君のとなり〜拓実と〜
第26章 君の視線の先
空は、どこまでも青かった。
朝から照りつける太陽の下、競技場には選手たちの掛け声や、スタンドからの声援が響いている。
今日は陸上部の大会。
私はスタンドから、トラックを見つめていた。
これから始まるのは、男子100メートル。
スタートラインには、何人もの選手が並んでいる。
その中に――拓実がいた。
いつもの制服姿とは違う。
陸上のユニフォームを身につけた拓実は、別人みたいだった。
高い身長。
すらりと伸びた手足。
スタートラインに立つだけで、周囲の空気まで変わって見える。
同じ学校の女子たちからも、あちこちで声が飛んでいた。
「拓実先輩、頑張ってー!」
「拓実ー!」
私は思わず笑ってしまう。
やっぱり、人気者なんだ。
すると、拓実がふっと顔を上げた。
スタンドを見渡している。
そして――私を見つけた。
目が合う。
拓実の口元が、わずかに緩んだ。
私も手を振る。
「拓実ー! 頑張って!」
拓実は小さく頷いた。
その表情が、いつもの優しい拓実とは違っていた。
真剣で。
鋭くて。
これから勝負する人の顔。
胸が、どきっとした。
スターターが構える。
選手たちが低く身を沈める。
競技場の空気が、一瞬で静かになった。
――パンッ!
乾いた音が響く。
拓実が飛び出した。
速い。
一歩目から、身体が前へ伸びていく。
長い脚が力強く地面を蹴るたび、ぐんぐん加速していく。
私は思わず立ち上がっていた。
「拓実……!」
最後までフォームを崩さない。
そのまま一気にゴールへ駆け抜けた。
歓声が上がる。
私は夢中で拍手をした。
「すごい……!」
タイムが表示される。
拓実はそれを確認すると、ふっと息を吐いた。
そして、またスタンドを見る。
私を見つけると、今度は少しだけ得意そうに笑った。
思わず私も笑う。
――かっこいい。
素直にそう思った。
*
午後。
4×100メートルリレー。
拓実はアンカー。
私はスタンドの一番前で、ずっとトラックを見ていた。
第一走者がスタートする。
バトンが渡る。
第二走者。
第三走者。
そして――最後の直線。
第四走者の選手がバトンを受け取った。
拓実だ。
「拓実ー!」
思い切り叫ぶ。
拓実が走る。
前を走る選手との差は、まだある。
でも、拓実のスピードが落ちない。
むしろ、ここからだった。
ぐん、と身体が前へ出る。
少しずつ。
少しずつ。
差が縮まっていく。
「いけー!」
スタンドの声が一つになった。
拓実が並ぶ。
追い越す。
最後の直線。
さらに加速する。
ゴール。
大きな歓声が競技場を包んだ。
「……すごい」
私は何度も拍手をした。
チームメイトと喜び合う拓実。
その中から、拓実がこちらを見る。
私は両手を振った。
拓実も笑った。
しばらくして、拓実がスタンドまでやってきた。
「応援ありがとな」
「ううん。お疲れ様」
「どうだった?」
「すごく速かった」
「だろ?」
拓実が、ちょっとだけ得意そうな顔をする。
「ふふっ。自分で言う?」
「だって、瑠夏がちゃんと見ててくれたから」
「……え?」
「見てただろ?」
「うん」
「じゃあいい」
拓実が笑う。
その笑顔を見ていると、胸が温かくなる。
優しくて。
かっこよくて。
一緒にいると、自然に笑える。
私は、この人と付き合えてよかった。
そう思った。
そのとき。
競技場のアナウンスが響いた。
『男子走り高跳び、競技開始です』
その声に、私は反射的に顔を向けた。
グラウンドの向こう。
高跳びのピット。
そこに――
翔がいた。
「……翔」
名前が、口からこぼれた。
拓実も、私の視線を追う。
「翔か」
「……うん」
私はもう一度、翔を見た。
久しぶりに、近くで見る。
いや。
体育館からは、ずっと見ていた。
でも、こうして同じ場所にいると、胸の奥が少しだけざわついた。
翔がバーの前に立つ。
160センチ。
私は無意識に手を握った。
翔が助走に入る。
踏み切った。
身体が宙へ舞う。
背中からバーを越える。
――成功。
バーは落ちなかった。
翔がマットから起き上がる。
その瞬間。
翔がこちらを見た。
目が合った。
そして、翔が右手を小さく握る。
胸の奥が、きゅっとなる。
中学生の頃と同じサイン。
私は胸の前で、そっと拳を握った。
翔が笑う。
私も笑った。
あの頃と同じ。
何年経っても変わらない。
そのことが、嬉しかった。
けれど。
バーが上がる。
165センチ。
私は息を呑んだ。
翔が助走位置につく。
周囲のざわめきが遠くなる。
翔だけを見ていた。
助走。
踏み切り。
身体が浮く。
――バーが落ちた。
「……っ」
一回目。
失敗。
翔はマットから起き上がった。
そして、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。
視線が、自分の足元へ落ちる。
私は眉を寄せた。
翔は何事もなかったように待機場所へ戻っていく。
けれど。
次の試技を待っている間も、何度か怪我をした足へ視線を落としていた。
靴の中で足首を動かすような仕草。
つま先に、そっと体重をかける。
また戻す。
その様子を見ていると、胸の奥がざわついた。
――大丈夫?
