あかつき荘の灯
第十話 この家の由来
東雲弓子は、雨宮千景より七つ年上である。
出会ったのは、二〇〇六年の春だ。当時、弓子は三十歳で、中堅のアニメ制作会社の、駆け出しのプロデューサーだった。
持ち込みの企画書が、机の上に積まれていた。その中の一本に、手書きの原稿があった。
ワープロで打っていないのだ。四百字詰め原稿用紙に、鉛筆で。
弓子は、その時点で捨てようかと思った。
思ったが、一枚目の三行目に、こう書いてあった。
――ある日、朝が来なくなる。
弓子はそれを、その日の終電の中で、最後まで読んだ。
新宿から自宅の最寄りまで、四十分。読み終わったのは、駅を三つ乗り過ごしたあとだった。
翌日、弓子は電話をかけた。
出たのは、ぼそぼそした男の声だった。
「はい」
「雨宮千景さん?」
「そうです」
「東雲と申します。企画書、読みました」
「……あ」
「これ、アニメにしませんか」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
そして、こう聞かれた。
「あの、それって、お金、かかりますよね」
弓子は、その一言で、この男を好きになった。
雨宮千景は当時二十二歳で、大学を中退して、深夜のコンビニでバイトをしながら、小説と脚本のようなものを書いていた。実家は静岡の漁師町で、父親とは絶縁状態だった。
『ヨルノハテ』の企画が通るまでに、一年半かかった。
放送が始まったのは、二〇〇八年の一月である。
最初の三話は、まったく話題にならなかった。
四話で、少しだけ動いた。
七話で、ネットが騒ぎ始めた。
十話を過ぎるころには、放送日の深夜、実況の書き込みが追いきれない量になっていた。
弓子は、その全部を、追いかけていた。
最終回の入稿は、放送の四日前だった。
弓子は、その最終回のコンテを見て、雨宮に一度だけ、確認した。
「これ、朝日、出さないの?」
「出さない」
「なんで」
雨宮は、机に向かったまま答えた。
「出したら、嘘になるから」
「嘘?」
「観てる人の中には、たぶん、明日、朝が来ない人がいるんですよ」
雨宮は、鉛筆を置いた。
「俺が朝日を出したら、その人は『ああ、自分のところには出ないな』って思う。だから、出さない。空が白むところまでで、止める。白むだけなら、嘘じゃない」
弓子は、そのとき、この男は本物だと思った。
思って、承認した。
――その判断を、弓子は、十一年間、一日も忘れたことがない。
二〇〇八年三月二十一日、最終回、放送。
三月二十二日の朝、群馬県で、十四歳の女子中学生が、駅前で保護された。
四月に入って、記事が出た。
弓子は、その記事を最初に読んだとき、鼻で笑った。
こんなのは、いつものやつだ。何かあるたびにアニメのせいにされる。三年に一度は起きる。放っておけば消える。
消えなかった。
スポンサーが一社降りた。次の企画が二本、流れた。
そして、記者会見が組まれた。
弓子は、会見の前の日、雨宮に言った。
「謝らなくていいからね」
「はい」
「あなたは何もしてない。作品は作品でしょ。あの子がなんで家を出たのか、私たちは知らないんだから」
「はい」
「わかった?」
「わかりました」
雨宮は、翌日、謝った。
弓子は、会見場の後ろで、それを見ていた。
殴りたかった。
殴りたかったが、その夜、雨宮の部屋に行ったら、彼は畳の上に大の字になって、天井を見ていた。
「東雲さん」
「なに」
「俺、あの子に、会いたいです」
「会って、どうすんの」
「わかんないです」
雨宮は、天井を見たまま言った。
「でも、あの子は、たぶん、俺の話を最後まで観たんですよね。最終回を、最後まで観て、それで、外に出たんですよね」
「……そうかもね」
「じゃあ、あの子は、何を思って歩いたんだろう」
弓子は、答えられなかった。
「俺、それだけ、知りたいんです」
三日後、雨宮は姿を消した。
携帯も置いていった。部屋には、鍵がかかっていなかった。
三か月、行方がわからなかった。
見つけたのは、弓子だ。七月の頭、静岡の実家の近くの、廃業した旅館にいた。
雨宮は、痩せていた。
弓子が入っていくと、彼は、驚きもせずに、こう言った。
「東雲さん。俺、もう、子どもの話は書きません」
