春の月明かり
七夕に咲く、青い花
六月の終わり。
梅雨の雨が、校舎の窓を静かに濡らしていた。
三年生の教室では、期末テストの話や、夏休みの予定の話が少しずつ増えていた。
和泉明凛は、隣の席に座る神志那麗と、いつものように話していた。
「もうすぐ七月だね」
明凛が窓の外を見ながら言った。
「うん。もうすぐ夏休みだね」
麗が答える。
「その前に、テストがあるけどね……」
「そうだった」
二人は顔を見合わせて笑った。
明凛は、机の上に置いていたカレンダーを見た。
七月七日。
その日付に、小さな印がついている。
麗は何気なく、それに気づいた。
「明凛、七月七日に印がついてるね」
「えっ?」
明凛はカレンダーを見た。
「ああ、これ?」
「うん。何かあるの?」
明凛は少しだけ照れたように笑った。
「私の誕生日なんだ」
「……そうなんだ」
麗は驚いたように目を丸くした。
「七夕が誕生日なんだね」
「うん。そうなの」
明凛はうなずいた。
「小さいころから、七夕の日が来ると、誕生日だなあって思ってた」
「素敵だね」
麗が言った。
「そうかな?」
「うん。七夕の日に生まれたって、なんだか特別な感じがする」
明凛は、少し恥ずかしくなった。
「ありがとう」
麗はカレンダーをもう一度見た。
七月七日。
明凛の誕生日。
その日付を、心の中でそっと覚えた。
その日の放課後。
麗は園芸部の活動を終えると、帰り道を歩いていた。
空はまだ曇っていたけれど、雲の切れ間から少しだけ青空が見えている。
ふと、麗は明凛のことを思い出した。
七月七日が誕生日。
七夕の日。
明凛は、花を描くのが好きだ。
ネモフィラを一緒に見た日も、絵を描いてくれた。
あの青い花を見つめていた明凛の横顔が、頭に浮かんだ。
「……ネモフィラ」
麗は小さくつぶやいた。
明凛が好きな花。
あの日、二人で見た花。
誕生日に何か贈るなら、あの花に関係するものがいいかもしれない。
そう思った。
数日後。
麗は、帰り道にあるお店へ立ち寄った。
店内には、ハンカチや小物が並んでいた。
誕生日のプレゼントを探すためだった。
明凛に、何を贈ったら喜んでもらえるだろう。
花を描くのが好きな明凛。
ネモフィラを見た日のことを、今でも覚えている。
麗は棚に並んだハンカチを、ひとつずつ見ていった。
淡いピンクの花柄。
白い小花の模様。
青い空のような色。
その中で、麗の目に留まったものがあった。
淡い水色の生地に、小さなネモフィラが描かれたハンカチ。
青い花びらが、やさしい色で並んでいる。
まるで、あの日の花壇のようだった。
麗は、そのハンカチを手に取った。
「……これがいい」
明凛が見たら、どんな顔をするだろう。
喜んでくれるかな。
そんなことを考えると、麗の胸が少しだけ温かくなった。
麗はハンカチを購入し、丁寧に包んでもらった。
小さな紙袋を手に、お店を出る。
夕方の風が、頬をなでた。
「喜んでくれるといいな」
麗は、紙袋を大切に持ちながら帰った。
七月七日。
朝から、明凛は少しだけそわそわしていた。
今日は自分の誕生日。
家族から「おめでとう」と言われて、うれしい気持ちになっていた。
けれど、学校ではいつも通りに過ごそうと思っていた。
教室に入ると、麗が席に座っていた。
「おはよう、神志那くん」
「おはよう、明凛」
麗は、いつもと変わらない穏やかな笑顔を見せた。
「誕生日、おめでとう」
その言葉に、明凛はぱっと顔を上げた。
「覚えててくれたの?」
「うん。七夕が誕生日だって言ってたから」
明凛は、うれしくて笑った。
「ありがとう!」
麗は少しだけ照れたように視線を落とした。
「今日、渡したいものがあるんだ」
「えっ?」
明凛は驚いた。
「私に?」
「うん」
麗は鞄から、小さな紙袋を取り出した。
明凛の目が、紙袋に向かう。
「誕生日のプレゼント」
「……えっ!」
明凛は、思わず声を上げた。
「神志那くん、プレゼント用意してくれたの?」
「うん。よかったら、受け取って」
明凛は、そっと両手を差し出した。
「ありがとう……!」
紙袋を受け取る。
胸がどきどきしていた。
「開けてもいい?」
「もちろん」
明凛は、ゆっくりと包みを開いた。
