君のとなり〜拓実と〜

第43章 旅立ちの日

 その朝は、いつもより早く目が覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む光を、ぼんやりと見つめる。

 今日は――拓実が旅立つ日。

 ずっと前から分かっていたはずなのに。

 今日になってみると、胸の奥が静かに痛んだ。

 ベッドから起き上がり、制服に着替える。

 鏡の前で髪を整える。

 泣かない。

 今日は、絶対に泣かない。

 拓実を笑顔で送り出す。

 そう決めていた。

 リビングへ行くと、母が朝食を用意していた。

「おはよう、瑠夏」

「おはよう」

 母が私の顔を見る。

「今日だったわね」

「うん」

「寂しい?」

 少しだけ迷ってから、私は頷いた。

「……うん」

 母は何も言わず、私の頭をそっと撫でた。

「でも、拓実くんの夢なんでしょう?」

「うん」

「だったら、笑って送り出してあげなさい」

「……分かってる」

 そう答えながら、胸の奥が少しだけ苦しくなった。

 * * *

 駅へ向かう途中。

 スマートフォンが震えた。

 拓実からだった。

『今、駅に向かってる』

 短いメッセージ。

 それだけなのに、胸が大きく跳ねる。

『私も向かってる』

 送信して、スマートフォンを鞄にしまった。

 足取りが少しだけ速くなる。

 早く会いたい。

 でも――。

 会ったら、離れたくなくなる気がした。

 それでも私は、駅へ向かった。

 * * *

 新幹線のホーム。

 人の流れの中に、拓実の姿を見つけた。

「拓実!」

 振り向いた拓実が、笑う。

「瑠夏」

「待った?」

「今来たところ」

 いつもの会話。

 いつもの笑顔。

 なのに。

 今日は、何もかもが特別だった。

 拓実の隣には、大きな荷物。

 それを見るだけで、現実を思い知らされる。

 これから、この人は関東へ行く。

 新しい生活を始める。

「荷物、大きいね」

「結構あるんだよ」

「そっか」

 私は笑った。

「新しい部屋、どんなところ?」

「駅からそんなに遠くない」

「よかった」

「大学までも、そんなにかからない」

「そっか」

 一つ一つ、どうでもいいような話をする。

 本当は、もっと話したいことがある。

 寂しい。

 離れたくない。

 もっと一緒にいたい。

 でも今日は――。

 そんなことを言わない。

「瑠夏」

「ん?」

「……寂しい?」

 心臓が、きゅっと締まった。

「……少しだけ」

 正直に答える。

「でも、大丈夫」

「本当に?」

「うん」

 私は笑った。

「だって、拓実が頑張るんだもん」

 拓実は少し黙ってから、優しく笑った。

「瑠夏も頑張るんだぞ」

「うん」

「新体操も」

「うん」

「無理するなよ」

「分かってる」

 拓実の手が、私の頭にそっと触れる。

 優しく髪を撫でる。

「……大きくなったな」

「何それ」

「なんとなく」

「私、高校生だよ?」

「知ってる」

 二人で笑う。

 その笑顔が、いつもと同じだから。

 少しだけ安心した。

 でも――。

 構内アナウンスが流れる。

 乗車する新幹線の到着を知らせる声。

 胸が、また苦しくなった。

 もうすぐ。

 本当に、行ってしまう。

 拓実が時計を見る。

「そろそろだな」

「……うん」

 新幹線がホームへ入ってくる。

 風が吹き抜ける。

 私は拓実を見つめた。

 あと少し。

 あと少しだけ。

 この人のそばにいられる。

 拓実が私を見る。

「瑠夏」

「ん?」

「……おいで」

 その言葉に、私は一歩近づいた。

 次の瞬間――。

 ぎゅっ。

 拓実の腕が、私を強く抱きしめる。

「……拓実」

 胸に頬を寄せる。

 いつもの匂い。

 いつもの温かさ。

 背中に回った腕。

 全部、覚えていたい。

「……離れたくない」

 声には出さなかった。

 今日は泣かない。

 拓実の夢を、笑顔で送り出す。

 そう決めたから。

 拓実の腕に、少しだけ力がこもる。

「元気でな」

「拓実も」

「ちゃんと連絡するから」

「うん」

「会えるときは、会おう」

「うん」

 やがて、ゆっくりと腕が離れる。

 拓実が私を見る。

 少し寂しそうに。

 でも、優しく笑った。

「瑠夏」

「ん?」

「笑って」

 私は、笑った。

「……うん」

 新幹線の扉が開く。

 拓実が荷物を持つ。

 そして、一度だけ振り返る。

「じゃあ、行ってくる」

「うん」

 私は笑顔で頷いた。

 拓実が車内へ入っていく。

 扉が閉まる。

 窓の向こうに、拓実の姿が見えた。

 拓実が手を上げる。

 私も手を振る。

 笑顔で。

 最後まで。

 新幹線が、ゆっくりと動き始める。

 少しずつ。

 少しずつ。

 拓実の姿が遠ざかっていく。

 それでも私は、手を振り続けた。

 笑顔のまま。

 涙は流さない。

 絶対に。

 やがて――。

 新幹線が、見えなくなった。

 私はゆっくりと手を下ろした。

 さっきまで笑っていた顔が、少しずつ崩れていく。

「……っ」

 胸が苦しい。

 息がうまくできない。

 もう、拓実はいない。

 どこを見ても、その姿はない。

 私はその場にしゃがみ込んだ。

「……拓実……」

 涙が溢れた。

 止まらない。

「……やだ……」

 もう、笑えなかった。

 堪えようとしても、次から次へと涙がこぼれる。

「……っ、う……」

 声を押し殺そうとしても、嗚咽が漏れる。

 肩が震える。

 私はその場にうずくまり、声を上げて泣いた。

 そのとき――。

 スマートフォンが震えた。

 涙で滲む画面を見る。

 拓実からだった。

『瑠夏』

 胸が、また痛くなる。

 続けて届く。

『今、泣いてる?』

 私はスマートフォンを握りしめた。

 そして――。

『笑って』

 涙が、また溢れた。

 最後に届いた一通。

『愛してる』

 私は画面を見つめたまま、泣いた。

 拓実は――。

 きっと分かっていた。

 私が最後まで笑っていたことも。

 手を振り続けていたことも。

 それでも。

 新幹線が見えなくなった瞬間、泣いているんじゃないかって。

 * * *

 新幹線の中。

 拓実は、窓の外を見つめていた。

 遠ざかっていくホーム。

 最後まで笑って手を振っていた瑠夏。

 今、きっと泣いている。

 新幹線が見えなくなった瞬間に。

 本当なら、戻って抱きしめてやりたい。

 この腕の中で、泣かせてやりたい。

 でも、今はできない。

 だからせめて。

 この気持ちだけは、届けたい。

 離れていても。

 そばにいなくても。

 瑠夏には、笑っていてほしい。

 拓実はそう願いながら、静かに目を閉じた。
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