春の月明かり
君を描く、放課後
6月。
体育祭が終わってから、学校の中には少しずつ梅雨の気配が広がっていた。
朝、教室へ向かう廊下の窓には、細かな雨粒がついている。
和泉明凛は、傘をたたみながら三年生の教室へ入った。
「おはよう」
自分の席に向かうと、隣の席に座っていた神志那麗が顔を上げた。
「おはよう、明凛」
いつもの穏やかな声。
その声を聞いただけで、明凛の心は少しだけ弾んだ。
「今日も雨だね」
「うん。しばらく続くみたい」
「洗濯物、乾かないなあ」
「そうだね」
麗が小さく笑う。
明凛もつられて笑った。
体育祭が終わってから、二人は前よりも自然に話せるようになっていた。
朝のあいさつ。
授業のこと。
休み時間の何気ない話。
特別なことがなくても、麗と話せる時間がうれしかった。
けれど、明凛にはひとつ、気になっていることがあった。
体育祭の日。
お昼に、妹の葉月――はーちゃんが言った言葉。
「ねぇねの彼氏?」
思い出すだけで、頬が熱くなる。
「……もう」
明凛は小さくつぶやいた。
「どうしたの?」
麗が不思議そうにこちらを見る。
「な、なんでもない!」
「そっか」
麗はそれ以上聞かず、教科書を開いた。
その優しさに、明凛はほっとする。
でも、ほんの少しだけ。
もう少し聞いてほしかったような気もした。
一時間目の授業が始まる。
明凛はノートを開き、先生の話を聞いていた。
けれど、ふと隣を見ると、麗が真剣に黒板を見つめている。
体育祭で、陸上部を追い抜いて走った姿が頭に浮かんだ。
あのときの麗は、いつもの麗と違っていた。
力強く走る姿。
バトンを握る手。
ゴールした瞬間の表情。
思い出すたび、胸がどきどきする。
明凛はノートの端に、こっそり鉛筆を走らせた。
走っている人の横顔。
髪の流れ。
前を見つめる目。
腕を振る姿。
描いているうちに、自然と麗に似てきた。
「……できた」
小さくつぶやいた、そのとき。
「和泉さん」
先生の声が教室に響いた。
「はいっ!」
明凛は慌てて顔を上げた。
「今、どこを説明していたかな?」
「えっと……」
黒板を見る。
ノートを見る。
何も答えられない。
「……すみません」
教室のあちこちから、くすくすと笑い声が聞こえた。
明凛は恥ずかしくなって、ノートを閉じた。
隣から、小さな声がした。
「ここだよ」
麗が、教科書のページを指さしてくれていた。
「ありがとう……」
明凛は小声で答えた。
麗は何も言わず、また黒板に目を向けた。
その横顔を見ながら、明凛は心の中で思った。
授業中は、ちゃんと集中しよう。
そう思ったのに、ノートの端に描いた麗の横顔が、どうしても気になってしまった。
休み時間。
明凛はノートを開き、さっき描いた絵を見つめていた。
体育祭で走っていた麗。
まだ線だけの、簡単なスケッチだった。
「それ、何?」
友達が隣からのぞき込む。
「えっ?」
明凛は慌ててノートを閉じた。
「な、なんでもない!」
「今、絵描いてたでしょ?」
「うん……ちょっとだけ」
「誰?」
「……内緒」
友達はにやっと笑った。
「もしかして、神志那くん?」
「ち、違うって!」
声が大きくなってしまった。
近くにいた麗が、こちらを振り向く。
「どうしたの?」
「なんでもない!」
明凛はすぐに答えた。
麗は少し不思議そうな顔をしたけれど、やがて小さく笑った。
「そっか」
友達は明凛の耳元で、こっそり言った。
「絶対そうじゃん」
「もう……!」
明凛はノートを胸に抱えた。
誰にも見られたくない。
でも、いつかは麗に見せたい。
そんな気持ちが、心の中で揺れていた。
放課後。
雨は朝よりも強くなっていた。
窓の外を見ると、校庭には水たまりができている。
美術部の活動が始まるまで、明凛は教室で少しだけ時間をつぶしていた。
ノートを開き、体育祭のスケッチを見つめる。
まだ完成には遠い。
けれど、麗が走っていたときの気持ちは、少しずつ形になっていた。
「明凛」
