春の月明かり

卒業の日、君と見た春

三月。

朝の空は、少しだけ春の色をしていた。

明凛は制服に袖を通し、鏡の前で髪を整えた。

今日は、中学校の卒業式。

三年間過ごした教室。
友達と笑い合った時間。
そして、隣の席で花の話をしてくれた麗。

今日で、その毎日が終わる。

「……卒業かぁ」

明凛は小さくつぶやき、スケッチブックを鞄に入れた。

最後に、麗と一緒に見た花壇を描いたページを開く。

紫や黄色のビオラ。
春を待つ小さな葉。
そして、花を見つめる麗の横顔。

その絵を見てから、明凛は家を出た。

***

学校に着くと、校門の近くには、卒業式の看板が立っていた。

友達の声が聞こえる。

「明凛、おはよう!」

「おはよう」

いつもと同じように挨拶を交わしているのに、今日は少し違う。

みんな、どこか寂しそうで、でもうれしそうだった。

教室に入ると、麗が自分の席に座っていた。

「明凛、おはよう」

「麗くん、おはよう」

いつもの声。

いつもの笑顔。

けれど、今日でこの景色を見るのは最後になる。

「今日、卒業式やね」

明凛が言うと、麗はうなずいた。

「うん。あっという間やったね」

「ほんとに……」

明凛は、隣の席をそっと見た。

何度も話した場所。
何度も絵を見せた場所。
何度も麗の笑顔を見た場所。

その一つひとつが、胸に浮かんできた。

***

卒業式が始まった。

体育館には、卒業生たちが並んでいた。

名前を呼ばれる声。
卒業証書を受け取る姿。
先生たちの言葉。

明凛は、これまでの三年間を思い返していた。

入学したころは、麗とこんなに仲良くなるなんて思っていなかった。

隣の席になって、花の話をするようになって。
麗の写真を見せてもらい、自分も彼を描くようになった。

ネモフィラ。
ひまわり。
コスモス。
ビオラ。

二人で見た花たちは、どれも大切な思い出になっている。

そして、麗が自分にくれた言葉。

「また一緒に花を見に行こう」

その約束を、明凛は忘れたくなかった。

***

卒業式が終わると、教室はにぎやかな声でいっぱいになった。

友達同士で写真を撮ったり、先生にお礼を伝えたり。

明凛も友達と笑いながら、何枚か写真を撮った。

けれど、心のどこかでは、麗と話したいと思っていた。

教室の隅に、麗の姿が見えた。

明凛はスケッチブックを抱えて、そっと近づいた。

「麗くん」

「明凛」

「……卒業やね」

「うん」

少しの沈黙。

明凛は、鞄からスケッチブックを取り出した。

「これ、見てほしいんよ」

麗は、ゆっくりとページを開いた。

そこには、二人で見た花壇の絵が描かれていた。

「この前のビオラ?」

「うん。中学校で、麗くんと一緒に見た最後の花」

麗は絵をじっと見つめた。

「……きれいやね」

「ありがとう」

「明凛の絵って、見たときの気持ちまで伝わってくる気がする」

その言葉に、明凛は少し照れた。

「麗くんが、いつも花のこと教えてくれたけん」

「俺も、明凛が描いてくれるの、うれしかったよ」

麗はスケッチブックを閉じ、明凛に返した。

「これからも、描いてね」

「うん。麗くんのことも、花のことも、いっぱい描く」

***

教室の窓から、春の光が差し込んでいた。

明凛は、少しだけ勇気を出した。

「麗くん」

「ん?」

「高校が別々になるの、やっぱり寂しい」

麗は静かにうなずいた。

「俺も寂しいよ」

「毎日、隣の席で話せんくなるんやね」

「そうやね。でも、これで終わりじゃないけん」

麗は、明凛をまっすぐに見た。

「また会おう。花も一緒に見に行こう」

明凛は、目の奥が熱くなるのを感じた。

「……約束ね」

「約束」

麗は、いつものように笑った。

その笑顔を見て、明凛も笑った。

***

校庭へ出ると、春の風が吹いていた。

花壇には、ビオラが咲いている。

二人は、最後にもう一度、花壇の前に立った。

「この花壇とも、お別れやね」

明凛が言うと、麗は花を見つめた。

「でも、花はこれからも咲くよ」

「うん」

「また春になったら、違う花も咲くけん」

明凛はスケッチブックを開いた。

最後のページに、今日の花壇を描き始める。

卒業の日のビオラ。
春の光。
そして、隣に立つ麗。

「麗くん」

「ん?」

「また一緒に花を見に行こうね」

「うん。行こう」

「高校が別々でも、約束は変わらんけんね」

麗は、少し照れたように笑った。

「もちろん」

***

帰り道。

二人は、いつもの通学路を並んで歩いた。

明日からは、もう中学生ではない。

明凛は桜ヶ丘高校へ。
麗は星ヶ丘高校へ。

それぞれの場所で、新しい生活が始まる。

「麗くん」

「ん?」

「先生になる夢、応援しちょるけんね」

麗は、少し驚いたように明凛を見た。

それから、やさしく笑った。

「ありがとう。明凛も、福祉科で頑張ってね」

「うん」

二人は、歩きながら笑い合った。

別々の道へ進むことは、寂しい。

けれど、麗の夢を応援したい気持ちも、自分の夢に向かって頑張りたい気持ちも、本当だった。

そして、二人には、まだ続いていく約束がある。

春になったら、また一緒に花を見よう。

***

家に帰ると、明凛はスケッチブックを開いた。

今日描いた、卒業の日の花壇。

麗の横顔。
教室で交わした言葉。
帰り道の春の風。

そのページの下に、明凛はゆっくりと書いた。

『中学校を卒業した日。
君と見た花を、ずっと忘れない』

そして、もう一行。

『これからも、君と一緒に花を見たい』

明凛は、描き終えた絵をそっと見つめた。

中学校で過ごした三年間は、今日で終わる。

でも、麗を大切に思う気持ちは、終わらない。

春の花が咲くころ、また会える。

その日を楽しみにしながら、明凛はスケッチブックを閉じた。

窓の外には、やわらかな春の月明かりが広がっていた。

二人の新しい春は、ここから始まる。
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