君のとなり〜拓実と〜

第49章 君に会えた日

 新幹線が、ゆっくりとホームへ滑り込んだ。

 低く響いていた走行音が小さくなり、ドアが開く。

 私は荷物を手に、新幹線を降りた。

 ホームに降りた瞬間、人の多さに圧倒された。

 行き交う人たちの話し声。

 キャリーケースの車輪が床を転がる音。

 頭上から流れるアナウンス。

 いくつもの音が重なり合って、駅全体が大きく動いているように感じる。

 私はスマートフォンを握りしめた。

 拓実が迎えに来てくれる。

 そう約束してくれた。

 人の流れの向こうを見渡す。

 右。

 左。

 見慣れた姿を探す。

「瑠夏」

 聞き慣れた声に、顔を上げた。

 人の向こうに、拓実がいた。

「……拓実」

 名前を呼ぶだけで、胸の奥がいっぱいになる。

 拓実がこちらへ歩いてくる。

「お疲れ」

「うん」

 目の前まで来た拓実が、私の顔を覗き込んだ。

「疲れた?」

「少しだけ。でも大丈夫」

「そっか」

 拓実が笑う。

 その笑顔を見ただけで、さっきまでの心細さが消えていった。

「荷物、持つよ」

「大丈夫だよ」

「せっかく迎えに来たんだから」

 そう言って、拓実が荷物を受け取る。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 並んで歩き出す。

 人の流れに合わせながら、拓実が自然に私の歩幅に合わせてくれる。

 それだけのことなのに、嬉しかった。

 ホームを抜ける風が、髪を揺らす。

 私はそっと拓実の手に触れた。

 拓実は何も言わず、その手を握ってくれる。

「……会いたかった」

「俺も」

 短い言葉なのに、胸が温かくなる。

* * *

 会場に到着すると、多くの選手や関係者が行き交っていた。

 遠くから音楽が聞こえる。

 フロアでは別の選手が練習している。

 手具を持って移動する選手。

 会場の隅で柔軟をする選手。

 明日の本番を前に、それぞれが静かに準備をしている。

 私は顧問の先生と合流した。

 私の公式練習時間までは、まだ少しある。

 私は会場の隅へ移動して、柔軟を始めた。

 脚を伸ばす。

 身体を前へ倒す。

 ゆっくり呼吸をしながら、身体をほぐしていく。

 ふと顔を上げる。

 少し離れたところに、拓実がいた。

 目が合う。

 拓実が小さく笑う。

 私も笑い返した。

 それだけで、不思議と落ち着いた。

――拓実

 瑠夏が柔軟をしている。

 俺は少し離れた場所から、その姿を見ていた。

 久しぶりに見る瑠夏。

 でも――。

 以前より、細くなった気がする。

 膝や足元にはテーピング。

 腕も、脚も。

 身体全体が少し細く見える。

 どれだけ練習してきたんだろう。

 どれだけ頑張ってきたんだろう。

 聞きたい。

 無理してないかって。

 でも、今の瑠夏は選手の顔をしている。

 明日の舞台に立つために、自分の身体と向き合っている。

 だから俺は何も言わなかった。

 ただ、見守る。

 頑張ったな。

 心の中で、そう呟いた。

 そのとき、瑠夏が顔を上げた。

 目が合う。

 小さく笑ってくれる。

 俺も笑い返した。

 それだけで、少し安心した。

* * *

 やがて、私の公式練習の時間になった。

「行ってくるね」

 拓実を見る。

「うん。頑張って」

「ありがとう」

 私は小さく頷いて、フロアへ向かった。

 さっきまでとは、空気が違う。

 自分の番が来た。

 そう思っただけで、自然と背筋が伸びた。

 フロアに立つ。

 まず、足元の感触を確かめる。

 一歩。

 また一歩。

 軽く身体を弾ませる。

 普段練習しているマットとは、わずかに感触が違う。

 足裏から伝わってくる反発を確かめながら、何度か動いてみる。

 次に、視線を上げる。

 天井が高い。

 いつもの体育館とは違う。

 手具を投げたとき、どこまで見えるのか。

 空間の広さはどのくらいなのか。

 明日の演技を頭の中で思い描きながら、一つずつ確認していく。

 やがて、音楽が流れ始めた。

 聞き慣れた曲が、広い会場いっぱいに響く。

 私は深く息を吸った。

 そして――動き出した。

 走る。

 跳ぶ。

 身体を大きく伸ばす。

 手具を投げる。

 落ちてきた手具が、予想していたよりも強く跳ね返った。

「……っ」