名前を呼ばれて、明凛は顔を上げた。
麗が、机の横に立っていた。
「神志那くん?」
「美術部、これから?」
「うん。もう少ししたら行くよ」
「そっか」
麗は窓の外を見た。
「雨、強いね」
「うん。帰るときには止んでるといいな」
「そうだね」
少しの沈黙。
明凛は、ノートをそっと閉じた。
今なら、聞けるかもしれない。
「あのね、神志那くん」
「ん?」
「体育祭のときに話したこと、覚えてる?」
「絵を描くって話?」
「うん!」
麗はうなずいた。
「覚えてるよ」
「実はね、もう描き始めてるんだ」
「そうなんだ」
麗の目が、少しだけ明るくなった。
「見てもいい?」
「えっ」
明凛はノートを抱えた。
「まだ途中だけど……」
「うん。途中でも見たい」
その言葉に、明凛の胸がどきんと鳴った。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
明凛は、ゆっくりノートを開いた。
そこには、走っている麗の姿が描かれていた。
バトンを持って、前を見つめている横顔。
まだ鉛筆の線だけで、細かなところは描き込まれていない。
麗はしばらく黙って絵を見つめていた。
明凛は不安になった。
「……変かな?」
「ううん」
麗が顔を上げる。
「すごい」
「え?」
「走ってたときのこと、思い出した」
明凛の胸が、じんわり温かくなった。
「ほんと?」
「うん。明凛、よく見てたんだね」
「……うん」
見ていた。
ずっと。
麗が走る姿を、目で追っていた。
「ありがとう」
麗が言った。
その言葉に、明凛は少し驚いた。
「どうして、神志那くんがお礼を言うの?」
「描いてくれてるから」
麗は、もう一度絵を見た。
「完成したら、見せて」
「うん。絶対見せるね」
明凛は笑った。
今度は、恥ずかしさよりもうれしさの方が大きかった。
美術部の活動を終えるころには、雨が少し弱くなっていた。
明凛は荷物をまとめ、昇降口へ向かった。
外へ出ると、空はまだ曇っていたけれど、雨粒はほとんど落ちていなかった。
「明凛」
振り向くと、麗がいた。
「神志那くん。帰るの?」
「うん」
「一緒に帰る?」
言ってから、明凛は自分の言葉に驚いた。
いつもなら、こんなふうに自分から誘うのは少し勇気がいる。
麗は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「うん。帰ろう」
二人は並んで歩き始めた。
校門を出ると、雨上がりの道が光っていた。
道の端には、小さな水たまり。
濡れた葉っぱが、風に揺れている。
「雨のあとの植物って、きれいだね」
明凛が言うと、麗は足を止めた。
「うん」
麗は道端の植え込みを見た。
葉っぱの先に、小さな水滴がついている。
「水滴が光ってる」
「ほんとだ」
明凛も隣に立って、葉っぱを見つめた。
雨に濡れた緑。
曇った空の向こうから差し込む、淡い光。
いつも見ている道なのに、今日は少し違って見えた。
「こういう景色も、写真に撮るの?」
明凛が尋ねる。
「うん。きれいだと思ったら」
「そっか」
「明凛は?」
「私は……絵に描きたくなる」
麗が明凛を見る。
「今の景色も?」
「うん。水滴とか、葉っぱとか。神志那くんが見てる景色を、私も描いてみたい」
言ってから、明凛は少し恥ずかしくなった。
麗は、静かに笑った。
「明凛らしいね」
「そうかな?」
「うん」
二人はまた歩き始めた。
帰り道の途中、小さな花壇があった。
雨に濡れた花が、風に揺れている。
明凛は足を止めた。
「きれい……」
麗も立ち止まる。
「この花、雨に強いんだね」
「神志那くん、名前分かる?」
「うん。これは……」
麗は花の様子を見ながら、名前を教えてくれた。
明凛は、花の形をじっと見つめた。
「かわいいね」
「うん」
「この花にも、花言葉ってあるの?」
「あるよ。花言葉はいくつかあるけどね」
「へえ……」
明凛は目を輝かせた。
「花言葉って、面白いね」
「そう?」
