あかつき荘の灯
第二部 雨と、夏
第九話 合評会の夜
合評会は、七月の第三日曜、夜の八時から始まった。
場所は、あかつき荘の一階の、居間である。八畳と六畳の続き間の襖を外して、大きな座卓を二つくっつける。
座卓の上には、東雲弓子が業務スーパーで買ってきた菓子と、瓶ビールと、烏龍茶と、なぜか大量の枝豆が並んだ。
「言っとくけど」東雲が最初に言った。「これは仕事じゃないから。会社の企画会議でも、査定でもない。だから、ここで何を出しても、何を言われても、月曜には持ち越さない。それだけが、この会の唯一のルール」
「毎回もそれ言いますよね」まひるが言った。
「毎回も言わないと、忘れるからよ」
雨宮千景は、座卓の短辺、いちばん壁際に座っていた。
いつものスウェットではなく、その日は襟のあるシャツを着ていた。灯はそのことに気づいて、少しだけ胸が苦しくなった。
この人は、この会を、ちゃんとした場所だと思っている。
「じゃ、鹿沼くんから」東雲が言った。
律が、原稿を配った。
二十枚ほどの、短編の脚本だった。タイトルは『晴れ、ときどき、』。
全員が黙って読んだ。読むのに、十分ほどかかった。
読み終わって、しばらく誰も喋らなかった。
灯は、正直に言えば、面白いと思った。上手い。会話にリズムがあって、場面転換が滑らかで、最後の一行がきれいに着地する。
「上手いね」まひるが言った。
「うん、読みやすい」晴も言った。
律は、笑った。
灯は、その笑い方を見て、なぜか、胸がざわりとした。
「監督は」東雲が水を向けた。
雨宮は、原稿を、最初のページに戻していた。
そして、顔を上げずに言った。
「――質問、ひとつしていい?」
「はい」律が背筋を伸ばした。
「この話に出てくる母親、鹿沼くんの母親?」
律の顔から、色が抜けた。
灯は、それを、正面から見てしまった。
「……いえ」
「そう」
雨宮は、あっさり引いた。
「じゃあ、いいや」
「いや、あの」律が慌てた。「なんで、そう思われたんですか」
「この母親だけ、台詞が短いから」
雨宮は、原稿の一箇所を指した。
「他の人物は、みんなよく喋る。うまい台詞を喋る。でも、この母親だけ、一言か二言で終わる。書いてる人が、この人に長く喋られると困るからだ」
「……」
「困る相手は、たいてい、身内だよ」
律は、何も言わなかった。
握った拳が、膝の上で、白くなっていた。
東雲が、さらりと話題を進めた。
「はい、次。穂村さん」
まひるが出したのは、色見本だった。A4の紙に、四十色ほどが並んでいる。
「これ、なんですか」まひるは自分で説明した。「あの、うちの実家の食堂の、夕方の色です。六時ちょうどから、六時十五分までの、十五分間を、一分ごとに」
紙の上を、色が流れていた。
白から、黄色へ。黄色から、橙へ。
最後の一色だけ、外れていた。それは、青だった。
「最後、これは?」冬吾が聞いた。
「外です」まひるが言った。「看板がついた瞬間の、店の外の色。中が明るくなると、外が急に暗くなるんです。同じ場所なのに」
雨宮は、その紙を、しばらく見ていた。
「穂村さん」
「はい」
「この十五分、何回見た?」
まひるは、少し考えて、答えた。
「……たぶん、三千回くらいです」
「そう」
雨宮は、頷いた。
「じゃあ、それは、穂村さんのものだ。誰にも譲らないほうがいい」
まひるの目が、みるみる潤んだ。
まひるは、慌てて下を向いて、「はい」と小さく言った。
晴は、朗読をした。
自分で書いた、三分ほどの掌編を、自分で読んだ。落ちた四十七件のオーディションのことを、ぜんぶ書いた話だった。
読み終わったあと、晴は、自分でぼろぼろ泣いた。
「すみません、これ、泣くとこじゃないんですけど」
「泣くとこだよ」東雲が言った。
雨宮は、晴に、こう聞いた。
「佐分利さん。落ちた四十七件のうち、いちばん腹が立ったのは、どれ?」
晴は、鼻をすすった。
「……去年の秋の、二次で落ちたやつです」
「なんで腹が立った?」
