君のとなり〜拓実と〜
第27章 あの日の約束
夏休み。
学校はいつもより静かだった。
新体操部は数日間の合宿に入り、瑠夏もしばらく学校を離れている。
体育館にも、瑠夏の姿はない。
グラウンドでは、陸上部がいつもと変わらず練習を続けていた。
強い陽射し。
乾いた土の匂い。
蝉の声。
その中で、翔は黙々とトレーニングを続けていた。
高跳びの練習を終え、器具を片付けていると、後ろから声がした。
「翔」
振り返る。
「……拓実先輩」
「ちょっといいか?」
「はい」
拓実は、翔の隣に立った。
「瑠夏、今日から合宿なんだよな」
「はい」
「三泊四日だって言ってた」
「……よく覚えてますね」
「彼女だからな」
拓実が笑う。
「しばらく会えないな」
「……そうですね」
拓実が、ふっと笑った。
「あ〜、瑠夏不足だ」
「……」
翔は思わず笑った。
「四日だけですよ」
「俺にとっては長いの」
拓実はそう言って笑った。
その笑顔を見て、翔も少しだけ笑った。
けれど――
拓実の表情が、ふっと変わった。
「……なあ、翔」
「はい」
「この前の大会のことなんだけど」
翔の手が止まる。
「俺、ずっと気になってた」
「……何がですか?」
「瑠夏がお前の高跳びを見てた時の顔」
翔は答えなかった。
「それに、お前も瑠夏を見てた」
拓実の声は穏やかだった。
責めるような響きはない。
だからこそ、翔は逃げられなかった。
「……中学の頃からなんです」
ぽつりと、翔が言った。
「瑠夏とは、中学で一緒に陸上部でした」
「高跳び?」
「はい」
翔は、グラウンドの高跳びのピットを見る。
「俺、最初は瑠夏に負けるのが嫌でした」
「瑠夏のほうが高かった?」
「ずっと」
翔が苦笑する。
「俺が必死になって跳んでも、瑠夏はその少し上を跳んでいくんです」
拓実は黙って聞いていた。
「悔しくて。でも……」
翔の視線が、遠くへ向く。
「瑠夏が跳ぶ姿を見るのは、好きでした」
その言葉に、拓実の表情がわずかに変わる。
「ある日、瑠夏に言われたんです」
「何て?」
「いつか、私の身長より高く跳んでねって」
翔は少し笑った。
「その時は、絶対跳んでやるって思ってました」
拓実は何も言わなかった。
「怪我した時、一度はもう高跳びを辞めようと思ったんです」
翔の声が少し低くなる。
「いつ復帰できるかも分からなかったし。復帰できたとしても、前みたいに跳べるか分からない」
拓実は黙っている。
「でも……あの約束だけは、どうしても忘れられなかった」
翔は自分の足を見る。
「瑠夏が言ったんです。いつか、私の身長より高く跳んでって」
その言葉を、確かめるようにもう一度呟く。
「だから……もう一度跳びたいって思えたんです」
拓実は何も言わなかった。
ただ、翔の話を聞いていた。
ようやく分かった。
これは、昔好きだった女の子を今でも少し気にしている――そんな簡単な話じゃない。
瑠夏は。
翔にとって、ずっと特別だった。
怪我をして、高跳びを失いかけた時でさえ、その存在が翔を繋ぎ止めていた。
拓実は、静かに息を吐いた。
「……お前、瑠夏のこと」
そこで言葉を止める。
翔は、しばらく黙っていた。
そして――
「好きです」
拓実を見る。
真っ直ぐな目だった。
「……今も、瑠夏が好きです」
拓実は、その言葉を静かに受け止めた。
「……そうか」
短い言葉。
しばらく二人の間に沈黙が流れる。
やがて拓実が、静かに口を開いた。
「……お前、まだ瑠夏が好きなんだな」
「……はい」
迷いのない返事だった。
拓実の胸の奥が、少しだけ痛む。
それでも、目を逸らさなかった。
「そうか」
拓実は小さく息を吐いた。
「それでも、瑠夏は俺の彼女だから」
「分かってます」
翔は頷いた。
「拓実先輩が瑠夏を大切にしてることも、分かってます」
「だったら――」
「でも」
翔が拓実を見る。
「俺も、瑠夏が好きです」
真っ直ぐな目だった。
言い訳もしない。
奪おうともしない。
ただ、自分の気持ちだけを伝える。
拓実は、その目を見つめ返した。
不思議と、怒りは湧かなかった。
むしろ――
この男も、本気なんだと思った。
「……そうか」
拓実は小さく笑った。
「じゃあ、俺も負けるつもりはない」
「……はい」
二人の間に、しばらく静かな空気が流れた。
けれど、ふいに拓実が大きく息を吐く。
「あ〜、瑠夏不足だ〜」
「……」
「瑠夏、抱きしめてぇ」
翔が、思わず笑った。
「俺も抱きしめてぇ」
「おい」
拓実が笑いながら翔を見る。
「ダメだ。俺の彼女なんだから」
「ですよね」
二人で笑う。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなった。
夏の風が、二人の間を通り抜けていった。
瑠夏がいない数日間。
その場所で。
瑠夏を一番大切に思っている二人の男が、初めて互いの気持ちを知った。
けれど――
その会話を、瑠夏は知らない。
まだ何も知らないまま。
合宿から帰ってくる。
いつもの笑顔で。
「ただいま」
そう言って。
まさか自分の知らないところで、自分を巡る二人の気持ちが交わされていたなんて。