「うん。同じ花でも、いろんな意味があるんだね」
麗はうなずいた。
「花によっても、色によっても違うことがあるよ」
「神志那くん、詳しいね」
「園芸部だから」
麗は少し照れたように笑った。
明凛も笑った。
花のことを話す麗は、いつもより少しだけ楽しそうに見える。
そんな麗を見るのが、明凛は好きだった。
家に帰ると、明凛は鞄を置いて、すぐに机に向かった。
ノートを開く。
体育祭のスケッチ。
麗が走っている姿。
麗が「すごい」と言ってくれた絵。
明凛は鉛筆を持ち、少しずつ線を整えていった。
腕の動き。
髪の流れ。
真剣な目。
あの日、麗が走っていた姿を思い出しながら描く。
一度、手を止めた。
「……かっこよかったな」
思わず口からこぼれた。
体育祭の日。
陸上部を追い抜いた瞬間。
ゴールしたときの麗。
そして、今日。
絵を見て、うれしそうに笑ってくれた麗。
明凛は、ノートの端に小さく文字を書いた。
『体育祭の日、神志那くんが走った姿』
その下に、もうひとつ。
『忘れたくない景色』
書き終えると、明凛はそっとノートを閉じた。
翌朝。
明凛が教室に入ると、麗はすでに席に座っていた。
「おはよう、神志那くん」
「おはよう、明凛」
いつものあいさつ。
でも、今日は少しだけ違った。
麗が、明凛の机の上に置かれたノートを見て言った。
「絵、進んだ?」
「うん。少しだけ」
「楽しみ」
明凛は笑った。
「完成したら、ちゃんと見せるね」
「うん」
窓の外では、雨が上がった空に、薄い雲が流れていた。
明凛はノートを開き、今日の授業の準備を始めた。
隣には、麗がいる。
同じ教室。
同じ席。
いつもと変わらない朝。
それなのに、明凛の心は少しずつ変わっていた。
麗のことを、もっと知りたい。
麗が見ている景色を、自分も見てみたい。
そして、いつか。
絵の中だけじゃなく、隣で一緒に笑えたら。
そんな願いが、胸の奥で小さく芽を出していた。
雨上がりの空の下。
明凛の恋は、静かに色づき始めていた。
体育祭が終わってから、学校の中には少しずつ梅雨の気配が広がっていた。
朝、教室へ向かう廊下の窓には、細かな雨粒がついている。
和泉明凛は、傘をたたみながら三年生の教室へ入った。
「おはよう」
自分の席に向かうと、隣の席に座っていた神志那麗が顔を上げた。
「おはよう、明凛」
いつもの穏やかな声。
その声を聞いただけで、明凛の心は少しだけ弾んだ。
「今日も雨だね」
「うん。しばらく続くみたい」
「洗濯物、乾かないなあ」
「そうだね」
麗が小さく笑う。
明凛もつられて笑った。
体育祭が終わってから、二人は前よりも自然に話せるようになっていた。
朝のあいさつ。
授業のこと。
休み時間の何気ない話。
特別なことがなくても、麗と話せる時間がうれしかった。
けれど、明凛にはひとつ、気になっていることがあった。
体育祭の日。
お昼に、妹の葉月――はーちゃんが言った言葉。
「ねぇねの彼氏?」
思い出すだけで、頬が熱くなる。
「……もう」
明凛は小さくつぶやいた。
「どうしたの?」
麗が不思議そうにこちらを見る。
「な、なんでもない!」
「そっか」
麗はそれ以上聞かず、教科書を開いた。
その優しさに、明凛はほっとする。
でも、ほんの少しだけ。
もう少し聞いてほしかったような気もした。
一時間目の授業が始まる。
明凛はノートを開き、先生の話を聞いていた。
けれど、ふと隣を見ると、麗が真剣に黒板を見つめている。
体育祭で、陸上部を追い抜いて走った姿が頭に浮かんだ。
あのときの麗は、いつもの麗と違っていた。
力強く走る姿。
バトンを握る手。
ゴールした瞬間の表情。
思い出すたび、胸がどきどきする。
明凛はノートの端に、こっそり鉛筆を走らせた。
走っている人の横顔。
髪の流れ。
前を見つめる目。
腕を振る姿。
描いているうちに、自然と麗に似てきた。
「……できた」
小さくつぶやいた、そのとき。
「和泉さん」
先生の声が教室に響いた。
「はいっ!」