「あれ、たぶん、私、いちばんうまくできたので。うまくできて、落ちたので」
「そうか」雨宮は言った。「じゃあ、その日のことは、絶対に忘れないほうがいい」
「……忘れたいです」
「うん。でも、忘れないほうがいい」
彼はそれ以上、慰めなかった。
晴は、しばらく泣いてから、洟をかんで、「はい」と言った。
冬吾は、一枚の絵を出した。
鉛筆画だった。あかつき荘の庭が描いてある。枇杷の木と、縁側と、その端に猫が一匹。
人は描かれていない。
雨宮は、その絵を、長いこと見ていた。
誰も口を挟まなかった。
「久瀬」
「はい」
「これ、いつの庭?」
「……六年前です」
「そうだろうな」雨宮は言った。「枇杷、今はもっと伸びてる」
冬吾は、笑った。
「はい」
「久瀬」
「はい」
「そろそろ、今の庭を描け」
冬吾の顔から、笑いが消えた。
消えて、それから、彼は深く頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく上げなかった。
最後に、東雲が灯を見た。
「はい、朝倉さん」
「え」
灯は、慌てた。
「私、何も、作ってないです」
「知ってる」東雲は平然と言った。「新人はいつもそう。だから、代わりに、監督が質問する」
全員の視線が、灯に集まった。
雨宮が、灯のほうを見た。
枝豆の皿を脇にどけて、少し身を乗り出した。
「じゃあ、朝倉さん」
「はい」
心臓が、耳の奥で鳴っていた。
「――今まで読んだり観たりしたものの中で、いちばん好きな一行を、言ってみて」
部屋が、静かになった。
灯の頭の中は、真っ白だった。
真っ白なのに、たった一行だけが、はっきりと浮かんでいた。
夜が明けるまで歩けば、朝は勝手に来る。
言えるわけがなかった。
この部屋で、この人の前で、それを言えば、全部が終わる。
いや、終わりはしないかもしれない。ただ「監督のファンです」と思われるだけかもしれない。この家には、そういう人間しかいないのだから。
でも、灯には、それが恐ろしかった。
その一行を口に出したら、自分の声が、絶対に、ただのファンの声にはならないことを、灯は知っていた。
「……えっと」
灯は、時間を稼いだ。
枝豆を一つ、意味もなく手に取った。
「たくさんあって」
「ひとつでいい」
「はい」
灯は、目を閉じた。
そして、まったく別の一行を言った。
「――『ここに置いておくから、食べたかったら食べなさい』」
誰かが、「え」と言った。
「……なんの一行?」
「小説じゃないです。誰かの台詞でもないです」
灯は、目を開けた。
「私の、祖母が、言ってた言葉です」
部屋が、しんとしていた。
「私、中学のとき、あんまり、家でごはんが食べられない時期があって。食べられないっていうか、食べたくなかったんです。理由は、その、いろいろあって」
灯は、自分の声が、少し震えているのに気づいた。
「そういうとき、祖母だけが、その言い方をしたんです。『食べなさい』でもなく、『食べなくていい』でもなく。『ここに置いておくから、食べたかったら食べなさい』って」
「……」
「私、それが、いちばん、なんていうか」
灯は、言葉を探した。
「――許してもらえてる感じが、しました」
東雲が、烏龍茶のコップを置いた。
まひるが、鼻をすすった。
雨宮は、灯を見ていた。
まっすぐ、見ていた。
その目に、初日に会ったときと同じ、二秒か三秒の沈黙があった。
「朝倉さん」
「はい」
「それ、いい一行だね」
「ありがとうございます」
「……あと」
雨宮は、少しだけ、視線を落とした。
「その人が、今も生きてるといいね」
灯は、答えられなかった。
祖母は、六年前に亡くなっている。
灯が答えられずにいると、雨宮は、それ以上何も聞かなかった。
そして、座卓の上の枝豆の皿を、灯のほうに、静かに押した。
「――ここに置いておくから」
彼は言った。
「食べたかったら、食べて」
灯は、その皿を見た。
見て、頭を下げた。