弓子は、その場では何も言わなかった。
東京に連れて帰った。
連れて帰って、翌年、弓子は会社を辞めて、雨宮と二人で、小さな制作会社を作った。
スタジオ・アカツキ。
社名は、雨宮がつけた。
そして、三鷹の坂の上に、潰れた製菓会社の社宅を、格安で借り上げた。
弓子が「なんでこんな家を」と聞くと、雨宮は言った。
「若い連中が、金の心配をしないで済む場所が、ひとつくらいあってもいいでしょう」
「あなた、お金ないでしょ」
「ないです。でも、『ヨルノハテ』の権利料が、少しだけ入るんで」
弓子は、その言葉を聞いて、しばらく黙った。
この人は、あの作品で得たものを、全部、この家に注ぐつもりなのだ。
あの作品が誰かを傷つけたと思っているから。
だから、その作品が生んだ金で、誰かを傷つけないための家を建てるつもりなのだ。
馬鹿だ、と思った。
馬鹿だけど、と弓子は思った。
――こういう馬鹿がいないと、この業界は、たぶん、もう、ずっと前に終わってる。
二〇一九年七月、合評会の夜。
全員が寝静まったあと、弓子は台所で一人、ビールの残りを飲んでいた。
雨宮が入ってきた。
「まだ飲んでたんですか」
「悪い?」
「悪くないです」
雨宮は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。
「東雲さん」
「なに」
「あの子、朝倉さん」
弓子は、コップを置いた。
「なによ、いきなり」
「いや」雨宮は、麦茶を一口飲んだ。「うち、来る理由、あったのかな」
「どういう意味」
「あの子、たぶん、もっといいとこ、受かってたと思うんですよ」
弓子は、雨宮の横顔を見た。
この人は、人の顔と名前を覚えるのが下手だ。
でも、人の「引っかかり」だけは、異様に見つける。
それが、この人が物語を書ける理由で、書けなくなった理由でもある。
「気になるなら、聞けば」
「聞かないです」
「なんで」
雨宮は、コップの底を、テーブルに置いた。
「聞いて、答えが返ってきたら、たぶん、俺は、その答えに責任を持たないといけないから」
弓子は、それ以上、何も言わなかった。
外で、夜の風が、枇杷の葉を鳴らしていた。
出会ったのは、二〇〇六年の春だ。当時、弓子は三十歳で、中堅のアニメ制作会社の、駆け出しのプロデューサーだった。
持ち込みの企画書が、机の上に積まれていた。その中の一本に、手書きの原稿があった。
ワープロで打っていないのだ。四百字詰め原稿用紙に、鉛筆で。
弓子は、その時点で捨てようかと思った。
思ったが、一枚目の三行目に、こう書いてあった。
――ある日、朝が来なくなる。
弓子はそれを、その日の終電の中で、最後まで読んだ。
新宿から自宅の最寄りまで、四十分。読み終わったのは、駅を三つ乗り過ごしたあとだった。
翌日、弓子は電話をかけた。
出たのは、ぼそぼそした男の声だった。
「はい」
「雨宮千景さん?」
「そうです」
「東雲と申します。企画書、読みました」
「……あ」
「これ、アニメにしませんか」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
そして、こう聞かれた。
「あの、それって、お金、かかりますよね」
弓子は、その一言で、この男を好きになった。
雨宮千景は当時二十二歳で、大学を中退して、深夜のコンビニでバイトをしながら、小説と脚本のようなものを書いていた。実家は静岡の漁師町で、父親とは絶縁状態だった。
『ヨルノハテ』の企画が通るまでに、一年半かかった。
放送が始まったのは、二〇〇八年の一月である。
最初の三話は、まったく話題にならなかった。
四話で、少しだけ動いた。
七話で、ネットが騒ぎ始めた。
十話を過ぎるころには、放送日の深夜、実況の書き込みが追いきれない量になっていた。
弓子は、その全部を、追いかけていた。
最終回の入稿は、放送の四日前だった。
弓子は、その最終回のコンテを見て、雨宮に一度だけ、確認した。
「これ、朝日、出さないの?」
「出さない」
「なんで」
雨宮は、机に向かったまま答えた。
「出したら、嘘になるから」
「嘘?」
「観てる人の中には、たぶん、明日、朝が来ない人がいるんですよ」
雨宮は、鉛筆を置いた。