明凛は慌てて顔を上げた。
「今、どこを説明していたかな?」
「えっと……」
黒板を見る。
ノートを見る。
何も答えられない。
「……すみません」
教室のあちこちから、くすくすと笑い声が聞こえた。
明凛は恥ずかしくなって、ノートを閉じた。
隣から、小さな声がした。
「ここだよ」
麗が、教科書のページを指さしてくれていた。
「ありがとう……」
明凛は小声で答えた。
麗は何も言わず、また黒板に目を向けた。
その横顔を見ながら、明凛は心の中で思った。
授業中は、ちゃんと集中しよう。
そう思ったのに、ノートの端に描いた麗の横顔が、どうしても気になってしまった。
休み時間。
明凛はノートを開き、さっき描いた絵を見つめていた。
体育祭で走っていた麗。
まだ線だけの、簡単なスケッチだった。
「それ、何?」
友達が隣からのぞき込む。
「えっ?」
明凛は慌ててノートを閉じた。
「な、なんでもない!」
「今、絵描いてたでしょ?」
「うん……ちょっとだけ」
「誰?」
「……内緒」
友達はにやっと笑った。
「もしかして、神志那くん?」
「ち、違うって!」
声が大きくなってしまった。
近くにいた麗が、こちらを振り向く。
「どうしたの?」
「なんでもない!」
明凛はすぐに答えた。
麗は少し不思議そうな顔をしたけれど、やがて小さく笑った。
「そっか」
友達は明凛の耳元で、こっそり言った。
「絶対そうじゃん」
「もう……!」
明凛はノートを胸に抱えた。
誰にも見られたくない。
でも、いつかは麗に見せたい。
そんな気持ちが、心の中で揺れていた。
放課後。
雨は朝よりも強くなっていた。
窓の外を見ると、校庭には水たまりができている。
美術部の活動が始まるまで、明凛は教室で少しだけ時間をつぶしていた。
ノートを開き、体育祭のスケッチを見つめる。
まだ完成には遠い。
けれど、麗が走っていたときの気持ちは、少しずつ形になっていた。
「明凛」
名前を呼ばれて、明凛は顔を上げた。
麗が、机の横に立っていた。
「神志那くん?」
「美術部、これから?」
「うん。もう少ししたら行くよ」
「そっか」
麗は窓の外を見た。
「雨、強いね」
「うん。帰るときには止んでるといいな」
「そうだね」
少しの沈黙。
明凛は、ノートをそっと閉じた。
今なら、聞けるかもしれない。
「あのね、神志那くん」
「ん?」
「体育祭のときに話したこと、覚えてる?」
「絵を描くって話?」
「うん!」
麗はうなずいた。
「覚えてるよ」
「実はね、もう描き始めてるんだ」
「そうなんだ」
麗の目が、少しだけ明るくなった。
「見てもいい?」
「えっ」
明凛はノートを抱えた。
「まだ途中だけど……」
「うん。途中でも見たい」
その言葉に、明凛の胸がどきんと鳴った。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
明凛は、ゆっくりノートを開いた。
そこには、走っている麗の姿が描かれていた。
バトンを持って、前を見つめている横顔。
まだ鉛筆の線だけで、細かなところは描き込まれていない。
麗はしばらく黙って絵を見つめていた。
明凛は不安になった。
「……変かな?」
「ううん」
麗が顔を上げる。
「すごい」
「え?」
「走ってたときのこと、思い出した」
明凛の胸が、じんわり温かくなった。
「ほんと?」
「うん。明凛、よく見てたんだね」
「……うん」
見ていた。
ずっと。
麗が走る姿を、目で追っていた。
「ありがとう」
麗が言った。
その言葉に、明凛は少し驚いた。
「どうして、神志那くんがお礼を言うの?」
「描いてくれてるから」
麗は、もう一度絵を見た。
「完成したら、見せて」
「うん。絶対見せるね」
明凛は笑った。
今度は、恥ずかしさよりもうれしさの方が大きかった。
美術部の活動を終えるころには、雨が少し弱くなっていた。
明凛は荷物をまとめ、昇降口へ向かった。
外へ出ると、空はまだ曇っていたけれど、雨粒はほとんど落ちていなかった。