 私はすぐに動きを止めた。

 マットの反発が強い。

 手具を拾い、もう一度同じ場所で確認する。

 投げる。

 落ちる。

 跳ね返る。

 その軌道を目で追う。

 もう一度。

 今度は、少しだけ身体の位置を変える。

 明日は、ここで本番。

 今日のうちに、この感覚を身体に覚えさせておきたい。

 音楽の響き方も違う。

 フロアから聞こえる音。

 自分の足音。

 遠くで誰かが手具を落とす音。

 いろんな音が混ざり合って、いつもの体育館とは違う空気を作っている。

 私はもう一度、深く息を吸った。

 大丈夫。

 ここで演技する。

 明日も、この場所に立つ。

 今まで積み重ねてきたものを、全部出すために。

 私は最後まで集中して、公式練習を終えた。

* * *

 フロアから戻る。

 拓実が待っていた。

「お疲れ」

「疲れた……」

「頑張ったな」

 拓実の手が、私の頭にそっと触れる。

「ちゃんと調整できた?」

「うん。マットの跳ね返りが思ったより強くて、ちょっとびっくりしたけど」

「そうか」

「でも、もう大丈夫」

「なら、よかった」

 拓実が笑う。

 その笑顔を見ていると、緊張していた身体から少しずつ力が抜けていく。

* * *

 宿泊先へ向かい、チェックインを済ませる。

 荷物を置いて戻ってくると、拓実が待っていた。

「門限まで、まだ少しあるんだろ?」

「うん」

「じゃあ、少しだけ歩こうか」

「いいの?」

「明日、朝早いから遅くならないように」

 そう言って、拓実が手を差し出す。

 私はその手を取った。

 二人で歩く。

 しばらくすると、大きな公園が見えてきた。

 公園の中央には、大きな噴水。

 水が高く吹き上がり、夕陽を受けてきらきらと輝いている。

 水の音が静かに響いている。

 木々の葉が風に揺れる。

 昼間の熱を残した空気に、少しだけ涼しい風が混じっていた。

「綺麗……」

 思わず呟く。

「うん」

 拓実と並んで、噴水の周りをゆっくり歩く。

 水しぶきが風に乗って、頬をかすめる。

 遠くから子どもの笑い声が聞こえる。

 夕暮れの空が、少しずつ淡い色に変わっていく。

「こうやって歩くの、久しぶりだね」

「そうだな」

 拓実が笑う。

 その横顔を見ているだけで、嬉しくなる。

 しばらくして、私は時計を見る。

「そろそろ戻らないと」

「そうだな」

 拓実も素直に頷く。

 明日は朝が早い。

 私も、ちゃんと休まなくちゃ。

 公園を出る前。

 拓実が足を止めた。

「瑠夏」

「ん?」

 拓実が私を見る。

「……最後に」

 拓実が両腕を少し広げる。

 私は一瞬だけ驚いて、それから笑った。

 その胸に、そっと入る。

 ぎゅっ。

 温かい。

 久しぶりに感じる、拓実の体温。

「……会いたかった」

 拓実の声が、頭の上から聞こえる。

「私も」

 拓実の腕が、少しだけ強くなる。

「前に言っただろ?」

「……何?」

「いっぱい抱きしめるって」

 私は顔を上げた。

「覚えてた」

「忘れるわけない」

 拓実が笑う。

 そして、ゆっくりと身体を離す。

「もう一回だけ」

 もう一度、抱きしめられる。

 今度は少し長く。

 夏の風が、二人の間を静かに通り抜ける。

「……元気出た?」

「うん」

「よかった」

 拓実が私の髪をそっと耳にかける。

「明日は、瑠夏らしく」

「うん」

「ちゃんと寝るんだぞ」

「拓実もね」

「分かった」

 拓実が優しく笑った。

「じゃあ、送ってく」

 宿泊先まで歩く。

 入口の前で足を止める。

「おやすみ、瑠夏」

「おやすみ、拓実」

 私は中へ入る。

 振り返る。

 拓実が手を振っている。

 私も笑って手を振り返した。

 その姿が見えなくなるまで、私は何度も振り返った。

 部屋に戻り、窓の外を見る。

 夜の空に、小さな光が浮かんでいる。

 明日は、インターハイ。

 高校生活最後の、大きな舞台。

 少しだけ緊張する。

 でも――。

 今日は、拓実に会えた。

 その温かさが、まだ身体に残っている。

 私は小さく笑った。

 明日は、きっと大丈夫。

 ベッドに入り、ゆっくり目を閉じた。

 明日の朝を迎えるために。
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