あの雨の日から、ふたりは
閑話 会わない日の話
六月最後の日曜日。
美織が目を覚ました時、時計は十時を少し回っていた。
カーテンの隙間から入る光はもうすっかり朝というより昼に近い。それを確認してから、美織は枕へもう一度頬を押しつけた。昨日は電車で少し遠くまで出かけ、公園を歩いて、店を見て、帰りには名前で呼び合うようになった。
楽しかった。
だからといって、今日も誰かと会いたいわけではない。
「……起きよ」
しばらくしてようやく身体を起こし、髪を適当にまとめる。洗濯機を回し、窓を開け、珈琲を淹れる。休日の午前中は、急ぐ理由がないだけで少し贅沢だった。
スピーカーから音楽を流して、昨日着ていた服を片づける。バッグの中身を戻している途中で、小さな猫の引き手がついたポーチへ指が触れた。
湊が選んだもの。
正確には、湊が「好きそう」と言って、美織が自分で買ったものだ。
「……当たってたな」
改めて見ても、やっぱり好みだった。
ファスナーを一度開けて、閉める。それだけしてバッグへ戻す。
昨日までは朝倉さんだった人。
今日からは、湊くん。
頭の中で呼ぶだけでも、まだ少しだけ新しい。
美織は自分で可笑しくなって、珈琲を一口飲んだ。
*
同じ頃。
湊の休日は、小虎さんに起こされるところから始まっていた。
「……小虎さん。まだ早いです」
枕元で鳴かれ、顔の近くを前足で踏まれ、最終的には布団の端へ座られた。
時計を見る。
八時十二分。
「休日ですよ」
当然、通じない。
小虎さんは湊が起きたと判断したらしく、さっさと寝室を出ていく。
「起こしただけ?」
返事はない。
仕方なく起き、顔を洗い、水を替え、ご飯を確認する。自分の朝食はトーストと珈琲で済ませた。
それから掃除。
平日は目についたところだけで終わることもあるから、休日は少し丁寧にやる。床。棚。小虎さんの毛が溜まりやすい場所。洗濯機を回している間にトイレも掃除する。
掃除機をかければ、小虎さんはいつものように少し離れた場所から不満そうに見ていた。
「あなたの毛ですからね、半分くらい」
言うと、尻尾が一度だけ床を叩く。
「怒りました?」
また一度。
「すみません」
謝りながら笑う。
昼前には一通り終わり、洗ったタオルと服を取り込んだ。
そして、そこで作業が止まった。
「……小虎さん」
洗濯物を入れていた大きな籠の真ん中に、茶トラが収まっている。
さっきまで空だったはずなのに、当然の顔で丸くなっていた。
「それ、今から畳むんですけど」
小虎さんは目を細める。
「聞いてます?」
目を閉じた。
湊はしばらく見下ろしたあと、スマートフォンを取った。
写真を一枚。
もう一枚。
角度を変えてもう一枚。
撮ったところで、ふと指が止まる。
昨日一日一緒にいた。
今日も連絡しなければならない用事はない。
それでも、最初に思ったのは。
――美織さん、これ見たら笑うだろうな。
だった。
湊は一枚選んで、送った。
『洗濯物が片付きません』
*
スマートフォンが震えた時、美織は昼食を作っていた。
フライパンの火を弱めて画面を見る。
「……何」
開いた瞬間、笑った。
洗濯籠にぴったり収まった小虎さん。少しだけ目を細め、そこは自分の場所だと言わんばかりの顔をしている。
『小虎さん優先で』
送る。
すぐ既読がついた。
『やっぱりそっち側』
『当然でしょ』
『僕の洗濯物は?』
『今日は籠なしで畳んでください』
『厳しい』
美織はフライパンを揺すりながら、また笑った。
数分して、もう一枚届く。
今度は床へ直接積まれたタオル。その横で、小虎さんだけが悠々と籠を占領している。
『こうなりました』
『正解』
『納得いかない』
『でも撮ってるじゃん』
少し間が空いた。
『美織さんに見せようと思ったので』
美織の指が止まる。
「……」
また。