下げたまま、しばらく、顔を上げられなかった。
場所は、あかつき荘の一階の、居間である。八畳と六畳の続き間の襖を外して、大きな座卓を二つくっつける。
座卓の上には、東雲弓子が業務スーパーで買ってきた菓子と、瓶ビールと、烏龍茶と、なぜか大量の枝豆が並んだ。
「言っとくけど」東雲が最初に言った。「これは仕事じゃないから。会社の企画会議でも、査定でもない。だから、ここで何を出しても、何を言われても、月曜には持ち越さない。それだけが、この会の唯一のルール」
「毎回もそれ言いますよね」まひるが言った。
「毎回も言わないと、忘れるからよ」
雨宮千景は、座卓の短辺、いちばん壁際に座っていた。
いつものスウェットではなく、その日は襟のあるシャツを着ていた。灯はそのことに気づいて、少しだけ胸が苦しくなった。
この人は、この会を、ちゃんとした場所だと思っている。
「じゃ、鹿沼くんから」東雲が言った。
律が、原稿を配った。
二十枚ほどの、短編の脚本だった。タイトルは『晴れ、ときどき、』。
全員が黙って読んだ。読むのに、十分ほどかかった。
読み終わって、しばらく誰も喋らなかった。
灯は、正直に言えば、面白いと思った。上手い。会話にリズムがあって、場面転換が滑らかで、最後の一行がきれいに着地する。
「上手いね」まひるが言った。
「うん、読みやすい」晴も言った。
律は、笑った。
灯は、その笑い方を見て、なぜか、胸がざわりとした。
「監督は」東雲が水を向けた。
雨宮は、原稿を、最初のページに戻していた。
そして、顔を上げずに言った。
「――質問、ひとつしていい?」
「はい」律が背筋を伸ばした。
「この話に出てくる母親、鹿沼くんの母親?」
律の顔から、色が抜けた。
灯は、それを、正面から見てしまった。
「……いえ」
「そう」
雨宮は、あっさり引いた。
「じゃあ、いいや」
「いや、あの」律が慌てた。「なんで、そう思われたんですか」
「この母親だけ、台詞が短いから」
雨宮は、原稿の一箇所を指した。
「他の人物は、みんなよく喋る。うまい台詞を喋る。でも、この母親だけ、一言か二言で終わる。書いてる人が、この人に長く喋られると困るからだ」
「……」
「困る相手は、たいてい、身内だよ」
律は、何も言わなかった。
握った拳が、膝の上で、白くなっていた。
東雲が、さらりと話題を進めた。
「はい、次。穂村さん」
まひるが出したのは、色見本だった。A4の紙に、四十色ほどが並んでいる。
「これ、なんですか」まひるは自分で説明した。「あの、うちの実家の食堂の、夕方の色です。六時ちょうどから、六時十五分までの、十五分間を、一分ごとに」
紙の上を、色が流れていた。
白から、黄色へ。黄色から、橙へ。
最後の一色だけ、外れていた。それは、青だった。
「最後、これは?」冬吾が聞いた。
「外です」まひるが言った。「看板がついた瞬間の、店の外の色。中が明るくなると、外が急に暗くなるんです。同じ場所なのに」
雨宮は、その紙を、しばらく見ていた。
「穂村さん」
「はい」
「この十五分、何回見た?」
まひるは、少し考えて、答えた。
「……たぶん、三千回くらいです」
「そう」
雨宮は、頷いた。
「じゃあ、それは、穂村さんのものだ。誰にも譲らないほうがいい」
まひるの目が、みるみる潤んだ。
まひるは、慌てて下を向いて、「はい」と小さく言った。
晴は、朗読をした。
自分で書いた、三分ほどの掌編を、自分で読んだ。落ちた四十七件のオーディションのことを、ぜんぶ書いた話だった。
読み終わったあと、晴は、自分でぼろぼろ泣いた。
「すみません、これ、泣くとこじゃないんですけど」
「泣くとこだよ」東雲が言った。
雨宮は、晴に、こう聞いた。
「佐分利さん。落ちた四十七件のうち、いちばん腹が立ったのは、どれ?」
晴は、鼻をすすった。
「……去年の秋の、二次で落ちたやつです」
「なんで腹が立った?」
「あれ、たぶん、私、いちばんうまくできたので。うまくできて、落ちたので」
