君のとなり〜拓実と〜

第38章 泣かさないで

 昇降口を出ようとしたところで、翔とすれ違った。

「……瑠夏?」

 足が止まる。

 顔を上げると、翔が驚いたように私を見ていた。

「どうしたの……?」

 自分でも分かる。

 制服も髪も、雨でずぶ濡れだった。

 私は何も言えなかった。

「瑠夏、何があった?」

「……」

「その格好……」

 翔が心配そうに私を見る。

「……なんでもない」

「なんでもないわけないだろ」

 責めるような声じゃなかった。

 ただ、心配している。

 それが分かるからこそ、余計に涙が出そうになった。

「……ちょっと、雨に濡れただけ」

「屋上にいたの?」

「……うん」

 翔が黙る。

 それ以上、すぐには聞かなかった。

 私が話すのを待ってくれているみたいだった。

 しばらく俯いていると、胸の奥に溜め込んでいたものが、少しずつこぼれていった。

「……拓実がね」

「うん」

「関東の大学を受けるんだって」

 翔の表情が変わる。

 でも、何も言わない。

「朝、聞いたの」

「……そうなんだ」

「最初は、何とも思わなかった」

 自分でも不思議なくらい、普通に聞いていた。

 拓実なら、きっと大丈夫。

 頑張ってほしい。

 そう思った。

「私、応援したいの」

「うん」

「拓実が頑張ってきたのも知ってるし……夢を叶えてほしい」

「うん」

「でも……」

 声が震える。

「卒業したら、学校からいなくなることは分かってたの」

「……」

「でも、会えなくなるなんて……考えてなかった」

 涙が頬を伝う。

「関東って聞いて……初めて分かったの」

「……うん」

「今みたいに、毎日会えなくなるんだって」

 翔は何も言わない。

 ただ、黙って聞いてくれている。

「行かないでって言ったら……拓実、困るよね」

「……」

「だから、言えない」

 唇を噛む。

「応援してるって……ちゃんと伝えなきゃいけないのに」

 また涙が落ちた。

「私……最低だよね」

「そんなことない」

 翔が静かに言った。

「好きな人と離れたくないって思うのは、普通だろ」

「……翔くん」

「それに、応援したいって気持ちも本当なんだろ?」

「うん……」

「だったら、それでいいんじゃないか」

 その言葉に、また涙が溢れた。

「……ありがとう」

 翔は少しだけ困ったように笑った。

「風邪ひくぞ。早く帰れ」

「うん」

 私は歩き出しかけた。

 でも、ふと足を止める。

「翔くん」

「ん?」

「……拓実には、言わないで」

 翔が私を見る。

「お願い」

「……分かった」

「こんなこと言ってたって知られたくない」

「分かったよ」

 私は小さく頷いた。

「ありがとう」

 そして、私は昇降口を出た。

 翔は、その後ろ姿を見送った。

 * * *

 翌日。

「拓実先輩」

「翔?」

 放課後。

 翔に呼ばれて、拓実は足を止めた。

「少し、話してもいいですか?」

「ああ」

 二人は、人の少ない廊下へ移動した。

 翔はしばらく黙っていた。

 何から話すべきか迷っているようだった。

「……昨日、瑠夏に会いました」

「瑠夏に?」

 拓実の表情が変わる。

「はい」

「何かあった?」

「……泣いてました」

「え……?」

 拓実の声が低くなる。

「雨の中、屋上にいたみたいで……制服も髪も、ずぶ濡れでした」

「……」

「瑠夏から聞きました」

 翔は一度、息を吐いた。

「関東の大学を受けること」

 拓実が黙る。

「それを聞いて……瑠夏、すごく苦しんでました」

「……そうか」

 拓実は視線を落とした。

「俺、何も知らなかった……」

「瑠夏は、拓実先輩を応援したいって言ってました」

 拓実が顔を上げる。

「でも、離れたくないって」

「……」

「行かないでって言ったら、先輩を困らせるからって」

 翔の声が少しだけ震える。

「だから、拓実先輩には言わないでって頼まれました」

「……じゃあ、なんで俺に?」

 翔は少し黙った。

「……黙ってることができなかったからです」

 拓実が翔を見る。

「瑠夏があんなに泣いてるのを見て……何もなかったことにはできませんでした」

「……翔」

「俺から、これ以上何か言うつもりはありません」

 翔はまっすぐ拓実を見る。

「瑠夏と拓実先輩のことに、これ以上入るつもりもないです」

 そして――

「ただ……」

 少しだけ声を落とす。

「瑠夏を、泣かせないでください」

 拓実は、しばらく何も言わなかった。

 やがて、小さく息を吐く。

「……分かってる」

「……」

「俺も、ずっと心配だった」

 拓実の視線が、窓の外へ向く。

「関東に行くことを話したら、瑠夏がどう思うのか」

「……はい」

「だから……言うのが遅くなった」

 翔は黙って聞いていた。

「俺だって、瑠夏と離れたいわけじゃない」

 その言葉に、翔が少しだけ目を伏せる。

「でも、自分で決めた進路も諦めたくない」

「分かってます」

「だから……ちゃんと瑠夏と話す」

「はい」

 翔は頷いた。

「じゃあ、俺から言うのはこれで最後にします」

「翔」

「はい」

「ありがとう」

 翔は少しだけ笑った。

「……それじゃ」

「ああ」

 翔が歩き出す。

 その背中を見送りながら、拓実はもう一度、瑠夏の名前を心の中で呼んだ。

 昨日、瑠夏がどんな気持ちで雨の中にいたのか。

 それを想像するだけで、胸が痛くなる。

「……瑠夏」

 今度は、ちゃんと向き合わなければならない。

 拓実はそう思った。
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