あの足は、一度翔から高跳びを奪った。
長いリハビリをして。
ようやく戻ってきた。
なのに。
また……?
「……翔」
思わず名前を呟く。
翔の順番が近づいてくる。
翔は一度、深く息を吐いた。
そして、もう一度助走位置へ向かう。
私は祈るような気持ちで見つめた。
助走。
踏み切る。
身体が浮く。
――また、バーが落ちた。
二回目。
失敗。
翔はマットに着地する。
立ち上がる。
そして――
また足を気にした。
その瞬間。
胸の奥に、冷たいものが走った。
違う。
ただの失敗じゃない。
翔は、足を気にしている。
もし、ここでまた無理をしたら。
また怪我をしたら。
また跳べなくなったら。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
「だめ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
周囲の視線が集まる。
それでも、もう止められなかった。
「翔!」
翔がこちらを見る。
私は立ち上がったまま叫んだ。
「跳ぶの、やめて!」
翔の表情が止まる。
その直後、監督が翔のもとへ向かった。
「翔」
「……大丈夫です」
「足は?」
「大丈夫です。もう一回、跳べます」
「翔」
監督の声が低くなる。
「今、自分で足を気にしただろ」
翔は黙った。
「復帰したばかりだ。ここで無理して、また怪我したらどうする」
「……」
「今日は終わりだ」
翔がバーを見る。
165センチ。
あと一回。
それでも翔は、しばらく動かなかった。
「……まだ、跳べます」
「跳べるかどうかじゃない」
監督が静かに言った。
「次に跳ぶために、今日はやめるんだ」
翔は唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……はい」
小さく頭を下げた。
翔は、その場を離れていく。
私はようやく、張り詰めていた息を吐いた。
「……よかった」
その声を聞いていた拓実が、私を見る。
私は翔の後ろ姿から目を離せなかった。
拓実は、何も言わない。
ただ、私の横顔を見ている。
私はまだ気づいていなかった。
自分がどんな顔をしているのか。
自分が、誰を見つめているのか。
そして――
拓実だけが、気づいていた。
瑠夏の心が、もう自分だけを見てはいないことに。
朝から照りつける太陽の下、競技場には選手たちの掛け声や、スタンドからの声援が響いている。
今日は陸上部の大会。
私はスタンドから、トラックを見つめていた。
これから始まるのは、男子100メートル。
スタートラインには、何人もの選手が並んでいる。
その中に――拓実がいた。
いつもの制服姿とは違う。
陸上のユニフォームを身につけた拓実は、別人みたいだった。
高い身長。
すらりと伸びた手足。
スタートラインに立つだけで、周囲の空気まで変わって見える。
同じ学校の女子たちからも、あちこちで声が飛んでいた。
「拓実先輩、頑張ってー!」
「拓実ー!」
私は思わず笑ってしまう。
やっぱり、人気者なんだ。
すると、拓実がふっと顔を上げた。
スタンドを見渡している。
そして――私を見つけた。
目が合う。
拓実の口元が、わずかに緩んだ。
私も手を振る。
「拓実ー! 頑張って!」
拓実は小さく頷いた。
その表情が、いつもの優しい拓実とは違っていた。
真剣で。
鋭くて。
これから勝負する人の顔。
胸が、どきっとした。
スターターが構える。
選手たちが低く身を沈める。
競技場の空気が、一瞬で静かになった。
――パンッ!
