春の月明かり
夏のひまわりと、ふたりの約束
第6章 夏のひまわりと、ふたりの約束
七月の風は、春のころよりも少しだけ熱を帯びていた。
教室の窓から差し込む日差しは明るく、校庭の木々も、いつの間にか濃い緑に変わっている。
七月七日。
神志那くんからもらったネモフィラのハンカチは、明凛の鞄の中に大切にしまわれていた。
淡い水色の布に、小さなネモフィラの花が散りばめられている。
見るたびに、七夕の日のことを思い出した。
「和泉さん」
隣の席から声がした。
「なに?」
「そのハンカチ、今日も持ってるんだね」
神志那くんが、明凛の鞄をちらりと見た。
「あ……うん。大切に使ってるよ」
「そっか」
彼は、いつものように穏やかに笑った。
その笑顔を見ると、明凛の胸の奥がふわりと温かくなる。
「ありがとうね。ほんとに嬉しかった」
「うん。喜んでもらえてよかった」
それだけの会話なのに、明凛はしばらく顔を上げられなかった。
昼休み。
明凛は友達とお弁当を食べながら、夏休みの話をしていた。
「もうすぐ夏休みだね」
「そうだね。宿題がいっぱい出そうだけど」
「明凛は何するの?」
「うーん……絵を描いたり、お花を見たりかな」
そう答えながら、明凛は窓の外に目を向けた。
校庭の隅にある花壇では、夏の花が少しずつ咲き始めている。
春にはネモフィラやチューリップが咲いていた場所も、今は違う景色になっていた。
「神志那くんと、また花を見に行ったりするの?」
友達にそう聞かれて、明凛は思わずお弁当の箸を止めた。
「えっ?」
「だって、よく一緒に花を見てるじゃん」
「そ、そうだけど……」
「夏休みも会えたらいいね」
「……うん」
小さく答えた声は、自分でも驚くほど素直だった。
放課後。
美術部の活動を終えた明凛は、スケッチブックを抱えて校庭へ向かった。
夏の花壇には、鮮やかな色が増えていた。
赤や黄色の花が、強い日差しの中で元気に咲いている。
その花壇の向こうに、明凛は大きな黄色い花を見つけた。
「……あっ」
思わず足が止まる。
青い空に向かって、ひまわりが大きく花を開いていた。
太陽の光をいっぱいに浴びて、黄色い花びらがきらきらと輝いている。
「ひまわり……!」
明凛は、思わず笑顔になった。
「咲いてたんだね」
隣から声がした。
振り返ると、じょうろを持った神志那くんが立っていた。
「神志那くん!」
「うん。少し前から、つぼみが大きくなってたんだよ」
「知らなかった……こんなに大きく咲くんだね」
明凛は、ひまわりを見上げた。
背の高い茎の先で、花が堂々と咲いている。
春に見たネモフィラとは、まったく違う姿だった。
小さくて可憐な青い花も好きだけれど、夏の太陽に向かって咲くひまわりも、心を明るくしてくれる。
「描いてもいい?」
明凛が尋ねると、神志那くんは頷いた。
「もちろん」
明凛はスケッチブックを開いた。
鉛筆を持ち、ひまわりの形をゆっくりと描き始める。
大きな花の中心。
何枚も重なる黄色い花びら。
太陽の光を受けた葉っぱ。
ひとつずつ、目に映るものを紙の上に残していく。
「……難しいな」
「そう?」
「うん。大きいから、どこから描いたらいいか迷っちゃう」
神志那くんは、明凛のスケッチブックを覗き込んだ。
「でも、もうひまわりってわかるよ」
「ほんと?」
「うん。和泉さんの絵って、見てるとそのときの景色を思い出せるんだよね」
明凛は鉛筆を止めた。
「……神志那くんも、そう思う?」
「うん」
彼は、ひまわりに目を向けた。
「写真もそうだけど、花って、咲いてるときのことを残しておきたくなるから」
「神志那くんらしいね」
「そうかな?」
「うん。芽が出たときから、ずっと写真を撮ってるでしょ?」