「俺が朝日を出したら、その人は『ああ、自分のところには出ないな』って思う。だから、出さない。空が白むところまでで、止める。白むだけなら、嘘じゃない」
弓子は、そのとき、この男は本物だと思った。
思って、承認した。
――その判断を、弓子は、十一年間、一日も忘れたことがない。
二〇〇八年三月二十一日、最終回、放送。
三月二十二日の朝、群馬県で、十四歳の女子中学生が、駅前で保護された。
四月に入って、記事が出た。
弓子は、その記事を最初に読んだとき、鼻で笑った。
こんなのは、いつものやつだ。何かあるたびにアニメのせいにされる。三年に一度は起きる。放っておけば消える。
消えなかった。
スポンサーが一社降りた。次の企画が二本、流れた。
そして、記者会見が組まれた。
弓子は、会見の前の日、雨宮に言った。
「謝らなくていいからね」
「はい」
「あなたは何もしてない。作品は作品でしょ。あの子がなんで家を出たのか、私たちは知らないんだから」
「はい」
「わかった?」
「わかりました」
雨宮は、翌日、謝った。
弓子は、会見場の後ろで、それを見ていた。
殴りたかった。
殴りたかったが、その夜、雨宮の部屋に行ったら、彼は畳の上に大の字になって、天井を見ていた。
「東雲さん」
「なに」
「俺、あの子に、会いたいです」
「会って、どうすんの」
「わかんないです」
雨宮は、天井を見たまま言った。
「でも、あの子は、たぶん、俺の話を最後まで観たんですよね。最終回を、最後まで観て、それで、外に出たんですよね」
「……そうかもね」
「じゃあ、あの子は、何を思って歩いたんだろう」
弓子は、答えられなかった。
「俺、それだけ、知りたいんです」
三日後、雨宮は姿を消した。
携帯も置いていった。部屋には、鍵がかかっていなかった。
三か月、行方がわからなかった。
見つけたのは、弓子だ。七月の頭、静岡の実家の近くの、廃業した旅館にいた。
雨宮は、痩せていた。
弓子が入っていくと、彼は、驚きもせずに、こう言った。
「東雲さん。俺、もう、子どもの話は書きません」
弓子は、その場では何も言わなかった。
東京に連れて帰った。
連れて帰って、翌年、弓子は会社を辞めて、雨宮と二人で、小さな制作会社を作った。
スタジオ・アカツキ。
社名は、雨宮がつけた。
そして、三鷹の坂の上に、潰れた製菓会社の社宅を、格安で借り上げた。
弓子が「なんでこんな家を」と聞くと、雨宮は言った。
「若い連中が、金の心配をしないで済む場所が、ひとつくらいあってもいいでしょう」
「あなた、お金ないでしょ」
「ないです。でも、『ヨルノハテ』の権利料が、少しだけ入るんで」
弓子は、その言葉を聞いて、しばらく黙った。
この人は、あの作品で得たものを、全部、この家に注ぐつもりなのだ。
あの作品が誰かを傷つけたと思っているから。
だから、その作品が生んだ金で、誰かを傷つけないための家を建てるつもりなのだ。
馬鹿だ、と思った。
馬鹿だけど、と弓子は思った。
――こういう馬鹿がいないと、この業界は、たぶん、もう、ずっと前に終わってる。
二〇一九年七月、合評会の夜。
全員が寝静まったあと、弓子は台所で一人、ビールの残りを飲んでいた。
雨宮が入ってきた。
「まだ飲んでたんですか」
「悪い?」
「悪くないです」
雨宮は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。
「東雲さん」
「なに」
「あの子、朝倉さん」
弓子は、コップを置いた。
「なによ、いきなり」
「いや」雨宮は、麦茶を一口飲んだ。「うち、来る理由、あったのかな」
「どういう意味」
「あの子、たぶん、もっといいとこ、受かってたと思うんですよ」
弓子は、雨宮の横顔を見た。
この人は、人の顔と名前を覚えるのが下手だ。
でも、人の「引っかかり」だけは、異様に見つける。
それが、この人が物語を書ける理由で、書けなくなった理由でもある。
「気になるなら、聞けば」
「聞かないです」
「なんで」
雨宮は、コップの底を、テーブルに置いた。
「聞いて、答えが返ってきたら、たぶん、俺は、その答えに責任を持たないといけないから」
弓子は、それ以上、何も言わなかった。
外で、夜の風が、枇杷の葉を鳴らしていた。