総長の、夜よりもあぶない溺愛。
神崎のひと言のあと、空気が少しだけ変わった。

黒瀬さんは、もう宵闇にとっても大事な人です。

その言葉はやさしいのに、なぜか胸の奥がざわつく。
紗月が小さく息をのんだ、その時だった。

「……止まって」

低く落ちた声に、全員の足が止まる。

声を出したのは桐生だった。
無表情のまま、細い路地の先をじっと見ている。その目だけが鋭く冷えていた。

「どうした」

蓮の声も一瞬で変わる。

「見られてる」

短いそのひと言だけで、さっきまでの甘い空気が消えた。

白石が舌打ちする。

「ちっ、まじかよ」

相沢はすぐに周囲へ視線を走らせ、神崎はさりげなく紗月の前に立った。

紗月は何が起きたのか分からないまま、ぎゅっと鞄を抱きしめる。
すると次の瞬間、蓮の手が紗月の肩を引き寄せた。

「俺の後ろにいろ」

その声はいつもより低くて、逆らえる空気じゃなかった。

「れ、蓮くん……?」

「大丈夫。絶対に何もさせねぇ」

短く言い切る声に、紗月の鼓動が大きく鳴る。
怖い。なのにその言葉だけで、少しだけ呼吸ができた。

路地の奥から、数人の影がゆっくり現れる。

見たことのない男たちだった。
でも、宵闇の幹部たちの空気が変わったことで分かる。ただの通行人じゃない。

「宵闇の総長が女連れなんて、噂ほんとだったんだな」

にやついた声が響く。

白石が一歩前に出る。

「うるせぇな。消えろ」

「その子、ちょっと借りたいだけなんだけど?」

その瞬間、紗月の体がびくっと震えた。

蓮の腕が、肩を抱く力を強める。

「……今、なんつった?」

静かな声だった。
なのに、いちばん怖いのはその声だと紗月にも分かった。

相沢が小さく笑う。

「終わったね、あれ」

神崎は冷静に息を吐いた。

「挑発する相手を間違えましたね」

男たちはまだ余裕そうに笑っている。

けれど桐生だけは、もう次の動きを読んでいる目をしていた。

「総長。右、二人」

その声と同時に、蓮の目が細くなる。

一瞬だった。

右から近づこうとした影に、白石が素早く前へ出る。
神崎は紗月をかばう位置を崩さない。
相沢はすでに逃げ道をふさぐように動き、桐生は一番奥の男を鋭く見据えていた。

そして蓮は、紗月を背中へ完全に隠すように立つ。

「紗月」

「は、はい」

「目、離すな」

「え……」

「俺だけ見てろ」

その言葉に、怖さの中でも胸が跳ねた。

男たちが一気に距離を詰めようとした、その瞬間。
蓮の目つきが変わる。

「触れんな」

低く吐き捨てた声と同時に、張り詰めた空気が裂けた。

紗月は思わず息をのむ。
怖いはずなのに、蓮の背中があまりにも頼もしくて、目が離せない。

白石の鋭い声が飛ぶ。
神崎の冷静な指示が続く。
相沢は笑っているのに目がまったく笑っていない。
桐生は静かに、確実に相手の動きを封じていく。

宵闇の幹部たちは、ただの仲間なんかじゃなかった。
一人ひとりが、この危険な町で生き抜いてきた本物の強さを持っている。

けれどその中心にいる蓮は、やっぱり別格だった。

男が紗月のほうへ視線を向けた瞬間、蓮の空気がさらに冷える。

「次、紗月見たら許さねぇ」

ぞくりとするほど静かなのに、絶対に逆らえない声。

相手の男たちも、さすがにまずいと思ったのか、じりっと後ろへ下がる。

その時、桐生がぼそりとつぶやいた。

「……まだいる」

「は?」

白石が眉をひそめる。

桐生の視線は、建物の上。
紗月が反射的にそちらを見上げかけた瞬間、蓮の手がぐっと頬を包んだ。

「見るな」

近い。
驚いて蓮を見上げると、その瞳はひどく真剣だった。

「おまえは何も見なくていい。守られてろ」

心臓が大きく鳴る。
怖い状況のはずなのに、その言葉が甘すぎて頭がくらくらした。

神崎が素早く口を開く。 「総長、ここは移動しましょう。長引かせる場所じゃない」

「ああ」

蓮は紗月の手をつかむと、そのまま自分の隣へ引き寄せた。

「行くぞ」

「う、うん……!」

相沢が先へ走り、桐生が後方を確認し、白石と神崎が左右につく。
完全に守られていると分かる布陣だった。

紗月は走りながら、蓮の手の熱を強く感じる。
離さない。絶対に守る。そんな気持ちが、その手から伝わってくるみたいだった。

細い路地を抜け、少し開けた場所まで来たところで、ようやく足が止まる。

「はぁ……っ」

息を切らす紗月に、蓮はすぐ向き直った。

「怪我してねぇ?」

肩、腕、頬。
蓮の手があちこちを確かめるように触れていく。

「だ、大丈夫……」

「ほんとか」

「うん」

それでも蓮は安心しきれない顔で紗月を見る。
その様子に、白石が少しだけ苦笑した。

「総長、過保護すぎ」

「うるせぇ」

神崎はまわりを警戒しながらも、小さく息をつく。

「ですが、狙いが黒瀬さんに向いたのは事実です」

そのひと言で、紗月の胸が冷たくなる。

「私、が……?」

相沢の表情から、さっきまでの軽さが少し消える。 「たぶんね。総長の弱点を探ってる連中がいる」

弱点。

その言葉に、紗月は思わず蓮を見る。
すると蓮は少しも迷わず言った。

「弱点じゃねぇ」

低い声が夜に落ちる。

「紗月は、俺が守るって決めた存在だ」

まっすぐ言い切られて、紗月の息が止まる。

神崎も、白石も、桐生も、相沢も、その言葉に何も挟まなかった。
誰もが、それが蓮の本心だと分かっているみたいだった。

蓮は紗月の頬にそっと触れる。

「怖かったか」

その問いに、紗月は小さくうなずく。
すると蓮は一瞬だけ目を伏せて、それから額が触れそうな距離まで近づいた。

「もう二度と、あんな目に遭わせねぇ」

優しいのに、ひどく強い声だった。

その時だった。

遠くから、鋭いエンジン音が響く。

全員の空気がまた変わる。
相沢が顔を上げ、桐生が目を細め、白石が低く笑った。

「……まだ終わってねぇみたいだな」

蓮は紗月を自分の背中へかばいながら、静かに言う。

「今夜は俺から離れるな」

ネオンの光が揺れる町で、宵闇の幹部たちが一斉に前を向く。
その中心で蓮だけが、紗月の手を強く握っていた。

甘い恋が始まったばかりなのに。
その恋はもう、危険な夜のど真ん中に引きずり込まれていた。
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