中から出てきたのは、淡い水色のハンカチだった。
小さな青い花が、いくつも描かれている。
「……ネモフィラ!」
明凛の顔が、ぱっと明るくなった。
「これ、ネモフィラだよね?」
「うん」
麗がうなずいた。
「前に、一緒に見たから」
明凛は、ハンカチを大切そうに両手で広げた。
淡い水色の生地に、かわいらしいネモフィラ。
あの日の花壇が、目の前によみがえるようだった。
「かわいい……」
明凛は、何度もハンカチを見つめた。
「すごくかわいい!」
麗は、ほっとしたように笑った。
「よかった」
明凛は顔を上げた。
「神志那くん、ありがとう。大切にするね」
「うん」
「ネモフィラを選んでくれたの、うれしい」
「明凛が好きそうだと思って」
その言葉に、明凛の胸がきゅっとなった。
自分の好きな花を覚えていてくれた。
一緒に見た景色を、麗も覚えていてくれた。
それが、何よりもうれしかった。
「……ほんとにありがとう」
明凛は、ハンカチをそっと胸に抱いた。
麗は、少し照れたように笑った。
休み時間。
明凛は、もう一度ハンカチを広げていた。
ネモフィラの青い花が、やさしく並んでいる。
「かわいいなあ……」
思わず、声がこぼれた。
友達が、明凛の机をのぞき込んだ。
「それ、新しいハンカチ?」
「うん。誕生日プレゼントでもらったの」
「へえ、かわいいね! 誰から?」
明凛は、少しだけ顔を赤くした。
「……神志那くん」
友達は、すぐににやっと笑った。
「えー! 神志那くんから?」
「う、うん」
「よかったねえ」
「もう……」
明凛は恥ずかしくなって、ハンカチをそっとたたんだ。
そのとき、麗がこちらを見た。
「気に入った?」
「うん!」
明凛は、すぐに答えた。
「すごく気に入ったよ。ありがとう」
麗は安心したように笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、明凛はまた胸が温かくなった。
放課後。
明凛は美術部の活動を終え、鞄の中を確認した。
ネモフィラのハンカチは、なくさないように大切にしまってある。
帰り支度をしていると、麗が声をかけてきた。
「明凛、帰る?」
「うん。神志那くんも?」
「うん」
二人は並んで昇降口へ向かった。
外に出ると、夏の風が吹いていた。
空は少しずつ夕焼けに染まり始めている。
「今日、誕生日だったね」
麗が言った。
「うん」
明凛は笑った。
「家族にもおめでとうって言ってもらったよ」
「よかったね」
「うん。それに、神志那くんからもプレゼントをもらえたし」
言ってから、明凛は少し恥ずかしくなった。
麗は、やさしく笑った。
「喜んでくれて、よかった」
明凛は、鞄の中のハンカチを思い浮かべた。
「ねえ、神志那くん」
「ん?」
「今度、またネモフィラを見に行こうね」
麗は、少し驚いたように明凛を見た。
それから、うなずいた。
「うん。また一緒に見よう」
明凛は笑った。
「約束ね」
「約束」
二人は、小指を結ぶ代わりに、笑顔を交わした。
夕焼けの空には、一番星が小さく光り始めていた。
家に帰ると、明凛は自分の部屋へ向かった。
机の上に、ネモフィラのハンカチをそっと広げる。
淡い水色。
小さな青い花。
あの日、麗と一緒に見たネモフィラ。
そして、今日。
自分の誕生日を覚えていてくれたこと。
好きな花を選んでくれたこと。
「……うれしいな」
明凛は、そっとハンカチをたたんだ。
大切に使おう。
使うたびに、今日のことを思い出せるように。
明凛はノートを開き、鉛筆を手に取った。
今日の景色を描き始める。
淡い水色のハンカチ。
ネモフィラの青い花。
そして、それを渡してくれた麗の笑顔。
描き終えたページの下に、明凛は小さく文字を書いた。
『七夕の誕生日』
その隣に、もうひとつ。
『神志那くんから、ネモフィラのハンカチをもらった日』
明凛は、その文字を見つめて微笑んだ。
窓の外には、夏の夜空が広がっていた。
七夕の星たちが、静かに輝いている。
明凛は、願いごとをひとつだけ心の中でつぶやいた。
この先も、神志那くんと、こんなふうに笑っていられますように。
夜空の星は、何も言わずに光っていた。
けれど明凛には、その光が、そっと願いを受け止めてくれたように思えた。
