君のとなり〜拓実と〜
第51章 君がくれた、おまじない
インターハイが終わった。
長かったような、あっという間だったような。
演技を終えた私は、両親と拓実と一緒に会場を出た。
まだ胸の奥には、演技を終えたばかりの高揚感が残っている。
そんなときだった。
「突然すみません。少しお話してもよろしいですか?」
「……はい?」
振り向くと、そこには見知らぬ女性が立っていた。
柔らかく微笑んでいる。
「先ほどの演技を拝見していました」
「ありがとうございます」
「とても素敵な演技でした。それで……」
女性が少し間を置いてから、私に尋ねる。
「モデルのお仕事に興味はありませんか?」
「……え?」
目を丸くする。
「モデル……ですか?」
「はい。スタイルもとても綺麗ですし、表情も印象的でした。スポーツをされている方ならではの姿勢の良さもありますし、モデルのお仕事にも向いていると思います」
「私が……モデル……?」
思いもよらない言葉だった。
隣を見ると、お父さんもお母さんも驚いた顔をしている。
拓実も、少し驚いたように女性を見ていた。
「もちろん、すぐに決めていただく必要はありません。一度、保護者の方と相談してみてください。もしご興味があれば、こちらにご連絡ください」
女性から名刺を差し出される。
「……ありがとうございます」
私は両手で受け取った。
けれど、まだ何が起きたのか理解しきれていない。
手の中の名刺を見つめる。
そこに書かれている言葉。
モデル。
「……私が、モデル?」
思わず呟いた。
拓実が私を見る。
「びっくりしたな」
「うん……」
「でも、瑠夏がやってみたいと思うなら、俺は応援するよ」
「拓実……」
「まずは、ご両親とゆっくり話してみればいいんじゃない?」
「うん」
その言葉に、少しだけ気持ちが落ち着いた。
今すぐ答えを出す必要はない。
今日起きたことを、ゆっくり考えてみればいい。
そう思った。
そのあと、両親とは駅へ向かう途中で別れることになった。
「じゃあ、気をつけて帰るのよ」
「うん」
「拓実くんも、瑠夏をよろしくね」
「はい。任せてください」
「もう、子どもじゃないんだから」
そう言いながらも、お母さんは少し心配そうに私を見る。
「じゃあね」
「うん。またね」
二人の姿が見えなくなるまで、私は手を振った。
「……行こうか」
拓実が隣で笑った。
「うん」
「お腹空いてない?」
「……ちょっと空いてる」
「じゃあ、何か食べよう」
そう言って歩き出す拓実の隣に並ぶ。
大会が終わったばかりなのに、こうして二人で歩いていると、なんだか不思議な気持ちになった。
夕食を食べながら、今日の大会のことを話した。
「緊張した?」
「したよ。ものすごく」
「そうは見えなかったけど」
「本当に?」
「うん。堂々としてた」
「そっか……」
少し照れながら、私は水を飲む。
すると拓実が、ふと思い出したように言った。
「そういえばさ」
「ん?」
「フープって、カバーつけると……」
拓実が少し考えるような顔をする。
「……缶詰のパイナップルみたいじゃない?」
「…………はぁ?」
思わず固まった。
「え、何?」
「……拓実、どうしてそれ?」
「いや、今日見てて思っただけ」
「……嘘」
「嘘じゃないって」
私は思わず笑ってしまった。
「私ね……」
「うん」
「ブロック大会のとき、すごく緊張してて」
あのときのことを思い出す。
「『フープにカバー付けるとさ……おっきな缶のパイナップルに見えない?』って言ったの」
「……」
「自分でも、だいぶ壊れてたと思う」
拓実がしばらく黙る。
そして――
「……じゃあ、俺も今ちょっと壊れてるのかも」
「拓実、大丈夫?」
「たぶん」
二人で顔を見合わせて笑った。
こんなくだらないことで笑えることが、なんだか嬉しかった。
食事を終えて店を出る。
夜の街には、昼間とは違う空気が流れていた。
「まだ帰るには早いね」
私が言うと、拓実が私を見る。
「うん」
「……もう少し歩かない?」
「俺もそう思ってた」
私たちは、そのまま夜の街を歩いた。
手を繋いで。
並んで。
時々、今日のことを話しながら。
大会の緊張。
モデルの話。
これからのこと。
何でもない話。
それだけなのに、時間がゆっくり流れていくように感じた。
しばらく歩いたところで、小さな公園が見えた。
「ここ、座ろうか」
「うん」
二人でベンチに座る。
夜風が、火照った身体を優しく冷ましていく。
隣にいる拓実の肩が、ほんの少し私の肩に触れていた。
