君のとなり〜拓実と〜

第31章 君の最後の体育祭

 10月。

 澄みきった秋空の下、体育祭の日を迎えた。

 朝から校庭は、生徒たちの声と笑い声で溢れていた。

 クラスごとに並んだテント。

 色とりどりのハチマキ。

 応援席から飛んでくる歓声。

 競技が一つ終わるたびに、グラウンドの熱気はどんどん高まっていった。

 瑠夏も友達と一緒に応援席から競技を見つめていた。

「次、何だっけ?」

「綱引きの次が……リレーじゃない?」

「あ、ほんとだ!」

 プログラムを確認した友達が、顔を上げる。

「最後、クラス対抗4×100メートルリレー!」

 その言葉に、周りの女子たちが一斉にざわめいた。

「拓実先輩、アンカーだよね?」

「うん!」

「翔もアンカーじゃなかった?」

「そう!」

「え、待って。拓実先輩と翔が最後に走るの?」

 瑠夏の胸が、小さく高鳴った。

 そう。

 今日の最終種目は、4×100メートルのクラス対抗リレー。

 そして、それぞれのクラスのアンカーを務めるのが、拓実と翔だった。

 拓実にとっては、高校生活最後の体育祭。

 そして翔にとっては――高校生活で初めての体育祭だった。

 去年の体育祭。

 翔は怪我をしていた。

 走ることも、競技に参加することもできず、グラウンドの外から仲間たちを見ていた。

 だから今日、こうして選手としてグラウンドに立っていることには、翔にしか分からない特別な意味があった。

 スタート地点に立つ翔は、静かにグラウンドを見渡した。

 去年は、ここに立てなかった。

 悔しかった。

 何度も思い出した。

 でも、今日は違う。

 自分の足で、この場所に立っている。

 そして――アンカーとして、バトンを受け取る。

 翔は小さく息を吐いた。

「……絶対、負けねぇ」

 その視線の先には、拓実がいた。

 拓実もまた、最後の体育祭を迎えていた。

 陸上部で走ってきた高校生活。

 100メートル。

 4×100メートルリレー。

 その最後を飾る舞台。

 拓実はスタート地点で軽く身体を動かしながら、前を見つめていた。

 その横顔を見て、女子たちから歓声が上がる。

「拓実先輩、かっこいい!」

「頑張ってー!」

 拓実は照れくさそうに笑って、軽く手を上げた。

 それだけで、また黄色い歓声が起こる。

「相変わらずだね、拓実先輩」

 友達が笑う。

 瑠夏も、思わず笑った。

「……うん」

 やっぱり、拓実は拓実だった。

 走っている姿を見ると、今でも胸が高鳴る。

 何度見ても、格好いいと思う。

 やがて、スタートラインに第一走者が並んだ。

「位置について――」

 空気が張りつめる。

 パンッ!

 号砲と同時に、一斉に走り出した。

「頑張れー!」

「行けー!」

 歓声がグラウンドを包む。

 第一走者から第二走者へ。

 第二走者から第三走者へ。

 バトンが次々と繋がっていく。

 そして――最後の走者へ。

「翔ー!」

 翔のクラスから、大きな声が飛んだ。

 バトンが翔の手に渡る。

 その瞬間、翔は一気に前へ飛び出した。

「速い!」

「翔、行けー!」

 翔は必死に走った。

 前には誰もいない。

 大きくリードしている。

 その差は――約40メートル。

「これ、翔のクラス勝つんじゃない?」

 応援席が沸いた。

 けれど、その直後。

「拓実先輩ー!」

 別の方向から、ひときわ大きな歓声が上がった。

 拓実がバトンを受け取った。

 瑠夏は思わず立ち上がった。

「……拓実」

 拓実は前を見た。

 遠くに見える翔の背中。

 40メートル近い差。

 普通なら、かなり厳しい。

 けれど――。

 拓実は迷わなかった。

 一歩目から、力強く地面を蹴る。

 ぐん、と身体が前へ伸びる。

「え……?」

 瑠夏が目を見開いた。

 拓実のスピードが、明らかに違う。

 一人。

 また一人。

 前を走っていた選手を次々と抜いていく。

「拓実、速っ!」

「すごい!」

「まだ追いつくの!?」

 黄色い歓声が一気に大きくなる。

 拓実はただ前だけを見ていた。

 最後の体育祭。

 最後のリレー。

 ここで、負けるつもりはなかった。

 その頃、翔も後ろから迫る気配を感じていた。

 ちらりと振り返る。

「……っ!」

 拓実が近づいている。

 翔の表情が変わった。

 もっと速く。

 もっと前へ。

 去年、怪我で走れなかった分まで。

 今日ここに立てたことを、無駄にしたくない。

 翔は必死に腕を振った。

「翔ー! 逃げてー!」

「拓実先輩、行けー!」

 応援席から、二人への声援が入り乱れる。

 40メートル。

 30メートル。

 差がどんどん縮まっていく。

「うそ……」

 瑠夏も息を呑んだ。

 拓実が、翔の背中に迫っている。

 残り20メートル。

 さらに縮まる。

 15メートル。

 翔は歯を食いしばった。

「……まだ!」

 残り10メートル。

 拓実の足音が、すぐ後ろまで迫る。

 翔が最後の力を振り絞る。

 拓実も譲らない。

 残り5メートル。

「うわあああああ!」

 グラウンド中から歓声が上がった。

 二人が並ぶ。

 最後の一歩。

 そして――。

 拓実が、ほんのわずかに先にゴールラインを駆け抜けた。

「うわああああああっ!」

 体育祭が、一気に沸いた。

「拓実先輩ー!」

「すげぇぇぇ!」

「逆転したー!」

 拓実はゴールを抜けても、そのまま数メートル走ってから、ようやく足を止めた。

 肩で大きく息をする。

 額には汗。

 それでも、どこか満足そうな笑顔が浮かんでいた。

 遅れて、翔もゴールする。

 膝に手をつき、息を整える。

 そして顔を上げると、拓実を見た。

「……くそ」

 拓実が振り返る。

「悪いな」

「……先輩、速すぎ」

 悔しそうに言った翔だったが、その顔には笑みが浮かんでいた。

 拓実も笑う。

「お前も速かったよ」

「でも、負けました」

「僅差だったな」

 拓実が笑う。

「いい勝負だった」

「……はい」

 二人は顔を見合わせる。

 さっきまで全力で競い合っていたとは思えないほど、穏やかな笑顔だった。

 その様子を、瑠夏は応援席から見つめていた。

 拓実。

 高校最後の体育祭。

 最後のリレー。

 最後まで、拓実は格好よかった。

 胸の奥が、ぎゅっとなる。

 来年の体育祭に、拓実はいない。

 分かっていたことなのに、こうして「最後」を目の前にすると、少しだけ寂しくなった。

 だから――。

 今、この瞬間をちゃんと覚えておきたい。

 走っている拓実も。

 汗を拭う姿も。

 ゴールしたときの笑顔も。

 全部、目に焼き付けておきたい。

 高校生の拓実を見られる時間は、もうそんなに長くないから。

 瑠夏は、もう一度だけ拓実を見つめた。

 そして、静かに笑った。

 ――拓実。

 大好き。

 これからも、ずっと。

 だからこそ、今を大切にしたい。
< 31 / 52 >

この作品をシェア

pagetop