「明凛」
振り向くと、麗がいた。
「神志那くん。帰るの?」
「うん」
「一緒に帰る?」
言ってから、明凛は自分の言葉に驚いた。
いつもなら、こんなふうに自分から誘うのは少し勇気がいる。
麗は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「うん。帰ろう」
二人は並んで歩き始めた。
校門を出ると、雨上がりの道が光っていた。
道の端には、小さな水たまり。
濡れた葉っぱが、風に揺れている。
「雨のあとの植物って、きれいだね」
明凛が言うと、麗は足を止めた。
「うん」
麗は道端の植え込みを見た。
葉っぱの先に、小さな水滴がついている。
「水滴が光ってる」
「ほんとだ」
明凛も隣に立って、葉っぱを見つめた。
雨に濡れた緑。
曇った空の向こうから差し込む、淡い光。
いつも見ている道なのに、今日は少し違って見えた。
「こういう景色も、写真に撮るの?」
明凛が尋ねる。
「うん。きれいだと思ったら」
「そっか」
「明凛は?」
「私は……絵に描きたくなる」
麗が明凛を見る。
「今の景色も?」
「うん。水滴とか、葉っぱとか。神志那くんが見てる景色を、私も描いてみたい」
言ってから、明凛は少し恥ずかしくなった。
麗は、静かに笑った。
「明凛らしいね」
「そうかな?」
「うん」
二人はまた歩き始めた。
帰り道の途中、小さな花壇があった。
雨に濡れた花が、風に揺れている。
明凛は足を止めた。
「きれい……」
麗も立ち止まる。
「この花、雨に強いんだね」
「神志那くん、名前分かる?」
「うん。これは……」
麗は花の様子を見ながら、名前を教えてくれた。
明凛は、花の形をじっと見つめた。
「かわいいね」
「うん」
「この花にも、花言葉ってあるの?」
「あるよ。花言葉はいくつかあるけどね」
「へえ……」
明凛は目を輝かせた。
「花言葉って、面白いね」
「そう?」
「うん。同じ花でも、いろんな意味があるんだね」
麗はうなずいた。
「花によっても、色によっても違うことがあるよ」
「神志那くん、詳しいね」
「園芸部だから」
麗は少し照れたように笑った。
明凛も笑った。
花のことを話す麗は、いつもより少しだけ楽しそうに見える。
そんな麗を見るのが、明凛は好きだった。
家に帰ると、明凛は鞄を置いて、すぐに机に向かった。
ノートを開く。
体育祭のスケッチ。
麗が走っている姿。
麗が「すごい」と言ってくれた絵。
明凛は鉛筆を持ち、少しずつ線を整えていった。
腕の動き。
髪の流れ。
真剣な目。
あの日、麗が走っていた姿を思い出しながら描く。
一度、手を止めた。
「……かっこよかったな」
思わず口からこぼれた。
体育祭の日。
陸上部を追い抜いた瞬間。
ゴールしたときの麗。
そして、今日。
絵を見て、うれしそうに笑ってくれた麗。
明凛は、ノートの端に小さく文字を書いた。
『体育祭の日、神志那くんが走った姿』
その下に、もうひとつ。
『忘れたくない景色』
書き終えると、明凛はそっとノートを閉じた。
翌朝。
明凛が教室に入ると、麗はすでに席に座っていた。
「おはよう、神志那くん」
「おはよう、明凛」
いつものあいさつ。
でも、今日は少しだけ違った。
麗が、明凛の机の上に置かれたノートを見て言った。
「絵、進んだ?」
「うん。少しだけ」
「楽しみ」
明凛は笑った。
「完成したら、ちゃんと見せるね」
「うん」
窓の外では、雨が上がった空に、薄い雲が流れていた。
明凛はノートを開き、今日の授業の準備を始めた。
隣には、麗がいる。
同じ教室。
同じ席。
いつもと変わらない朝。
それなのに、明凛の心は少しずつ変わっていた。
麗のことを、もっと知りたい。
麗が見ている景色を、自分も見てみたい。
そして、いつか。
絵の中だけじゃなく、隣で一緒に笑えたら。
そんな願いが、胸の奥で小さく芽を出していた。
雨上がりの空の下。
明凛の恋は、静かに色づき始めていた。