「瑠夏とこうやって過ごせるの、やっぱり嬉しい」
「私も、拓実に会えて嬉しかった」
「うん」
拓実が夜空を見上げる。
「こっちに来てからさ」
「うん」
「一人暮らしって、思ってたより大変なんだよな」
その声は、いつもの拓実より少しだけ弱かった。
「……拓実」
「親も友達もいないところで暮らすの、初めてだから」
拓実は苦笑する。
「大学も休みで、こうして瑠夏と会えたから今日は楽しかったけど……」
そこで言葉を止める。
「瑠夏が帰ったら……また一人だなって」
胸が締めつけられた。
「俺、結構寂しい」
拓実が、少しだけ笑った。
私は何も言えなかった。
いつも私を安心させてくれる拓実。
そんな拓実が、今は私に寂しさを見せている。
それが、たまらなく愛しく感じた。
私は立ち上がった。
「……瑠夏?」
拓実が私を見上げる。
私はそのまま、拓実の前に立った。
そっと手を伸ばす。
指先で、拓実の頬に触れた。
「……瑠夏?」
拓実が少し驚いたように私を見る。
私は少しだけ身体を屈める。
「……寂しくなったら、思い出せるおまじないしてあげる」
「……おまじない?」
拓実が少し驚いたように笑う。
「うん」
私はそのまま顔を近づけて――
拓実の唇に、そっと唇を重ねた。
一瞬だけのキス。
唇を離すと、拓実は何も言わずに私を見つめていた。
「……これ、おまじない」
そう言うと、拓実がふっと笑った。
「それ……効き目、強すぎない?」
「そう?」
「うん」
次の瞬間。
座ったままの拓実の腕が、私の腰に回った。
「……拓実?」
ぎゅっと抱き寄せられる。
立っている私の身体に、拓実がそっと寄り添う。
いつもなら、私が拓実に包まれている。
でも今は違う。
そのことが、なんだか愛しくて。
私は拓実の髪に手を伸ばした。
指先で、ゆっくりと撫でる。
「……もう少しだけ」
小さな声が聞こえた。
「うん」
私はそのまま、何度も優しく髪を撫でた。
夜の公園には、私たち以外ほとんど人がいなかった。
遠くから聞こえる車の音。
木々を揺らす夏の夜風。
そして、腕の中にいる拓実の温もり。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思った。
しばらくして、拓実がゆっくりと顔を上げた。
「……そろそろ帰ろうか」
「うん」
拓実は立ち上がると、私の手を自然に取った。
指を絡める。
そのまま、二人で歩き出した。
ホテルまでの道は、行きよりも少しだけ静かに感じた。
でも、手を繋いでいるだけで、不思議と寂しくなかった。
ホテルの前に着く。
「今日はありがとう」
「私こそ。一緒にいてくれてありがとう」
「ううん」
拓実が笑う。
「瑠夏が来てくれて、俺、すごく嬉しかった」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
「……私も」
繋いでいた手が、ゆっくり離れる。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、拓実」
最後に拓実が私の頭をそっと撫でてから、背を向けた。
私はその後ろ姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。
翌日。
ホテルを出る前に、私は荷物を持って廊下へ出た。
階段を上っている途中、ふと右足に意識が向いた。
ほんの一瞬のことだった。
私は気にせず、そのまま階段を上った。
チェックアウトを済ませ、ホテルの外へ出る。
待っていた拓実が、私の姿を見つけると笑った。
「おはよう」
「おはよう、拓実」
私の隣に来ると、拓実はすぐにスーツケースへ手を伸ばした。
「持つよ」
「大丈夫だよ?」
「うん。知ってる」
さらっと言って、拓実はスーツケースを持ち上げる。
「でも、俺が持ちたい」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
駅までの道を、並んで歩く。
拓実は自然に車道側を歩いていた。
何も言わない。
でも、私が少し歩く速度を落とせば、すぐに気づいて合わせてくれる。
「疲れてない?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「ほんと」
「ならよかった」
そんな何気ない会話さえ、愛しく感じる。
駅が近づくにつれて、胸の奥が少しずつ重くなっていった。
新幹線の駅に着いた。
私が乗る新幹線の発車時刻が近づいている。
