あかつき荘の灯

間章 二〇〇八年三月二十二日、高崎駅東口

 佐久間武志は、その日、夜勤明けだった。
 高崎駅の駅員である。当時五十二歳。勤続三十年。
 その朝の記憶を、彼は、そのあとの人生で、たぶん三十回くらいしか思い出していない。
 三十回というのは、少ないようで、多い。
 人が、たった一度きり会っただけの他人のことを、三十年で三十回思い出すというのは、そういうことだ。

 午前五時十分。
 東口のシャッターを半分上げて、外に出たときだった。
 階段のいちばん下に、人が座っていた。
 最初は、酔っ払いかと思った。金曜の夜から土曜の朝にかけて、そういう人はよくいる。
 近づいて、佐久間は、足を止めた。
 子どもだった。
 中学生くらいの女の子が、膝を抱えて、しゃがみこんでいた。
 紺のダッフルコートに、赤いマフラー。制服のスカートが見えている。
 ――ああ、と佐久間は思った。
 三十年、駅にいると、こういう子には、何回か会う。
 朝の五時に、駅の階段に座っている中学生。それが何を意味するかを、佐久間は知っていた。
 彼は、その子の前にしゃがまなかった。
 しゃがむと、驚かせる。
 立ったまま、少し離れたところから、声をかけた。
「――お嬢さん」
 その子が、顔を上げた。
 佐久間は、その顔を見て、息を呑んだ。
 泣いていたのではない。
 顔に、表情がなかった。
 寒さで、顔の筋肉が動かなくなっていたのだ。唇が紫色で、頬が白く、まつげに、うっすらと霜がついていた。
 佐久間は、その子の靴を見た。
 通学用の、底の薄いスニーカーだった。
 泥と、溶けかけの霜で、ぐしょぐしょになっていた。
 ――歩いてきたのか。
 佐久間は、瞬時に、いくつかのことを判断した。
 まず、この子は、電車で来ていない。始発はまだ着いていないし、終電はとっくに終わっている。
 次に、この子は、近所の子ではない。近所なら、こんな靴にはならない。
 そして、この子は、たぶん、何時間も歩いている。
 佐久間は、何も聞かなかった。
 どこから来たのか。なぜここにいるのか。家はどこか。名前は誰か。
 全部、聞かなかった。
 三十年の経験から、彼は、ひとつだけ知っていた。
 ――この種類の子に、最初に質問をしてはいけない。
 質問をすれば、この子は、答えを探す。答えを探すあいだに、この子は、自分がどれだけ間違ったことをしたかを、自分で数え始める。
 だから、質問はあとだ。
 佐久間は、いったん詰所に戻った。
 自動販売機の前で、少し迷った。
 温かいものが三種類あった。コーンスープ。お汁粉。ミルクティー。
 彼は、ミルクティーを選んだ。
 理由は、はっきりしていた。
 自分の娘が、その年頃のとき、ミルクティーばかり飲んでいたからだ。
 佐久間は、缶を持って、階段に戻った。
 そして、今度は、その子の前にしゃがんだ。
 缶を差し出した。
「持って。落とさないように、両手で」
 女の子は、両手を出した。
 指が、震えていた。ちゃんと曲がっていなかった。
 缶を受け取って、その子は、しばらく、動かなかった。
 佐久間は、待った。
 十秒くらい経ったころだった。
 その子の顔が、ゆがんだ。
 そして、声を上げて、泣き始めた。
 佐久間は、それを聞きながら、自分の胸が、ぎゅっと縮むのを感じた。
 ――ああ、よかった。
 彼は、そう思った。
 泣けるということは、まだ、感覚が戻るということだ。
 佐久間は、その子の隣に立った。
 背中をさすることも、肩を抱くこともしなかった。
 ただ、立っていた。
 東の空を見ていた。
 空は、白みかけていた。
 朝日は、まだ昇っていなかった。
 その子が泣き止むまで、七分かかった。
 それから、佐久間は、初めて質問をした。
「家の電話番号、言える?」

 その後のことは、事務的だった。
 詰所に入れて、暖房の前に座らせて、毛布を出した。駅の医務室の毛布は、消毒のにおいがした。
 警察が来て、一時間半後に、母親が来た。
 母親は、パジャマの上に上着だけを着ていた。靴は、サンダルだった。
 その人は、詰所に飛び込んできて、娘を見た瞬間に、床に膝をついた。
 そして、娘を抱きしめて、泣きながら、何度も謝った。
 佐久間は、その様子を、詰所の隅で見ていた。
 ――悪い母親ではないな。
 彼は、そう思った。
 これも、三十年の経験だった。悪い母親は、ああゆう入り方をしない。
 警察の人が、母親に、いくつか質問をした。
 母親は、混乱していた。答えが、あちこちに飛んだ。
 そして、こう言った。
「――夜中に、アニメを観てたみたいで。それに影響されたんだと思います」
 佐久間は、その言葉を聞いて、眉をひそめた。
 ちがうだろう、と思った。
 根拠はない。ないが、三十年、駅にいた人間の勘として、それは違うと思った。
 アニメを観た子どもが、氷点下の夜に、十四キロも歩くわけがない。
 人が十四キロ歩くのは、そこにいたくないときだけだ。
 佐久間は、そう思ったが、何も言わなかった。
 駅員が口を出すことではなかった。
 女の子は、母親に抱かれたまま、何も言わなかった。
 缶のミルクティーを、両手で持ったまま、詰所の床を見ていた。
 帰り際、その子は、詰所の出口で、一度だけ振り返った。
 そして、佐久間に向かって、頭を下げた。
 深い、深いお辞儀だった。
 佐久間は、手を上げた。
 それが、その子との、最後だった。

 二週間後、佐久間は、そのニュースを見た。
 「深夜アニメ、中2女子を家出させる」
 彼は、そのニュースを見て、テレビのリモコンを握りしめた。
 ――ちがうだろう。
 彼は、テレビに向かって、そう言った。
 言ってから、自分が誰にも言えないことを、言っていることに気づいた。
 彼は、あの子の名前を知らない。
 知っていても、言えない。
 彼は、ただの駅員で、あの日、缶を一本渡しただけの人間だった。
 テレビの中で、痩せた若い男が、頭を下げていた。
 「申し訳ありませんでした」と、その男は言った。
 佐久間は、テレビを消した。
 消して、しばらく、暗い画面を見ていた。
 ――あんたのせいじゃないよ。
 そう思ったが、それも、誰にも言わなかった。

 二〇二一年、佐久間武志は六十五歳になり、五年前に定年退職していた。
 その年の夏、孫が家に遊びに来た。中学一年生の、女の子だった。
 孫は、タブレットで、アニメを観ていた。
「じいちゃん、これ見て。すごくいいから」
「なんだそれ」
「『とうだいもり』」
 佐久間は、老眼鏡をかけて、孫の隣に座った。
 三十分ほど、観た。
 海辺の町の話だった。灯台が出てきた。
 佐久間は、正直に言えば、途中でうとうとした。
 最後まで観たあと、エンドロールが流れた。
 白い文字が、下から上へ、流れていった。
 その中に、こういう行があった。

  演出 朝倉 灯

 佐久間は、その名前を、眼鏡越しに見た。
 三秒くらい、見た。
 そして、目を離した。
 知らない名前だった。
「じいちゃん、どうだった?」
「うん。よかったよ」
 彼は、そう答えた。
 そして、台所へ立って、麦茶を二つ、注いだ。
 その日のことを、佐久間武志は、その後、一度も思い出さなかった。
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