梅雨の雨が、校舎の窓を静かに濡らしていた。
三年生の教室では、期末テストの話や、夏休みの予定の話が少しずつ増えていた。
和泉明凛は、隣の席に座る神志那麗と、いつものように話していた。
「もうすぐ七月だね」
明凛が窓の外を見ながら言った。
「うん。もうすぐ夏休みだね」
麗が答える。
「その前に、テストがあるけどね……」
「そうだった」
二人は顔を見合わせて笑った。
明凛は、机の上に置いていたカレンダーを見た。
七月七日。
その日付に、小さな印がついている。
麗は何気なく、それに気づいた。
「明凛、七月七日に印がついてるね」
「えっ?」
明凛はカレンダーを見た。
「ああ、これ?」
「うん。何かあるの?」
明凛は少しだけ照れたように笑った。
「私の誕生日なんだ」
「……そうなんだ」
麗は驚いたように目を丸くした。
「七夕が誕生日なんだね」
「うん。そうなの」
明凛はうなずいた。
「小さいころから、七夕の日が来ると、誕生日だなあって思ってた」
「素敵だね」
麗が言った。
「そうかな?」
「うん。七夕の日に生まれたって、なんだか特別な感じがする」
明凛は、少し恥ずかしくなった。
「ありがとう」
麗はカレンダーをもう一度見た。
七月七日。
明凛の誕生日。
その日付を、心の中でそっと覚えた。
その日の放課後。
麗は園芸部の活動を終えると、帰り道を歩いていた。
空はまだ曇っていたけれど、雲の切れ間から少しだけ青空が見えている。
ふと、麗は明凛のことを思い出した。
七月七日が誕生日。
七夕の日。
明凛は、花を描くのが好きだ。
ネモフィラを一緒に見た日も、絵を描いてくれた。
あの青い花を見つめていた明凛の横顔が、頭に浮かんだ。
「……ネモフィラ」
麗は小さくつぶやいた。
明凛が好きな花。
あの日、二人で見た花。
誕生日に何か贈るなら、あの花に関係するものがいいかもしれない。
そう思った。
数日後。
麗は、帰り道にあるお店へ立ち寄った。
店内には、ハンカチや小物が並んでいた。
誕生日のプレゼントを探すためだった。
明凛に、何を贈ったら喜んでもらえるだろう。
花を描くのが好きな明凛。
ネモフィラを見た日のことを、今でも覚えている。
麗は棚に並んだハンカチを、ひとつずつ見ていった。
淡いピンクの花柄。
白い小花の模様。
青い空のような色。
その中で、麗の目に留まったものがあった。
淡い水色の生地に、小さなネモフィラが描かれたハンカチ。
青い花びらが、やさしい色で並んでいる。
まるで、あの日の花壇のようだった。
麗は、そのハンカチを手に取った。
「……これがいい」
明凛が見たら、どんな顔をするだろう。
喜んでくれるかな。
そんなことを考えると、麗の胸が少しだけ温かくなった。
麗はハンカチを購入し、丁寧に包んでもらった。
小さな紙袋を手に、お店を出る。
夕方の風が、頬をなでた。
「喜んでくれるといいな」
麗は、紙袋を大切に持ちながら帰った。
七月七日。
朝から、明凛は少しだけそわそわしていた。
今日は自分の誕生日。
家族から「おめでとう」と言われて、うれしい気持ちになっていた。
けれど、学校ではいつも通りに過ごそうと思っていた。
教室に入ると、麗が席に座っていた。
「おはよう、神志那くん」
「おはよう、明凛」
麗は、いつもと変わらない穏やかな笑顔を見せた。
「誕生日、おめでとう」
その言葉に、明凛はぱっと顔を上げた。
「覚えててくれたの?」
「うん。七夕が誕生日だって言ってたから」
明凛は、うれしくて笑った。
「ありがとう!」
麗は少しだけ照れたように視線を落とした。
「今日、渡したいものがあるんだ」
「えっ?」
明凛は驚いた。
「私に?」
「うん」
麗は鞄から、小さな紙袋を取り出した。
明凛の目が、紙袋に向かう。
「誕生日のプレゼント」
「……えっ!」
明凛は、思わず声を上げた。
「神志那くん、プレゼント用意してくれたの?」
「うん。よかったら、受け取って」
明凛は、そっと両手を差し出した。
「ありがとう……!」
紙袋を受け取る。
胸がどきどきしていた。
「開けてもいい?」
「もちろん」
明凛は、ゆっくりと包みを開いた。
中から出てきたのは、淡い水色のハンカチだった。