拓実がスーツケースを足元に置いた。
「……そろそろだね」
「うん」
さっきまで普通に話していたのに。
こうして時間が近づくと、急に胸が苦しくなった。
拓実も同じなのか、何も言わずに私の手を握っている。
その手は、なかなか離れない。
ホームから列車の走る音がかすかに聞こえる。
構内には、行き交う人の足音と、遠くから流れるアナウンスが重なっていた。
もうすぐ、この手を離さなきゃいけない。
「……拓実」
「ん?」
私は握られた手に、そっと指を絡める。
「昨日のおまじない、忘れないでね」
「……忘れないよ」
拓実が私を見る。
「瑠夏も」
「うん」
「俺のこと、思い出して」
「毎日思い出すよ」
そう答えると、拓実が少し照れたように笑った。
「……それ、嬉しい」
私は拓実を見上げた。
「じゃあ……帰るね」
「うん」
拓実が一歩近づく。
そして、私の頭にそっと手を置いた。
「気をつけて帰って」
「うん」
「着いたら連絡して」
「わかった」
離れたくない。
でも、帰らなきゃ。
「……またね」
「またね、瑠夏」
最後に、ぎゅっと手を握られる。
その温もりを忘れないように、私も握り返した。
そして、ゆっくりと手を離す。
私は改札へ向かった。
数歩進んでから、振り返る。
拓実は、まだそこにいた。
私を見ながら、静かに手を振っている。
私も笑って手を振り返した。
もう一度だけ。
もう一度だけ、拓実の姿を目に焼きつけた。
私は改札を抜け、新幹線に乗り込む。
席に座り、窓の外へ目を向ける。
もう、拓実の姿は見えない。
さっきまで繋いでいた手の温もりが、まだ残っている気がした。
昨日の夜のおまじないも。
拓実の笑顔も。
全部、胸の奥に残っている。
「……大丈夫」
小さく呟く。
離れていても、好きな気持ちは変わらない。
だから、また会える日まで。
私はそっと窓の外を見つめた。
やがて、車内に発車のアナウンスが流れた。
ドアが閉まる。
そして――
新幹線がゆっくりと動き出した。
窓の外の景色が、少しずつ流れていく。
「拓実……またね」
私は小さく呟いた。
***
ホームから、新幹線の走り出す音が聞こえてきた。
拓実は、その音を聞きながら、しばらくその場に立っていた。
そして――
瑠夏が、遠くなっていく。
そう思った。
長かったような、あっという間だったような。
演技を終えた私は、両親と拓実と一緒に会場を出た。
まだ胸の奥には、演技を終えたばかりの高揚感が残っている。
そんなときだった。
「突然すみません。少しお話してもよろしいですか?」
「……はい?」
振り向くと、そこには見知らぬ女性が立っていた。
柔らかく微笑んでいる。
「先ほどの演技を拝見していました」
「ありがとうございます」
「とても素敵な演技でした。それで……」
女性が少し間を置いてから、私に尋ねる。
「モデルのお仕事に興味はありませんか?」
「……え?」
目を丸くする。
「モデル……ですか?」
「はい。スタイルもとても綺麗ですし、表情も印象的でした。スポーツをされている方ならではの姿勢の良さもありますし、モデルのお仕事にも向いていると思います」
「私が……モデル……?」
思いもよらない言葉だった。
隣を見ると、お父さんもお母さんも驚いた顔をしている。
拓実も、少し驚いたように女性を見ていた。
「もちろん、すぐに決めていただく必要はありません。一度、保護者の方と相談してみてください。もしご興味があれば、こちらにご連絡ください」
女性から名刺を差し出される。
「……ありがとうございます」
私は両手で受け取った。
けれど、まだ何が起きたのか理解しきれていない。
手の中の名刺を見つめる。
そこに書かれている言葉。
モデル。
「……私が、モデル?」
思わず呟いた。
拓実が私を見る。
「びっくりしたな」
「うん……」
「でも、瑠夏がやってみたいと思うなら、俺は応援するよ」
「拓実……」
「まずは、ご両親とゆっくり話してみればいいんじゃない?」
「うん」
その言葉に、少しだけ気持ちが落ち着いた。
今すぐ答えを出す必要はない。
今日起きたことを、ゆっくり考えてみればいい。
そう思った。
そのあと、両親とは駅へ向かう途中で別れることになった。
「じゃあ、気をつけて帰るのよ」
「うん」
「拓実くんも、瑠夏をよろしくね」
「はい。任せてください」
「もう、子どもじゃないんだから」
そう言いながらも、お母さんは少し心配そうに私を見る。
「じゃあね」
「うん。またね」