乾いた音が響く。
拓実が飛び出した。
速い。
一歩目から、身体が前へ伸びていく。
長い脚が力強く地面を蹴るたび、ぐんぐん加速していく。
私は思わず立ち上がっていた。
「拓実……!」
最後までフォームを崩さない。
そのまま一気にゴールへ駆け抜けた。
歓声が上がる。
私は夢中で拍手をした。
「すごい……!」
タイムが表示される。
拓実はそれを確認すると、ふっと息を吐いた。
そして、またスタンドを見る。
私を見つけると、今度は少しだけ得意そうに笑った。
思わず私も笑う。
――かっこいい。
素直にそう思った。
*
午後。
4×100メートルリレー。
拓実はアンカー。
私はスタンドの一番前で、ずっとトラックを見ていた。
第一走者がスタートする。
バトンが渡る。
第二走者。
第三走者。
そして――最後の直線。
第四走者の選手がバトンを受け取った。
拓実だ。
「拓実ー!」
思い切り叫ぶ。
拓実が走る。
前を走る選手との差は、まだある。
でも、拓実のスピードが落ちない。
むしろ、ここからだった。
ぐん、と身体が前へ出る。
少しずつ。
少しずつ。
差が縮まっていく。
「いけー!」
スタンドの声が一つになった。
拓実が並ぶ。
追い越す。
最後の直線。
さらに加速する。
ゴール。
大きな歓声が競技場を包んだ。
「……すごい」
私は何度も拍手をした。
チームメイトと喜び合う拓実。
その中から、拓実がこちらを見る。
私は両手を振った。
拓実も笑った。
しばらくして、拓実がスタンドまでやってきた。
「応援ありがとな」
「ううん。お疲れ様」
「どうだった?」
「すごく速かった」
「だろ?」
拓実が、ちょっとだけ得意そうな顔をする。
「ふふっ。自分で言う?」
「だって、瑠夏がちゃんと見ててくれたから」
「……え?」
「見てただろ?」
「うん」
「じゃあいい」
拓実が笑う。
その笑顔を見ていると、胸が温かくなる。
優しくて。
かっこよくて。
一緒にいると、自然に笑える。
私は、この人と付き合えてよかった。
そう思った。
そのとき。
競技場のアナウンスが響いた。
『男子走り高跳び、競技開始です』
その声に、私は反射的に顔を向けた。
グラウンドの向こう。
高跳びのピット。
そこに――
翔がいた。
「……翔」
名前が、口からこぼれた。
拓実も、私の視線を追う。
「翔か」
「……うん」
私はもう一度、翔を見た。
久しぶりに、近くで見る。
いや。
体育館からは、ずっと見ていた。
でも、こうして同じ場所にいると、胸の奥が少しだけざわついた。
翔がバーの前に立つ。
160センチ。
私は無意識に手を握った。
翔が助走に入る。
踏み切った。
身体が宙へ舞う。
背中からバーを越える。
――成功。
バーは落ちなかった。
翔がマットから起き上がる。
その瞬間。
翔がこちらを見た。
目が合った。
そして、翔が右手を小さく握る。
胸の奥が、きゅっとなる。
中学生の頃と同じサイン。
私は胸の前で、そっと拳を握った。
翔が笑う。
私も笑った。
あの頃と同じ。
何年経っても変わらない。
そのことが、嬉しかった。
けれど。
バーが上がる。
165センチ。
私は息を呑んだ。
翔が助走位置につく。
周囲のざわめきが遠くなる。
翔だけを見ていた。
助走。
踏み切り。
身体が浮く。
――バーが落ちた。
「……っ」
一回目。
失敗。
翔はマットから起き上がった。
そして、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。
視線が、自分の足元へ落ちる。
私は眉を寄せた。
翔は何事もなかったように待機場所へ戻っていく。
けれど。
次の試技を待っている間も、何度か怪我をした足へ視線を落としていた。
靴の中で足首を動かすような仕草。
つま先に、そっと体重をかける。
また戻す。
その様子を見ていると、胸の奥がざわついた。
――大丈夫?
あの足は、一度翔から高跳びを奪った。
長いリハビリをして。
ようやく戻ってきた。
なのに。
また……?
「……翔」
思わず名前を呟く。
翔の順番が近づいてくる。
翔は一度、深く息を吐いた。
そして、もう一度助走位置へ向かう。
私は祈るような気持ちで見つめた。
助走。
踏み切る。
身体が浮く。
――また、バーが落ちた。
二回目。
失敗。
翔はマットに着地する。
立ち上がる。
そして――
また足を気にした。
その瞬間。
胸の奥に、冷たいものが走った。
違う。
ただの失敗じゃない。
翔は、足を気にしている。
もし、ここでまた無理をしたら。
また怪我をしたら。
また跳べなくなったら。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
「だめ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
周囲の視線が集まる。
それでも、もう止められなかった。
「翔!」
翔がこちらを見る。
私は立ち上がったまま叫んだ。
「跳ぶの、やめて!」
翔の表情が止まる。
その直後、監督が翔のもとへ向かった。
「翔」
「……大丈夫です」
「足は?」
「大丈夫です。もう一回、跳べます」
「翔」
監督の声が低くなる。
「今、自分で足を気にしただろ」
翔は黙った。
「復帰したばかりだ。ここで無理して、また怪我したらどうする」
「……」
「今日は終わりだ」
翔がバーを見る。
165センチ。
あと一回。
それでも翔は、しばらく動かなかった。
「……まだ、跳べます」
「跳べるかどうかじゃない」
監督が静かに言った。
「次に跳ぶために、今日はやめるんだ」
翔は唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……はい」
小さく頭を下げた。
翔は、その場を離れていく。
私はようやく、張り詰めていた息を吐いた。
「……よかった」
その声を聞いていた拓実が、私を見る。
私は翔の後ろ姿から目を離せなかった。
拓実は、何も言わない。
ただ、私の横顔を見ている。
私はまだ気づいていなかった。
自分がどんな顔をしているのか。
自分が、誰を見つめているのか。
そして――
拓実だけが、気づいていた。
瑠夏の心が、もう自分だけを見てはいないことに。