知る由もなかった。
学校はいつもより静かだった。
新体操部は数日間の合宿に入り、瑠夏もしばらく学校を離れている。
体育館にも、瑠夏の姿はない。
グラウンドでは、陸上部がいつもと変わらず練習を続けていた。
強い陽射し。
乾いた土の匂い。
蝉の声。
その中で、翔は黙々とトレーニングを続けていた。
高跳びの練習を終え、器具を片付けていると、後ろから声がした。
「翔」
振り返る。
「……拓実先輩」
「ちょっといいか?」
「はい」
拓実は、翔の隣に立った。
「瑠夏、今日から合宿なんだよな」
「はい」
「三泊四日だって言ってた」
「……よく覚えてますね」
「彼女だからな」
拓実が笑う。
「しばらく会えないな」
「……そうですね」
拓実が、ふっと笑った。
「あ〜、瑠夏不足だ」
「……」
翔は思わず笑った。
「四日だけですよ」
「俺にとっては長いの」
拓実はそう言って笑った。
その笑顔を見て、翔も少しだけ笑った。
けれど――
拓実の表情が、ふっと変わった。
「……なあ、翔」
「はい」
「この前の大会のことなんだけど」
翔の手が止まる。
「俺、ずっと気になってた」
「……何がですか?」
「瑠夏がお前の高跳びを見てた時の顔」
翔は答えなかった。
「それに、お前も瑠夏を見てた」
拓実の声は穏やかだった。
責めるような響きはない。
だからこそ、翔は逃げられなかった。
「……中学の頃からなんです」
ぽつりと、翔が言った。
「瑠夏とは、中学で一緒に陸上部でした」
「高跳び?」
「はい」
翔は、グラウンドの高跳びのピットを見る。
「俺、最初は瑠夏に負けるのが嫌でした」
「瑠夏のほうが高かった?」
「ずっと」
翔が苦笑する。
「俺が必死になって跳んでも、瑠夏はその少し上を跳んでいくんです」
拓実は黙って聞いていた。
「悔しくて。でも……」
翔の視線が、遠くへ向く。
「瑠夏が跳ぶ姿を見るのは、好きでした」
その言葉に、拓実の表情がわずかに変わる。
「ある日、瑠夏に言われたんです」
「何て?」
「いつか、私の身長より高く跳んでねって」
翔は少し笑った。
「その時は、絶対跳んでやるって思ってました」
拓実は何も言わなかった。
「怪我した時、一度はもう高跳びを辞めようと思ったんです」
翔の声が少し低くなる。
「いつ復帰できるかも分からなかったし。復帰できたとしても、前みたいに跳べるか分からない」
拓実は黙っている。
「でも……あの約束だけは、どうしても忘れられなかった」
翔は自分の足を見る。
「瑠夏が言ったんです。いつか、私の身長より高く跳んでって」
その言葉を、確かめるようにもう一度呟く。
「だから……もう一度跳びたいって思えたんです」
拓実は何も言わなかった。
ただ、翔の話を聞いていた。
ようやく分かった。
これは、昔好きだった女の子を今でも少し気にしている――そんな簡単な話じゃない。
瑠夏は。
翔にとって、ずっと特別だった。
怪我をして、高跳びを失いかけた時でさえ、その存在が翔を繋ぎ止めていた。
拓実は、静かに息を吐いた。
「……お前、瑠夏のこと」
そこで言葉を止める。
翔は、しばらく黙っていた。
そして――
「好きです」
拓実を見る。
真っ直ぐな目だった。
「……今も、瑠夏が好きです」
拓実は、その言葉を静かに受け止めた。
「……そうか」
短い言葉。
しばらく二人の間に沈黙が流れる。
やがて拓実が、静かに口を開いた。
「……お前、まだ瑠夏が好きなんだな」
「……はい」
迷いのない返事だった。
拓実の胸の奥が、少しだけ痛む。
それでも、目を逸らさなかった。
「そうか」
拓実は小さく息を吐いた。
「それでも、瑠夏は俺の彼女だから」
「分かってます」
翔は頷いた。
「拓実先輩が瑠夏を大切にしてることも、分かってます」
「だったら――」
「でも」
翔が拓実を見る。
「俺も、瑠夏が好きです」
真っ直ぐな目だった。
言い訳もしない。
奪おうともしない。
ただ、自分の気持ちだけを伝える。
拓実は、その目を見つめ返した。
不思議と、怒りは湧かなかった。
むしろ――
この男も、本気なんだと思った。
「……そうか」
拓実は小さく笑った。
「じゃあ、俺も負けるつもりはない」
「……はい」
二人の間に、しばらく静かな空気が流れた。
けれど、ふいに拓実が大きく息を吐く。
「あ〜、瑠夏不足だ〜」
「……」
「瑠夏、抱きしめてぇ」
翔が、思わず笑った。
「俺も抱きしめてぇ」
「おい」
拓実が笑いながら翔を見る。
「ダメだ。俺の彼女なんだから」
「ですよね」
二人で笑う。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなった。
夏の風が、二人の間を通り抜けていった。
瑠夏がいない数日間。
その場所で。
瑠夏を一番大切に思っている二人の男が、初めて互いの気持ちを知った。
けれど――
その会話を、瑠夏は知らない。
まだ何も知らないまま。
合宿から帰ってくる。
いつもの笑顔で。
「ただいま」
そう言って。
まさか自分の知らないところで、自分を巡る二人の気持ちが交わされていたなんて。
知る由もなかった。