二人の姿が見えなくなるまで、私は手を振った。
「……行こうか」
拓実が隣で笑った。
「うん」
「お腹空いてない?」
「……ちょっと空いてる」
「じゃあ、何か食べよう」
そう言って歩き出す拓実の隣に並ぶ。
大会が終わったばかりなのに、こうして二人で歩いていると、なんだか不思議な気持ちになった。
夕食を食べながら、今日の大会のことを話した。
「緊張した?」
「したよ。ものすごく」
「そうは見えなかったけど」
「本当に?」
「うん。堂々としてた」
「そっか……」
少し照れながら、私は水を飲む。
すると拓実が、ふと思い出したように言った。
「そういえばさ」
「ん?」
「フープって、カバーつけると……」
拓実が少し考えるような顔をする。
「……缶詰のパイナップルみたいじゃない?」
「…………はぁ?」
思わず固まった。
「え、何?」
「……拓実、どうしてそれ?」
「いや、今日見てて思っただけ」
「……嘘」
「嘘じゃないって」
私は思わず笑ってしまった。
「私ね……」
「うん」
「ブロック大会のとき、すごく緊張してて」
あのときのことを思い出す。
「『フープにカバー付けるとさ……おっきな缶のパイナップルに見えない?』って言ったの」
「……」
「自分でも、だいぶ壊れてたと思う」
拓実がしばらく黙る。
そして――
「……じゃあ、俺も今ちょっと壊れてるのかも」
「拓実、大丈夫?」
「たぶん」
二人で顔を見合わせて笑った。
こんなくだらないことで笑えることが、なんだか嬉しかった。
食事を終えて店を出る。
夜の街には、昼間とは違う空気が流れていた。
「まだ帰るには早いね」
私が言うと、拓実が私を見る。
「うん」
「……もう少し歩かない?」
「俺もそう思ってた」
私たちは、そのまま夜の街を歩いた。
手を繋いで。
並んで。
時々、今日のことを話しながら。
大会の緊張。
モデルの話。
これからのこと。
何でもない話。
それだけなのに、時間がゆっくり流れていくように感じた。
しばらく歩いたところで、小さな公園が見えた。
「ここ、座ろうか」
「うん」
二人でベンチに座る。
夜風が、火照った身体を優しく冷ましていく。
隣にいる拓実の肩が、ほんの少し私の肩に触れていた。
「瑠夏とこうやって過ごせるの、やっぱり嬉しい」
「私も、拓実に会えて嬉しかった」
「うん」
拓実が夜空を見上げる。
「こっちに来てからさ」
「うん」
「一人暮らしって、思ってたより大変なんだよな」
その声は、いつもの拓実より少しだけ弱かった。
「……拓実」
「親も友達もいないところで暮らすの、初めてだから」
拓実は苦笑する。
「大学も休みで、こうして瑠夏と会えたから今日は楽しかったけど……」
そこで言葉を止める。
「瑠夏が帰ったら……また一人だなって」
胸が締めつけられた。
「俺、結構寂しい」
拓実が、少しだけ笑った。
私は何も言えなかった。
いつも私を安心させてくれる拓実。
そんな拓実が、今は私に寂しさを見せている。
それが、たまらなく愛しく感じた。
私は立ち上がった。
「……瑠夏?」
拓実が私を見上げる。
私はそのまま、拓実の前に立った。
そっと手を伸ばす。
指先で、拓実の頬に触れた。
「……瑠夏?」
拓実が少し驚いたように私を見る。
私は少しだけ身体を屈める。
「……寂しくなったら、思い出せるおまじないしてあげる」
「……おまじない?」
拓実が少し驚いたように笑う。
「うん」
私はそのまま顔を近づけて――
拓実の唇に、そっと唇を重ねた。
一瞬だけのキス。
唇を離すと、拓実は何も言わずに私を見つめていた。
「……これ、おまじない」
そう言うと、拓実がふっと笑った。
「それ……効き目、強すぎない?」
「そう?」
「うん」
次の瞬間。
座ったままの拓実の腕が、私の腰に回った。
「……拓実?」
ぎゅっと抱き寄せられる。
立っている私の身体に、拓実がそっと寄り添う。
いつもなら、私が拓実に包まれている。
でも今は違う。
そのことが、なんだか愛しくて。
私は拓実の髪に手を伸ばした。
指先で、ゆっくりと撫でる。
「……もう少しだけ」
小さな声が聞こえた。
「うん」
私はそのまま、何度も優しく髪を撫でた。
夜の公園には、私たち以外ほとんど人がいなかった。
遠くから聞こえる車の音。
木々を揺らす夏の夜風。
そして、腕の中にいる拓実の温もり。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思った。
しばらくして、拓実がゆっくりと顔を上げた。