こういうことを、本人はたぶん何の準備もなく言う。
美織は画面を見ながら少しだけ唇を尖らせ、それから返した。
『いい写真でした』
送信。
すぐに、
『ならよかったです』
と返ってくる。
やっぱり嬉しそうな顔をしている気がした。
実際には見えていないのに、もう何となく想像できる。
「……湊くん、ほんと顔に出るんだよなあ」
口にしてから、美織は一瞬だけ止まった。
家で一人なのに、普通に名前で呼んだ。
少し照れくさくなって、誰もいないキッチンで咳払いを一つする。
それから火を戻した。
*
午後は、それぞれ別の時間を過ごした。
美織は買ってあった食材を整理して、作り置きを二品作った。音楽を変え、途中でソファへ寝転がって、気づけば三十分ほど昼寝をした。
起きてから本を少し読み、夕方には美夕から来ていたメッセージへ返事をする。
いつもの休日だった。
誰かと一緒でなくても、ちゃんと楽しい。
一方の湊も、近所のスーパーへ買い物に出た。帰宅してから少し仕事関係の資料へ目を通し、途中で小虎さんが机へ乗ってきたので諦めた。
「休日まで仕事するなってことですか」
小虎さんはキーボードの手前に座っている。
「わかりました」
パソコンを閉じる。
代わりに本を開いた。
こちらなら邪魔をされても困らない。
夕方の光が部屋へ入り、小虎さんはやがて窓辺へ移動した。湊は本を読みながら、時々その姿を見る。
静かだった。
悪くない。
むしろ、好きな時間だった。
以前からずっと、こういう休日を過ごしてきた。
*
夜。
美織は風呂から上がり、髪を乾かしてから冷蔵庫の水を飲んだ。
スマートフォンには新しい通知はない。
別に待っていたわけではない。
昼に少しやり取りしたし、昨日は一日一緒だった。明日は月曜日だから、朝の時間が重なればまた会うかもしれない。
寝室へ向かいながら、ふと思う。
「……今日、会ってないんだ」
当たり前だった。
約束をしていないのだから。
少し前なら、会わない日の方がずっと多かった。それどころか、五月の終わりまでは互いの存在さえ知らなかった。
それなのに今は、一日顔を見なかったことがわかる。
寂しい、と呼ぶほどではない。
会いたくて仕方がないわけでもない。
今日は今日で、十分楽しかった。
それでも。
明日の朝、駅を出たところで見覚えのある背中があったら、たぶん少し嬉しい。
美織はベッドへ入る。
枕元へスマートフォンを置いてから、昼に送られてきた小虎さんの写真をもう一度開いた。
「ふふ」
一度だけ笑って、画面を伏せた。
*
湊も同じ頃、寝室へ入るところだった。
小虎さんは既にベッドの端を一部占領している。
「今日、ほとんど家でしたね」
声をかけながら布団へ入る。
「僕もですけど」
返事はない。
スマートフォンを充電器へ繋ごうとして、昼のトーク画面が目に入った。
『小虎さん優先で』
その文字を見て、湊は少し笑う。
美織ならそう言うと思った。
思ったから送った。
そして、思った通り返ってきた。
そういうことが、最近少しずつ増えている。
何かを見て、美織ならどう言うだろうと思う。
面白いものがあれば見せたいと思う。
店を見つければ、一緒に行けるか考える。
会っていない時にも、その人を思い出す場所が生活の中に増えている。
湊はスマートフォンを伏せた。
「……明日、会えるかな」
小さく口にする。
隣で小虎さんの耳が一度だけ動いた。
「朝、時間合えばですけど」
誰に言い訳しているのかわからない。
湊は自分で少し笑って、部屋の灯りを消した。
会わない日は、何も起こらない日ではなくなっていた。
それぞれがそれぞれの暮らしを過ごしながら、その中でふと相手を思い出す。
まだ恋人ではない。
毎日会う約束もない。
それでも、一人で過ごす一日の中に、もう少しずつ相手の居場所ができていた。