君のとなり〜拓実と〜

第29章 約束の、その先

 夏休み。

 部活を終えた私は、校舎へ戻る途中、グラウンドの脇を通った。

 今日は夏期講習の日。

 受験生の拓実は、朝から講習に行っている。

 だから今日は、まだ会えていない。

 ふと、昨夜のことを思い出す。

 花火の夜。

 拓実と初めてキスをした。

 思い出しただけで、頬が熱くなる。

「……恥ずかしい」

 小さく呟いて、頬に手を当てた。

 そのとき――。

 グラウンドの奥から、走る音が聞こえた。

 顔を上げる。

 高跳びの助走路。

 そこに、一人で練習している人がいた。

「……翔くん」

 翔は、何度もバーに向かって走っていた。

 中学生の頃とは、全然違う。

 いつの間にこんなに伸びたんだろう。

 あの頃は、私とそれほど変わらない背丈だったはずなのに。

 今の翔は――高い。

 長い手足。

 しなやかな身体。

 そして、高跳び選手らしい鋭い動き。

 翔がこちらを振り向いた。

「あれ?」

 目が合う。

「瑠夏?」

「うん」

 翔が近づいてくる。

「拓実先輩は?」

「今日は夏期講習なんだって」

「夏期講習?」

「うん。受験生だもん。会えなくても仕方ないよ。今頃、頑張ってる」

「そっか」

 翔は短く答えた。

 瑠夏が嬉しそうに拓実の話をするのを見て、胸の奥が少し痛む。

 それでも翔は、その気持ちを表には出さなかった。

 好きな人が、自分の前で笑っている。

 それだけで嬉しい。

「瑠夏、ちょっとだけ来て」

「なに?」

 翔が高跳びのポールのほうを指差した。

「いいから」

「もう、翔くんって昔から強引なんだから」

 そう言って、瑠夏は翔についていった。

 ポールの近くまで来ると、翔が瑠夏を見る。

「身長、何センチ?」

「え?」

「だから、身長」

「……165センチ」

「でか!」

「失礼な!」

 瑠夏が頬を膨らませる。

 翔は思わず笑った。

「中学生のときは、もう少しちっちゃかっただろ?」

「私だってまだ成長するわよ」

「はいはい」

「翔くんこそ、大きくなりすぎ!」

「俺?」

「うん」

 瑠夏が翔を見上げる。

「今、何センチ?」

「179」

「……そんなに?」

「そんなに」

「中学生の頃、こんなに差なかったよね」

「まあな」

 二人で顔を見合わせる。

 そして、同時に笑った。

 中学生の頃みたいだった。

 何でもないことで笑っていた、あの頃。

 翔にとっては、その時間が少し苦しくて、それでも嬉しかった。

 好きな人が、自分の前で昔と変わらない笑顔を見せてくれる。

 それだけでよかった。

「よし」

 翔がバーのほうへ向き直った。

「見てろよ」

「え?」

「今から跳ぶ」

 翔がバーの高さを確認する。

 そして――。

 高さを、168センチに合わせた。

「あ……」

 瑠夏の胸が、きゅっとなる。

 覚えていてくれたんだ。

 あの頃の約束を。

 私の身長より高く跳ぶ。

 168センチを跳ぶ。

 いつか必ず――。

 そう言ってくれた約束。

 翔が助走路へ戻る。

 瑠夏は、黙ってその姿を見つめた。

 翔が走り出す。

 速い。

 踏み切る。

 身体が大きく弧を描く。

 そして――。

 バーを越えた。

 綺麗だった。

 とても綺麗な跳躍。

 中学生の頃、何度も見た光景。

 あの頃から変わらない。

 一番きれいで、一番高い跳躍。

 翔がマットに着地する。

 ゆっくりと起き上がり、こちらを見る。

 瑠夏は、少しだけ目を潤ませながら笑った。

「翔くん……」

「ん?」

「覚えていてくれたんだね」

 翔は、当たり前のように笑った。

「当たり前だろ」

 そして、まっすぐ瑠夏を見る。

「約束しただろ」

 瑠夏の胸が、じんと熱くなる。

 あの頃の約束を、翔はずっと覚えていてくれた。

 それが嬉しかった。

 大切な人が、自分との約束を忘れていなかったことが。

「……ありがとう、翔くん」

 夏の青空の下。

 168センチのバーは、まっすぐそこに立っていた。
< 29 / 49 >

この作品をシェア

pagetop