽを向いた。
湊は自分の手を見る。
美織の手は小さかった。
柔らかかった。
そして、人混みを抜ける途中で、少しだけ握り返してきた。
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
好きだと自覚してからも、急がないつもりだった。
今もそれは変わらない。
でも。
「会いたいな」
口から出た。
今日会ったばかりなのに。
月曜になれば、また会えるかもしれないのに。
それでも、もう一度顔を見たいと思う。
湊は小さく笑って小虎さんのお腹に顔を埋める。
「重症ですね」
小虎さんはやめろ、と前足で押しのけてきた。
七月。
名前で呼ぶようになった二人は、
同じ時間を重ねながら、少しずつ相手を見る目を変えていった。
湊は先に、自分の気持ちを知っていた。
美織は今日、ようやく追いついた。
何かが突然生まれたわけではない。
ずっと積み重なっていたものに、
二人がそれぞれ気づいただけだった。