「そうか」雨宮は言った。「じゃあ、その日のことは、絶対に忘れないほうがいい」
「……忘れたいです」
「うん。でも、忘れないほうがいい」
彼はそれ以上、慰めなかった。
晴は、しばらく泣いてから、洟をかんで、「はい」と言った。
冬吾は、一枚の絵を出した。
鉛筆画だった。あかつき荘の庭が描いてある。枇杷の木と、縁側と、その端に猫が一匹。
人は描かれていない。
雨宮は、その絵を、長いこと見ていた。
誰も口を挟まなかった。
「久瀬」
「はい」
「これ、いつの庭?」
「……六年前です」
「そうだろうな」雨宮は言った。「枇杷、今はもっと伸びてる」
冬吾は、笑った。
「はい」
「久瀬」
「はい」
「そろそろ、今の庭を描け」
冬吾の顔から、笑いが消えた。
消えて、それから、彼は深く頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく上げなかった。
最後に、東雲が灯を見た。
「はい、朝倉さん」
「え」
灯は、慌てた。
「私、何も、作ってないです」
「知ってる」東雲は平然と言った。「新人はいつもそう。だから、代わりに、監督が質問する」
全員の視線が、灯に集まった。
雨宮が、灯のほうを見た。
枝豆の皿を脇にどけて、少し身を乗り出した。
「じゃあ、朝倉さん」
「はい」
心臓が、耳の奥で鳴っていた。
「――今まで読んだり観たりしたものの中で、いちばん好きな一行を、言ってみて」
部屋が、静かになった。
灯の頭の中は、真っ白だった。
真っ白なのに、たった一行だけが、はっきりと浮かんでいた。
夜が明けるまで歩けば、朝は勝手に来る。
言えるわけがなかった。
この部屋で、この人の前で、それを言えば、全部が終わる。
いや、終わりはしないかもしれない。ただ「監督のファンです」と思われるだけかもしれない。この家には、そういう人間しかいないのだから。
でも、灯には、それが恐ろしかった。
その一行を口に出したら、自分の声が、絶対に、ただのファンの声にはならないことを、灯は知っていた。
「……えっと」
灯は、時間を稼いだ。
枝豆を一つ、意味もなく手に取った。
「たくさんあって」
「ひとつでいい」
「はい」
灯は、目を閉じた。
そして、まったく別の一行を言った。
「――『ここに置いておくから、食べたかったら食べなさい』」
誰かが、「え」と言った。
「……なんの一行?」
「小説じゃないです。誰かの台詞でもないです」
灯は、目を開けた。
「私の、祖母が、言ってた言葉です」
部屋が、しんとしていた。
「私、中学のとき、あんまり、家でごはんが食べられない時期があって。食べられないっていうか、食べたくなかったんです。理由は、その、いろいろあって」
灯は、自分の声が、少し震えているのに気づいた。
「そういうとき、祖母だけが、その言い方をしたんです。『食べなさい』でもなく、『食べなくていい』でもなく。『ここに置いておくから、食べたかったら食べなさい』って」
「……」
「私、それが、いちばん、なんていうか」
灯は、言葉を探した。
「――許してもらえてる感じが、しました」
東雲が、烏龍茶のコップを置いた。
まひるが、鼻をすすった。
雨宮は、灯を見ていた。
まっすぐ、見ていた。
その目に、初日に会ったときと同じ、二秒か三秒の沈黙があった。
「朝倉さん」
「はい」
「それ、いい一行だね」
「ありがとうございます」
「……あと」
雨宮は、少しだけ、視線を落とした。
「その人が、今も生きてるといいね」
灯は、答えられなかった。
祖母は、六年前に亡くなっている。
灯が答えられずにいると、雨宮は、それ以上何も聞かなかった。
そして、座卓の上の枝豆の皿を、灯のほうに、静かに押した。
「――ここに置いておくから」
彼は言った。
「食べたかったら、食べて」
灯は、その皿を見た。
見て、頭を下げた。
下げたまま、しばらく、顔を上げられなかった。