春の月明かり

卒業前、君と見た春の花

三月。

冬の冷たい風が少しずつやわらぎ、校庭にも春の気配が訪れていた。

三年生の教室では、卒業式に向けた準備が進んでいる。

黒板の隅には、卒業までの日数。

その数字を見るたびに、明凛の胸は少しだけ苦しくなった。

もうすぐ、この教室ともお別れ。

麗と隣の席で過ごす毎日も、終わりに近づいていた。

「明凛、何見よるん?」

隣から声がして、明凛は顔を上げた。

麗が、いつもの穏やかな笑顔でこちらを見ている。

「卒業まで、あと何日かなって思って」

「そっか。もうすぐやね」

「うん……早かったね」

「ほんとやね」

麗は窓の外へ視線を向けた。

校庭の花壇には、冬から咲いているビオラがまだ残っている。

「春の花も、そろそろ咲き始めるかな」

その言葉に、明凛は顔を輝かせた。

「一緒に見に行きたいな」

「いいよ。放課後、見に行こう」

「ほんと?」

「うん」

明凛は、うれしそうに笑った。

卒業が近づいていても、こうして一緒に花を見られる。

それだけで、心が少しあたたかくなった。

***

放課後。

明凛はスケッチブックを抱えて、麗と一緒に校庭の花壇へ向かった。

春の風が、二人の制服をそっと揺らす。

花壇には、紫や黄色、白のビオラが咲いていた。

その近くでは、春に向けて育てられている花たちが、小さな葉を広げている。

「まだつぼみの花もあるね」

明凛がしゃがみ込むと、麗もうなずいた。

「これから、少しずつ咲いてくると思うよ」

「楽しみやね」

「うん」

明凛はスケッチブックを開いた。

花壇の様子を描き始める。

紫色のビオラ。
春を待つ小さな葉。
そして、花を見つめる麗の横顔。

何度も描いてきた姿なのに、今日はいつもと少し違って見えた。

中学校で麗を描ける時間も、あと少し。

そう思うと、鉛筆を動かす手がゆっくりになった。

「明凛?」

麗がこちらをのぞき込む。

「どうしたん?」

「……もうすぐ、卒業やなって思って」

「うん」

「麗くんを、こうやって描くのも、今までみたいにはできんくなるんやね」

言葉にすると、寂しさが胸いっぱいに広がった。

麗はしばらく黙ってから、やさしく言った。

「高校が別々になっても、会うことはできるよ」

「うん……」

「また一緒に花を見に行こう。明凛が描きたいときは、俺もモデルになるけん」

明凛は顔を上げた。

「ほんとに?」

「うん。約束したやろ?」

その言葉に、明凛は小さく笑った。

「……ありがとう、麗くん」

***

花壇を見たあと、二人は校庭のベンチに並んで座った。

夕方の空は、淡いオレンジ色に染まり始めている。

明凛はスケッチブックを膝の上に置き、今日描いた絵を見つめた。

「ねえ、麗くん」

「ん?」

「中学校で、いろんな花を一緒に見たね」

「そうやね」

「ネモフィラも、ひまわりも、コスモスも、ビオラも」

一つずつ思い出すたびに、胸の奥があたたかくなった。

花を見た日。
絵を描いた日。
麗が写真を撮ってくれた日。

どれも、明凛にとって大切な思い出だった。

「私、麗くんと花を見に行くのが好き」

思わず口にした言葉。

麗は明凛を見つめた。

「俺も好きだよ」

「……ほんと?」

「うん。明凛と一緒に見る花は、いつもと違って見える気がする」

明凛の頬が、少し赤くなった。

「私も、そう思う」

二人は、しばらく花壇を眺めていた。

言葉がなくても、気まずくはなかった。

ただ、隣に麗がいることがうれしかった。

***

数日後。

卒業式の練習が終わった教室で、明凛は机の中を整理していた。

ノートやプリントをまとめながら、ふと隣の席を見る。

麗の机。

毎日、当たり前のように隣にあった机。

その景色が、もうすぐ見られなくなる。

「明凛」

麗が声をかけてきた。

「これ、見て」

差し出されたスマートフォンには、花壇の写真が映っていた。

紫色のビオラと、そのそばに広がる小さな葉。

「この前の花壇?」

「うん。明凛が描いちょったとき、撮ったんよ」

「ありがとう。きれい……」

「また花が咲いたら、写真撮るね」

明凛は、うれしそうにうなずいた。

「私も、また描くね」

「楽しみにしちょる」

麗の笑顔を見て、明凛は思った。

高校が別々になっても、二人の思い出は続いていく。

一緒に見た花も、描いた絵も、交わした約束も。

きっと、これからも大切にできる。

***

卒業式の前日。

明凛は家でスケッチブックを開いた。

中学校で描いた花たち。

麗の横顔。
一緒に歩いた帰り道。
二人で交わした、春の約束。

ページをめくるたびに、たくさんの思い出がよみがえる。

最後のページに、明凛は今日の花壇を描いた。

春を待つビオラ。
小さな葉。
そして、隣に立つ麗の姿。

描き終えると、ページの下に言葉を添えた。

『中学校最後の春。
君と見た花を、ずっと忘れない』

明凛は、そっとスケッチブックを閉じた。

明日は卒業式。

寂しい気持ちは、まだ消えない。

それでも、麗と交わした約束がある。

春になったら、また一緒に花を見に行こう。

明凛は窓の外を見上げた。

夜空には、月が静かに浮かんでいた。

「麗くんと、また花を見られますように」

小さく願いながら、明凛は明日の準備を始めた。

中学校最後の日が、もうすぐやってくる。

そして、二人の新しい春も。
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