君のとなり〜拓実と〜

第56章 君のとなりで

 十二月になった。

 志望校を決めてから、私は毎日、机に向かっていた。

 授業が終われば、図書室へ行く。

 参考書を開いて、問題を解く。

 分からないところは、先生に聞く。

 家に帰ってからも、また勉強する。

 英単語を覚えて。

 問題集を解いて。

 過去問を繰り返す。

 やっても、やっても。

 まだ足りない気がする。

 模試の結果を見ても、過去問の点数を見ても、安心なんてできなかった。

 できた日は、嬉しい。

 でも、その日の夜には、

 本番も同じようにできるかな。

 もし、できなかったら?

 そんな不安が、また襲ってくる。

 受験って、こんなに孤独なんだ。

 新体操をしていた頃は、練習すればするほど、自分の変化が分かった。

 できなかった技ができるようになったり。

 演技を繰り返すうちに、少しずつ自信がついたり。

 でも、受験は違う。

 どれだけ勉強しても、合格できるかどうかは分からない。

 だから、怖かった。

     *

 冬休みに入った。

 学校がなくなって、勉強する時間は増えた。

 朝から机に向かう。

 昼休憩を挟んで、また勉強する。

 夕方になっても、まだ参考書が開かれている。

 夜になれば、今日やったことを振り返る。

 それでも、

 もっとやらなきゃ。

 そんな気持ちが消えなかった。

 友達から届くメールには、

『推薦で決まったよ』

なんて言葉も増えてきた。

 おめでとう、って返す。

 本当に嬉しい。

 だけど、メールを閉じたあと。

 自分だけ、まだこの場所にいるような気がした。

 私はまた、机に向かった。

     *

 クリスマスも、家で勉強していた。

 スマホが震える。

『メリークリスマス』

 拓実からだった。

『メリークリスマス』

『今日も勉強してる?』

『うん』

『そっか』

 少しして、またメールが届く。

『今日は、少しくらい休んでもいいんじゃない?』

『でも受験生だよ?』

『分かってる』

『……うん』

『無理しすぎるなよ』

 その言葉に、胸が温かくなる。

『ありがとう』

『頑張ってるの、知ってるから』

 私は、そのメールを何度も読み返した。

 去年は拓実が、同じように受験勉強をしていた。

 今度は私。

 立場が入れ替わっただけなのに、なんだか不思議だった。

『拓実も去年、こんな感じだったの?』

 送ると、少しして返事が来た。

『まぁな』

『やっぱり不安だった?』

『そりゃ不安だったよ』

 その言葉に、胸がじんとする。

『そっか……』

『だから、無理しすぎるなよ』

『うん』

『でも、頑張ってるのはちゃんと分かってるから』

 私は、そのメールを何度も読み返した。

 拓実の言葉は、不思議と心に残る。

 大丈夫とは言わない。

 絶対受かるとも言わない。

 ただ、私が頑張っていることを知っていてくれる。

 それだけで、少し安心できた。

     *

 年末。

 冬休みも半分を過ぎた。

 私はその日も、朝から勉強していた。

 昼を過ぎても。

 夕方になっても。

 気づけば、外は暗くなっていた。

 スマホが震える。

『今日、帰ってきた』

 拓実からだった。

 私は、画面を見つめたまま動けなくなった。

『おかえり』

 それだけ送る。

『ただいま』

 短い返事。

 拓実は、何も言わなかった。

 会おうとも言わない。

 今の私が受験勉強をしていることを、分かっているから。

 それが拓実らしかった。

 私はスマホを机の上に置いた。

 でも――。

 集中できない。

 さっきまで解けていた問題が、頭に入ってこない。

 拓実が帰ってきた。

 そのことばかり考えてしまう。

 私は、そっとペンを置いた。

 少しだけ。

 本当に少しだけなら。

 私はスマホを手に取った。

『拓実』

 すぐに返事が来る。

『ん?』

『明日、時間ある?』

『あるよ』

 胸が少しだけ速くなる。

『……図書館、一緒に行かない?』

 送信。

 少しして――。

『勉強するんだろ?』

『うん』

『じゃあ、一緒に勉強しよう』

 その文字を見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。

『うん』

     *

 翌日。

 図書館の入口で、拓実が待っていた。

「おはよう」

「おはよう、拓実」

 顔を見ただけで、張りつめていたものが少し緩んだ。

 それが、自分でも分かった。

「頑張ってる?」

「……うん」

「そっか」

 拓実は、それ以上聞かなかった。

 二人で図書館へ入る。

 並んで席に座って、それぞれ参考書を開く。

 拓実も自分の勉強をしている。

 会話はほとんどない。

 ページをめくる音。

 ペンを走らせる音。

 静かな時間。

 それでも――。

 私は何度か、顔を上げた。

 そのたびに、拓実がいる。

 それだけで、不思議と落ち着いた。

 ひとりで机に向かっていると、どこまでも不安になるのに。

 拓実が同じ空間にいるだけで、呼吸がしやすくなる。

 しばらくして、拓実が小さな声で言った。

「瑠夏」

「ん?」

「ちょっと休憩する?」

 私は参考書から顔を上げた。

「……うん」

 二人で図書館を出る。

 外の空気は冷たかった。

「寒いね」

「寒いな」

 歩きながら、拓実が自然に私の手を取る。

 指が絡む。

 その温かさに、胸の奥がじんわりした。

「……ねぇ、拓実」

「ん?」

「私、ちゃんと受かるかな」

 口にした瞬間、自分でも驚いた。

 ずっと心の中にあった不安だった。

 拓実は少しだけ黙った。

 そして、私の手を握ったまま言った。

「不安だよな」

「……うん」

「勉強しても、これで大丈夫って思えないだろ?」

「……うん」

「俺も去年、そうだった」

 拓実の声は、優しかった。

「じゃあ、今は不安なままでいいんじゃない?」

「……え?」

「合格するかどうかなんて、今考えても分かんないだろ」

「……うん」

「だから、今日は俺といる間くらい、受験のこと忘れていいよ」

 胸がいっぱいになった。

「……うん」

 私は拓実の肩に、そっと寄り添った。

 しばらく、何も言わなかった。

 ただ、隣にいる。

 それだけでよかった。

「……拓実」

「ん?」

「拓実といると、安心する」

 拓実が少しだけ笑った。

「俺も」

「……ほんと?」

「うん」

 繋いだ手に、少し力がこもる。

「瑠夏といると、落ち着く」

 その言葉が嬉しくて。

 私は小さく笑った。

 受験が終わるまで、不安はきっと消えない。

 明日になれば、また机に向かう。

 また問題を解いて。

 また不安になる。

 それでも――。

 今日だけは。

 今だけは。

 私は受験生じゃなくていい。

 拓実のとなりにいる、ただの私でいられる。

 それだけで、十分だった。

     *

 図書館へ戻る前に、私はもう一度、拓実の手を握った。

「……もう少しだけ、一緒にいて」

「うん」

 拓実が笑う。

 その笑顔を見て、私は思った。

 また頑張ろう。

 不安なままでもいい。

 自信がなくてもいい。

 それでも、自分で決めた未来に向かって。

 私は、また一歩ずつ進んでいこう。
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