「うん。毎日見てると、少しずつ変わっていくのがわかるから」
彼は、ひまわりの葉にそっと目を向けた。
「つぼみがふくらんで、花びらが開いて……気づいたら、こんなに大きくなってる」
明凛は、もう一度ひまわりを見上げた。
「私も、今日のことを絵に残したいな」
「うん」
神志那くんは、穏やかに笑った。
「楽しみにしてる」
しばらくして、明凛は鉛筆を置いた。
まだ描きかけだけれど、ひまわりの形は少しずつできあがっていた。
「ねえ、神志那くん」
「ん?」
「夏休みも、園芸部に来るの?」
「うん。水やりとかあるしね」
「そっか……」
明凛は、スケッチブックの端を指で押さえた。
少し迷ってから、顔を上げる。
「もしよかったら……夏休みにも、花を見せてくれる?」
神志那くんは、驚いたように瞬きをした。
「もちろん」
「ほんと?」
「うん。夏の花も、いろいろ咲くから」
彼は花壇を見渡した。
「和泉さんが描きたい花があったら、教えて」
その言葉に、明凛の胸が弾んだ。
「ありがとう!」
思わず声が大きくなってしまい、明凛は慌てて口元を押さえた。
神志那くんは、そんな彼女を見て笑った。
「楽しみにしてるね」
「……うん」
明凛は、もう一度ひまわりを見た。
夏休みになっても、またここに来られる。
神志那くんと一緒に、花を見ることができる。
そう思うだけで、ひまわりの黄色が、さっきよりも明るく見えた。
帰る時間が近づき、ふたりは校門へ向かった。
夕方の空は、少しずつオレンジ色に染まっている。
「夏休み、長いね」
明凛が言うと、神志那くんは頷いた。
「そうだね」
「学校で毎日会えなくなるの、ちょっと変な感じ」
言ってから、明凛ははっとした。
今のは、少し恥ずかしいことを言ってしまったかもしれない。
「……あ、ごめん。変なこと言った」
「ううん」
神志那くんは、前を向いたまま答えた。
「俺も、そう思ってた」
明凛は、足を止めそうになった。
「え……?」
「学校で会うのが当たり前になってたから」
彼は少しだけ、明凛の方を見た。
「夏休みも、会えたらいいね」
胸の奥が、きゅっとなった。
「……うん」
明凛は、嬉しさを隠すように笑った。
「また、お花見せてね」
「うん。約束」
神志那くんが、そっと小指を差し出した。
明凛は驚きながらも、自分の小指を重ねた。
「約束ね」
ふたりの指が、ほんの少しだけ触れ合う。
それだけで、明凛の心はいっぱいになった。
家に帰った明凛は、机にスケッチブックを広げた。
今日見たひまわり。
夏の日差し。
そして、花を見つめる神志那くんの横顔。
鉛筆を動かしながら、明凛は小さく笑った。
ひまわりの花びらを、一本ずつ描き足していく。
黄色い花びらの向こうには、青い空。
その隣には、ひまわりを見ていた神志那くんの姿も描いた。
まだ少しぎこちないけれど、彼の穏やかな表情を思い浮かべながら、丁寧に線を重ねる。
描き終えたページの端に、明凛はそっと文字を書いた。
『夏のひまわりと、神志那くんとの約束』
その文字を見つめてから、明凛は鞄の中のハンカチを取り出した。
淡い水色のネモフィラ。
春に出会った花。
七夕にもらった、大切な贈り物。
そして、今日見つけた夏のひまわり。
春から夏へ。
季節が変わるたびに、神志那くんとの思い出が増えていく。
明凛はハンカチをそっと畳み、スケッチブックの隣に置いた。
窓の外では、夏の風がカーテンを揺らしていた。
春に芽生えた気持ちは、少しずつ大きくなっている。
まだ、恋だと口にする勇気はない。
それでも。
夏休みの約束が、明凛の心を明るく照らしていた。
そして、スケッチブックの中のひまわりは、まるでふたりのこれからを見守るように、明るく咲いていた。