「……そろそろ帰ろうか」
「うん」
拓実は立ち上がると、私の手を自然に取った。
指を絡める。
そのまま、二人で歩き出した。
ホテルまでの道は、行きよりも少しだけ静かに感じた。
でも、手を繋いでいるだけで、不思議と寂しくなかった。
ホテルの前に着く。
「今日はありがとう」
「私こそ。一緒にいてくれてありがとう」
「ううん」
拓実が笑う。
「瑠夏が来てくれて、俺、すごく嬉しかった」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
「……私も」
繋いでいた手が、ゆっくり離れる。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、拓実」
最後に拓実が私の頭をそっと撫でてから、背を向けた。
私はその後ろ姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。
翌日。
ホテルを出る前に、私は荷物を持って廊下へ出た。
階段を上っている途中、ふと右足に意識が向いた。
ほんの一瞬のことだった。
私は気にせず、そのまま階段を上った。
チェックアウトを済ませ、ホテルの外へ出る。
待っていた拓実が、私の姿を見つけると笑った。
「おはよう」
「おはよう、拓実」
私の隣に来ると、拓実はすぐにスーツケースへ手を伸ばした。
「持つよ」
「大丈夫だよ?」
「うん。知ってる」
さらっと言って、拓実はスーツケースを持ち上げる。
「でも、俺が持ちたい」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
駅までの道を、並んで歩く。
拓実は自然に車道側を歩いていた。
何も言わない。
でも、私が少し歩く速度を落とせば、すぐに気づいて合わせてくれる。
「疲れてない?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「ほんと」
「ならよかった」
そんな何気ない会話さえ、愛しく感じる。
駅が近づくにつれて、胸の奥が少しずつ重くなっていった。
新幹線の駅に着いた。
私が乗る新幹線の発車時刻が近づいている。
拓実がスーツケースを足元に置いた。
「……そろそろだね」
「うん」
さっきまで普通に話していたのに。
こうして時間が近づくと、急に胸が苦しくなった。
拓実も同じなのか、何も言わずに私の手を握っている。
その手は、なかなか離れない。
ホームから列車の走る音がかすかに聞こえる。
構内には、行き交う人の足音と、遠くから流れるアナウンスが重なっていた。
もうすぐ、この手を離さなきゃいけない。
「……拓実」
「ん?」
私は握られた手に、そっと指を絡める。
「昨日のおまじない、忘れないでね」
「……忘れないよ」
拓実が私を見る。
「瑠夏も」
「うん」
「俺のこと、思い出して」
「毎日思い出すよ」
そう答えると、拓実が少し照れたように笑った。
「……それ、嬉しい」
私は拓実を見上げた。
「じゃあ……帰るね」
「うん」
拓実が一歩近づく。
そして、私の頭にそっと手を置いた。
「気をつけて帰って」
「うん」
「着いたら連絡して」
「わかった」
離れたくない。
でも、帰らなきゃ。
「……またね」
「またね、瑠夏」
最後に、ぎゅっと手を握られる。
その温もりを忘れないように、私も握り返した。
そして、ゆっくりと手を離す。
私は改札へ向かった。
数歩進んでから、振り返る。
拓実は、まだそこにいた。
私を見ながら、静かに手を振っている。
私も笑って手を振り返した。
もう一度だけ。
もう一度だけ、拓実の姿を目に焼きつけた。
私は改札を抜け、新幹線に乗り込む。
席に座り、窓の外へ目を向ける。
もう、拓実の姿は見えない。
さっきまで繋いでいた手の温もりが、まだ残っている気がした。
昨日の夜のおまじないも。
拓実の笑顔も。
全部、胸の奥に残っている。
「……大丈夫」
小さく呟く。
離れていても、好きな気持ちは変わらない。
だから、また会える日まで。
私はそっと窓の外を見つめた。
やがて、車内に発車のアナウンスが流れた。
ドアが閉まる。
そして――
新幹線がゆっくりと動き出した。
窓の外の景色が、少しずつ流れていく。
「拓実……またね」
私は小さく呟いた。
***
ホームから、新幹線の走り出す音が聞こえてきた。
拓実は、その音を聞きながら、しばらくその場に立っていた。
そして――
瑠夏が、遠くなっていく。
そう思った。