春の月明かり

桜の栞と、4本の薔薇

卒業式から、少しだけ時間が過ぎた。

麗が星ヶ丘高校へ通うため、おじいちゃんの家へ引っ越す日がやってきた。

明凛は朝から、何度も窓の外を見ていた。

机の上には、小さなプレゼントが置いてある。

桜の花をあしらった、手作りの栞。

麗に渡すために、心を込めて作ったものだった。

栞には、淡いピンク色の桜の花びらを描いた。

花言葉は「私を忘れないで」。

離れて暮らすことになっても、麗に自分のことを忘れてほしくない。

そんな気持ちを込めた。

「……ちゃんと渡せるかな」

明凛は栞をそっと手に取った。



麗の家の前には、引越しの荷物が運び出されていた。

段ボール箱がいくつも並び、引越しの準備が進んでいる。

明凛が近づくと、麗のお母さんが気づいて声をかけてくれた。

「明凛ちゃん、来てくれたんやね」

「はい。麗くんを、送り出しに来ました」

「ありがとう。麗も喜ぶと思うよ」

お母さんは、荷物を運びながら言った。

「荷物は持って行くけど、麗は電車で行きなさいって言ってるの。これから通うことになるし、電車にも慣れておかないとね」

「そうなんですね」

明凛はうなずいた。

麗は、これから新しい場所で暮らし始める。

星ヶ丘高校へ通い、先生になるという夢に向かって歩いていく。

分かっていたことなのに、目の前にすると、胸がぎゅっと苦しくなった。



しばらくして、麗が家から出てきた。

「明凛……!」

「麗くん」

いつもと同じ声。

いつもと同じ顔。

けれど、今日は少しだけ違って見えた。

麗のそばには、電車で持って行く鞄が置かれていた。

「来てくれたんやね」

「うん。どうしても、見送りたかったけん」

明凛は笑おうとした。

でも、胸の奥がいっぱいで、うまく笑えなかった。

麗も、何か言おうとして、少しだけ黙った。

二人の間を、春の風が通り抜けていく。



「麗くん、これ……」

明凛は、持っていた小さな包みを差し出した。

「プレゼント」

「俺に?」

「うん。引越しのお祝い……というか、これからも頑張ってねっていう気持ち」

麗は、包みをそっと開いた。

中から出てきたのは、桜の栞だった。

淡いピンク色の桜が描かれていて、端には小さなリボンが結ばれている。

「……きれいやね」

麗は、栞をじっと見つめた。

「明凛が作ってくれたん?」

「うん。桜の栞」

明凛は、少しだけうつむいた。

「桜の花言葉に、『私を忘れないで』っていう意味があるんよ」

麗が顔を上げた。

「……そっか」

「高校が別々になって、今までみたいに会えんくなるけど……私のこと、忘れんでね」

最後の言葉は、少し震えていた。

麗は栞を大切そうに両手で包んだ。

「忘れるわけないよ」

「……ほんと?」

「うん。明凛のこと、忘れんよ」

麗は、まっすぐに明凛を見つめた。

「この栞、大切にするね」

明凛の目に、涙が浮かんだ。



「明凛」

今度は、麗が声をかけた。

「俺からも、渡したいものがあるんよ」

麗は、そっと後ろに置いていた花束を取り出した。

そこには、四本の赤い薔薇があった。

明凛は、思わず息をのんだ。

「……4本の薔薇?」

「うん」

麗は、花束を明凛に差し出した。

「誕生日にも渡したやろ?」

「うん……」

「また、明凛に渡したかったんよ」

4本の薔薇。

その花言葉は「愛してる」。

明凛は、花束を受け取った。

赤い薔薇が、春の光を受けて輝いている。

「麗くん……」

「明凛」

麗は、少しだけ息を吸った。

「離れても、俺の気持ちは変わらんよ」

明凛は、薔薇を胸に抱きしめた。

「……私も」

涙が、頬を伝った。



そのときだった。

麗の目にも、涙が浮かんでいることに、明凛は気づいた。

「……麗くん?」

麗は、うつむいた。

今まで、明凛は麗が泣いているところを見たことがなかった。

いつも穏やかで、落ち着いていて、優しく笑っていた麗。

その麗が、今、泣いていた。

「……ごめん」

麗の声が、少し震えた。

「俺、明凛と離れるの、思ってたより寂しいみたい」

明凛は、何も言えなかった。

麗の涙を見た瞬間、胸の奥にしまっていた寂しさが、一気にあふれてきた。

「……私も、寂しいよ」

声が震える。

「隣の席で話したり、一緒に花を見たり……今までみたいにできんくなるの、寂しい」

麗は、涙をぬぐいながら明凛を見た。

「うん……」

「でも、麗くんの夢、応援しちょるけん」

明凛は、薔薇を抱きしめたまま続けた。

「先生になって、戻ってきてね」

麗は、何度もうなずいた。

「うん。先生になって、戻ってくる」

そして、少しだけ声を強くした。

「明凛の元に、戻ってくるけん」

明凛の涙が、またこぼれた。

「……約束?」

「約束」

麗は、桜の栞を大切そうに握った。

「この栞を見たら、明凛のこと思い出すよ」

「私も、麗くんにもらった薔薇を見るたびに思い出す」

二人は、涙を浮かべながら笑った。



引越しの荷物が、すべて運び出された。

麗のお母さんが、声をかける。

「麗、そろそろ行くよ。電車の時間もあるからね」

「うん」

麗は鞄を持った。

明凛は、4本の薔薇を大切に抱えていた。

いよいよ、送り出す時間だった。

麗が明凛の前に立つ。

「明凛」

「うん」

「今まで、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」

明凛は、涙をぬぐって笑った。

「麗くんに出会えて、よかった」

麗は、桜の栞を見つめてから、明凛に目を戻した。

「俺も。明凛に出会えてよかった」

春の風が、二人の間をそっと吹き抜ける。

明凛は、胸いっぱいに息を吸った。

そして、麗を見つめて言った。

「……行ってらっしゃい、麗くん」

麗の目から、また涙がこぼれた。

「……行ってきます」

麗は、涙をぬぐいながら笑った。

「先生になって、明凛の元に戻ってくるけん」

「うん。待っちょるね」

麗は、ゆっくりと歩き出した。

明凛は、その背中を見つめていた。

何度も振り返る麗に、明凛はそのたびに笑顔を向けた。

「行ってらっしゃい!」

最後にもう一度、明凛は声をかけた。

麗は、涙を浮かべたまま、手を振った。

そして、春の道の向こうへ歩いていった。



麗の姿が見えなくなってからも、明凛はしばらくその場に立っていた。

腕の中には、4本の赤い薔薇。

鞄の中には、麗に渡した桜の栞と同じ桜を描いた、小さなスケッチが入っている。

花言葉は「私を忘れないで」。

そして、麗がくれた4本の薔薇には、「愛してる」。

離れても、気持ちは変わらない。

麗は先生になって、明凛の元へ戻ってくる。

その約束を、明凛は信じていた。

涙をぬぐい、空を見上げる。

春の空は、どこまでもやさしい色をしていた。

「麗くん……行ってらっしゃい」

明凛は、もう一度だけ小さくつぶやいた。

そして、4本の薔薇を大切に抱きしめながら、ゆっくりと歩き出した。

春の月明かりが、二人の新しい道を、そっと照らしていた。
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