七月の風は、春のころよりも少しだけ熱を帯びていた。
教室の窓から差し込む日差しは明るく、校庭の木々も、いつの間にか濃い緑に変わっている。
七月七日。
神志那くんからもらったネモフィラのハンカチは、明凛の鞄の中に大切にしまわれていた。
淡い水色の布に、小さなネモフィラの花が散りばめられている。
見るたびに、七夕の日のことを思い出した。
「和泉さん」
隣の席から声がした。
「なに?」
「そのハンカチ、今日も持ってるんだね」
神志那くんが、明凛の鞄をちらりと見た。
「あ……うん。大切に使ってるよ」
「そっか」
彼は、いつものように穏やかに笑った。
その笑顔を見ると、明凛の胸の奥がふわりと温かくなる。
「ありがとうね。ほんとに嬉しかった」
「うん。喜んでもらえてよかった」
それだけの会話なのに、明凛はしばらく顔を上げられなかった。
昼休み。
明凛は友達とお弁当を食べながら、夏休みの話をしていた。
「もうすぐ夏休みだね」
「そうだね。宿題がいっぱい出そうだけど」
「明凛は何するの?」
「うーん……絵を描いたり、お花を見たりかな」
そう答えながら、明凛は窓の外に目を向けた。
校庭の隅にある花壇では、夏の花が少しずつ咲き始めている。
春にはネモフィラやチューリップが咲いていた場所も、今は違う景色になっていた。
「神志那くんと、また花を見に行ったりするの?」
友達にそう聞かれて、明凛は思わずお弁当の箸を止めた。
「えっ?」
「だって、よく一緒に花を見てるじゃん」
「そ、そうだけど……」
「夏休みも会えたらいいね」
「……うん」
小さく答えた声は、自分でも驚くほど素直だった。
放課後。
美術部の活動を終えた明凛は、スケッチブックを抱えて校庭へ向かった。
夏の花壇には、鮮やかな色が増えていた。
赤や黄色の花が、強い日差しの中で元気に咲いている。
その花壇の向こうに、明凛は大きな黄色い花を見つけた。
「……あっ」
思わず足が止まる。
青い空に向かって、ひまわりが大きく花を開いていた。
太陽の光をいっぱいに浴びて、黄色い花びらがきらきらと輝いている。
「ひまわり……!」
明凛は、思わず笑顔になった。
「咲いてたんだね」
隣から声がした。
振り返ると、じょうろを持った神志那くんが立っていた。
「神志那くん!」
「うん。少し前から、つぼみが大きくなってたんだよ」
「知らなかった……こんなに大きく咲くんだね」
明凛は、ひまわりを見上げた。
背の高い茎の先で、花が堂々と咲いている。
春に見たネモフィラとは、まったく違う姿だった。
小さくて可憐な青い花も好きだけれど、夏の太陽に向かって咲くひまわりも、心を明るくしてくれる。
「描いてもいい?」
明凛が尋ねると、神志那くんは頷いた。
「もちろん」
明凛はスケッチブックを開いた。
鉛筆を持ち、ひまわりの形をゆっくりと描き始める。
大きな花の中心。
何枚も重なる黄色い花びら。
太陽の光を受けた葉っぱ。
ひとつずつ、目に映るものを紙の上に残していく。
「……難しいな」
「そう?」
「うん。大きいから、どこから描いたらいいか迷っちゃう」
神志那くんは、明凛のスケッチブックを覗き込んだ。
「でも、もうひまわりってわかるよ」
「ほんと?」
「うん。和泉さんの絵って、見てるとそのときの景色を思い出せるんだよね」
明凛は鉛筆を止めた。
「……神志那くんも、そう思う?」
「うん」
彼は、ひまわりに目を向けた。
「写真もそうだけど、花って、咲いてるときのことを残しておきたくなるから」
「神志那くんらしいね」
「そうかな?」
「うん。芽が出たときから、ずっと写真を撮ってるでしょ?」