小さな青い花が、いくつも描かれている。
「……ネモフィラ!」
明凛の顔が、ぱっと明るくなった。
「これ、ネモフィラだよね?」
「うん」
麗がうなずいた。
「前に、一緒に見たから」
明凛は、ハンカチを大切そうに両手で広げた。
淡い水色の生地に、かわいらしいネモフィラ。
あの日の花壇が、目の前によみがえるようだった。
「かわいい……」
明凛は、何度もハンカチを見つめた。
「すごくかわいい!」
麗は、ほっとしたように笑った。
「よかった」
明凛は顔を上げた。
「神志那くん、ありがとう。大切にするね」
「うん」
「ネモフィラを選んでくれたの、うれしい」
「明凛が好きそうだと思って」
その言葉に、明凛の胸がきゅっとなった。
自分の好きな花を覚えていてくれた。
一緒に見た景色を、麗も覚えていてくれた。
それが、何よりもうれしかった。
「……ほんとにありがとう」
明凛は、ハンカチをそっと胸に抱いた。
麗は、少し照れたように笑った。
休み時間。
明凛は、もう一度ハンカチを広げていた。
ネモフィラの青い花が、やさしく並んでいる。
「かわいいなあ……」
思わず、声がこぼれた。
友達が、明凛の机をのぞき込んだ。
「それ、新しいハンカチ?」
「うん。誕生日プレゼントでもらったの」
「へえ、かわいいね! 誰から?」
明凛は、少しだけ顔を赤くした。
「……神志那くん」
友達は、すぐににやっと笑った。
「えー! 神志那くんから?」
「う、うん」
「よかったねえ」
「もう……」
明凛は恥ずかしくなって、ハンカチをそっとたたんだ。
そのとき、麗がこちらを見た。
「気に入った?」
「うん!」
明凛は、すぐに答えた。
「すごく気に入ったよ。ありがとう」
麗は安心したように笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、明凛はまた胸が温かくなった。
放課後。
明凛は美術部の活動を終え、鞄の中を確認した。
ネモフィラのハンカチは、なくさないように大切にしまってある。
帰り支度をしていると、麗が声をかけてきた。
「明凛、帰る?」
「うん。神志那くんも?」
「うん」
二人は並んで昇降口へ向かった。
外に出ると、夏の風が吹いていた。
空は少しずつ夕焼けに染まり始めている。
「今日、誕生日だったね」
麗が言った。
「うん」
明凛は笑った。
「家族にもおめでとうって言ってもらったよ」
「よかったね」
「うん。それに、神志那くんからもプレゼントをもらえたし」
言ってから、明凛は少し恥ずかしくなった。
麗は、やさしく笑った。
「喜んでくれて、よかった」
明凛は、鞄の中のハンカチを思い浮かべた。
「ねえ、神志那くん」
「ん?」
「今度、またネモフィラを見に行こうね」
麗は、少し驚いたように明凛を見た。
それから、うなずいた。
「うん。また一緒に見よう」
明凛は笑った。
「約束ね」
「約束」
二人は、小指を結ぶ代わりに、笑顔を交わした。
夕焼けの空には、一番星が小さく光り始めていた。
家に帰ると、明凛は自分の部屋へ向かった。
机の上に、ネモフィラのハンカチをそっと広げる。
淡い水色。
小さな青い花。
あの日、麗と一緒に見たネモフィラ。
そして、今日。
自分の誕生日を覚えていてくれたこと。
好きな花を選んでくれたこと。
「……うれしいな」
明凛は、そっとハンカチをたたんだ。
大切に使おう。
使うたびに、今日のことを思い出せるように。
明凛はノートを開き、鉛筆を手に取った。
今日の景色を描き始める。
淡い水色のハンカチ。
ネモフィラの青い花。
そして、それを渡してくれた麗の笑顔。
描き終えたページの下に、明凛は小さく文字を書いた。
『七夕の誕生日』
その隣に、もうひとつ。
『神志那くんから、ネモフィラのハンカチをもらった日』
明凛は、その文字を見つめて微笑んだ。
窓の外には、夏の夜空が広がっていた。
七夕の星たちが、静かに輝いている。
明凛は、願いごとをひとつだけ心の中でつぶやいた。
この先も、神志那くんと、こんなふうに笑っていられますように。
夜空の星は、何も言わずに光っていた。
けれど明凛には、その光が、そっと願いを受け止めてくれたように思えた。