春の月明かり

秋桜と、君の隣

 10月。

 朝の風が少し冷たくなって、制服の袖から秋の空気が入り込んでくる。

 教室の窓から見える空は、どこまでも高く澄んでいた。

 私は机の上にスケッチブックを広げて、昨日描いた絵を眺めていた。

 そこには、秋の花壇と、神志那くんの横顔が描かれている。

 最近、私は神志那くんを描くことが増えた。

 花を見ているときの真剣な顔。
 水やりをしているときの優しい表情。
 私の絵を見て笑ってくれる顔。

 どれも、忘れたくないと思った。

「明凛、おはよう」

 聞き慣れた声に顔を上げる。

「神志那くん、おはよう」

 彼は隣の席に鞄を置いて、いつものように笑った。

「何描きよったん?」

「昨日の花壇」

「見てもいい?」

「うん」

 私はスケッチブックを少しだけ彼の方へ向けた。

 神志那くんは、ゆっくりと絵を眺めた。

「秋の花も、いいな」

「うん。色がきれいよね」

「明凛の絵で見ると、また違って見える」

 その言葉に、胸が温かくなった。

「ありがとう」

 もっと話したい。
 もっと近くにいたい。

 そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。


 昼休み。

 友達とお弁当を食べていると、教室の窓から花壇が見えた。

 風に揺れる花たちを見ていると、ふと、あることを思いついた。

「ねえ、神志那くん」

「ん?」

「今度、秋桜を見に行かん?」

 言った瞬間、自分でも驚いた。

 いつもは神志那くんから花を見に行こうと誘ってくれることが多かった。

 今日は、私から誘えた。

 神志那くんは少し目を丸くして、それから笑った。

「いいよ。見に行こう」

「ほんと?」

「うん。秋桜、ちょうど見頃のところもあるかもしれんし」

 嬉しくて、頬が緩んだ。

「やった」

 その様子を見ていた友達が、にやりと笑う。

「明凛から誘うなんて、珍しいやん」

「えっ、そうかな?」

「神志那くんと一緒に行きたいんやろ?」

「もう、そういうこと言わんで!」

 私は慌ててお弁当箱に目を落とした。

 神志那くんは、少し不思議そうに私たちを見ていた。


 放課後。

 約束していた秋桜を見に行く日。

 私はスケッチブックを鞄に入れて、昇降口で神志那くんを待っていた。

「明凛、お待たせ」

「ううん。今来たところ」

 二人で学校を出る。

 秋の風が、道沿いの木々を揺らしていた。

 歩きながら、私は何度も神志那くんの横顔を見てしまう。

 気づかれないようにしていたけれど、彼がこちらを向いた。

「どうしたん?」

「な、なんでもないよ」

「そっか」

 神志那くんは笑った。

 その笑顔に、また胸がどきんとした。


 しばらく歩くと、秋桜が咲いている場所に着いた。

 淡いピンクや白の花が、秋の風に揺れている。

「わあ……きれい」

 思わず声が出た。

 細い茎の先で、秋桜がふわふわと揺れている。

 まるで、空の色を映したような優しい景色だった。

「秋桜って、風に揺れる感じがいいよな」

 神志那くんが言った。

「うん。強い風が吹いても、また戻ってくるんやね」

「そうやな」

 彼は花を見つめながら、静かに笑った。

 私はスケッチブックを取り出した。

「描いてもいい?」

「もちろん」

 私は秋桜を描き始めた。

 花びらの形。
 細い茎。
 風に揺れる様子。

 そして、その隣に立つ神志那くん。

 彼が花を見ている横顔を、そっと描き込んだ。

「また俺も描いちょるん?」

 神志那くんが覗き込んできた。

「……うん」

「ありがとう」

 その声が優しくて、私は鉛筆を持つ手に少し力を込めた。


 描き終えると、私はスケッチブックを彼に見せた。

「どうかな?」

 神志那くんは、じっと絵を見つめた。

「いいな」

「ほんと?」

「うん。秋桜もきれいやし、ここに来たときのこと、思い出せそう」

 私は嬉しくなった。

「私も、今日のこと忘れたくないな」

 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 神志那くんは、私の方を向いた。

「また来ような」

「……うん!」

 その言葉が、胸の奥にそっと残った。


 帰り道。

 夕焼けが空を淡いオレンジ色に染めていた。

 私はスケッチブックを抱えながら、神志那くんの隣を歩いた。

「今日は誘ってくれてありがとう」

 神志那くんが言った。

「ううん。私が行きたかっただけやけん」

「また、明凛が行きたいところがあったら教えてな」

 私は足を止めそうになった。

 また誘ってもいいんだ。

 また一緒に花を見てもいいんだ。

 そう思うと、胸がいっぱいになった。

「……うん。次も誘うね」

「楽しみにしちょく」

 神志那くんは笑った。

 私も笑い返した。


 家に帰ると、私はすぐにスケッチブックを開いた。

 今日描いた秋桜の絵。

 その下に、小さく文字を書き添える。

『神志那くんと、秋桜を見た日』

 そして、その隣にもう一言。

『また一緒に、花を見たい』

 書き終えた私は、そっとページを閉じた。

 神志那くんと一緒にいると、いつもの景色が特別になる。

 花を見る時間も、帰り道も、何気ない会話も。

 全部が、大切な思い出になっていく。

 いつか、この気持ちを伝えられる日が来るのかな。

 そう考えると、少しだけ怖い。

 でも、今日、自分から誘えたことが嬉しかった。

 ほんの少しだけ、前に進めた気がした。

 秋の夜。

 窓の外では、優しい月明かりが静かに街を照らしていた。

 私は胸の中の想いをそっと抱きしめる。

 神志那くんの隣で、これからもたくさんの花を見たい。

 そして、いつか。

 この想いを、ちゃんと伝えたい。
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