「うん。毎日見てると、少しずつ変わっていくのがわかるから」
彼は、ひまわりの葉にそっと目を向けた。
「つぼみがふくらんで、花びらが開いて……気づいたら、こんなに大きくなってる」
明凛は、もう一度ひまわりを見上げた。
「私も、今日のことを絵に残したいな」
「うん」
神志那くんは、穏やかに笑った。
「楽しみにしてる」
しばらくして、明凛は鉛筆を置いた。
まだ描きかけだけれど、ひまわりの形は少しずつできあがっていた。
「ねえ、神志那くん」
「ん?」
「夏休みも、園芸部に来るの?」
「うん。水やりとかあるしね」
「そっか……」
明凛は、スケッチブックの端を指で押さえた。
少し迷ってから、顔を上げる。
「もしよかったら……夏休みにも、花を見せてくれる?」
神志那くんは、驚いたように瞬きをした。
「もちろん」
「ほんと?」
「うん。夏の花も、いろいろ咲くから」
彼は花壇を見渡した。
「和泉さんが描きたい花があったら、教えて」
その言葉に、明凛の胸が弾んだ。
「ありがとう!」
思わず声が大きくなってしまい、明凛は慌てて口元を押さえた。
神志那くんは、そんな彼女を見て笑った。
「楽しみにしてるね」
「……うん」
明凛は、もう一度ひまわりを見た。
夏休みになっても、またここに来られる。
神志那くんと一緒に、花を見ることができる。
そう思うだけで、ひまわりの黄色が、さっきよりも明るく見えた。
帰る時間が近づき、ふたりは校門へ向かった。
夕方の空は、少しずつオレンジ色に染まっている。
「夏休み、長いね」
明凛が言うと、神志那くんは頷いた。
「そうだね」
「学校で毎日会えなくなるの、ちょっと変な感じ」
言ってから、明凛ははっとした。
今のは、少し恥ずかしいことを言ってしまったかもしれない。
「……あ、ごめん。変なこと言った」
「ううん」
神志那くんは、前を向いたまま答えた。
「俺も、そう思ってた」
明凛は、足を止めそうになった。
「え……?」
「学校で会うのが当たり前になってたから」
彼は少しだけ、明凛の方を見た。
「夏休みも、会えたらいいね」
胸の奥が、きゅっとなった。
「……うん」
明凛は、嬉しさを隠すように笑った。
「また、お花見せてね」
「うん。約束」
神志那くんが、そっと小指を差し出した。
明凛は驚きながらも、自分の小指を重ねた。
「約束ね」
ふたりの指が、ほんの少しだけ触れ合う。
それだけで、明凛の心はいっぱいになった。
家に帰った明凛は、机にスケッチブックを広げた。
今日見たひまわり。
夏の日差し。
そして、花を見つめる神志那くんの横顔。
鉛筆を動かしながら、明凛は小さく笑った。
ひまわりの花びらを、一本ずつ描き足していく。
黄色い花びらの向こうには、青い空。
その隣には、ひまわりを見ていた神志那くんの姿も描いた。
まだ少しぎこちないけれど、彼の穏やかな表情を思い浮かべながら、丁寧に線を重ねる。
描き終えたページの端に、明凛はそっと文字を書いた。
『夏のひまわりと、神志那くんとの約束』
その文字を見つめてから、明凛は鞄の中のハンカチを取り出した。
淡い水色のネモフィラ。
春に出会った花。
七夕にもらった、大切な贈り物。
そして、今日見つけた夏のひまわり。
春から夏へ。
季節が変わるたびに、神志那くんとの思い出が増えていく。
明凛はハンカチをそっと畳み、スケッチブックの隣に置いた。
窓の外では、夏の風がカーテンを揺らしていた。
春に芽生えた気持ちは、少しずつ大きくなっている。
まだ、恋だと口にする勇気はない。
それでも。
夏休みの約束が、明凛の心を明るく照らしていた。
そして、スケッチブックの中のひまわりは、まるでふたりのこれからを見守るように、明るく咲いていた。