あかつき荘の灯

第十一話 灯台のある町

 八月の第一週、灯は雨宮千景と二人で、静岡へ行った。
 ロケハンである。
 スタジオ・アカツキが受けている新作は、他社の小説が原作の、海辺の町を舞台にした青春もので、雨宮はそのシリーズ構成と、第一話の絵コンテを担当していた。
 美術設定のための取材に、本来なら制作進行と美術監督が行く。監督が同行することは、あまりない。
「監督、行くって」
 前の日、東雲弓子にそう言われたとき、灯は返事が遅れた。
「……私が、ですか」
「あなたが担当でしょ。あと、あの人、一人で行かせると帰ってこないから」
「帰ってこない」
「前科があるの」東雲はさらりと言った。「一回、三か月」
 東京駅を七時二十分の新幹線で出て、静岡で在来線に乗り換えて、さらにバスに乗った。
 着いたのは、人口三千人ほどの漁師町だった。
 防波堤があって、その内側に漁船が並んでいて、家々は斜面にへばりつくように建っている。道は狭く、坂ばかりで、どの路地からも海が見えた。
「暑いですね」
「暑いね」
 雨宮は、麦わら帽子をかぶっていた。どこで買ったのか、まったく似合っていなかった。
 二人は、朝から夕方まで歩いた。
 灯は、指示されたとおりに写真を撮った。防波堤の質感。漁具のロープの巻き方。錆びた自販機。庇の影の落ち方。バス停の時刻表の書体。
 雨宮は、ほとんど写真を撮らなかった。
 代わりに、彼は、立ち止まる。
 一分。二分。時には五分。
 同じ場所に立って、動かない。
「監督」
「うん」
「何を見てるんですか」
 雨宮は、灯のほうを見ずに答えた。
「音、聞いてる」
「音」
「絵は、写真で足りるんだよ。あとで見返せるから。でも、音と、においと、風の速さは、写真に写らない」
 彼は、坂の上を指した。
「ほら。ここ、上から風が降りてくるだろ。海からじゃなくて、山から」
 灯は、目を閉じた。
 たしかに、風は、背中側から吹いていた。
「海の町だから海風が吹く、って思って作ると、嘘くさくなる」雨宮は言った。「町ってのは、たいてい、こっちの予想を裏切る」
 灯は、写真を撮る手を止めて、しばらく、風の音を聞いた。
 波の音がして、その上に、蝉の声がかぶさっていた。海と山が、同じ場所で鳴っていた。
「監督は」
「うん」
「ここ、来たことがあるんですか」
 雨宮は、答えなかった。
 答えないまま、坂を上り始めた。

 夕方の五時過ぎ、二人は町の東の外れにある岬に着いた。
 小さな灯台があった。
 白い、四角い、あまり格好のよくない灯台だった。高さは十メートルほどしかない。柵の一部が錆びて、赤茶色になっている。
「これが、見せたかったの?」灯は聞いた。
「いや。仕事とは関係ない」
 雨宮は、麦わら帽子を脱いで、柵にもたれた。
「ここ、俺の町」
 灯は、彼の横顔を見た。
「静岡の、漁師町の出身だっていうのは」
「知ってた?」
「東雲さんに、聞きました」
「あの人はほんとに、口が軽い」
 雨宮は、笑った。
 それから、灯台を見上げた。
「親父が、漁師でね。俺が中学のとき、船を手放した。時代なんだよ。この町、俺が生まれたときは、漁船が四十隻あった。今は、七隻」
「そうですか」
「で、船を手放したあと、親父、しばらく仕事がなくて。何やってたと思う?」
「わかりません」
「これ」
 雨宮は、灯台を指した。
「灯台守、じゃないよ。今は無人だから。掃除だよ、掃除。町から委託されて、月に何回か、ここの掃除と、周りの草刈りをやってた。日当が三千円くらい」
「……」
「俺、それが、恥ずかしかったんだ」
 雨宮は、あっさりと言った。
「中学生ってさ、いちばん恥ずかしがる時期だろ。同級生に見られたくなくて、親父が灯台に行く日は、俺、絶対にこっち側に来なかった」
 波の音がした。
 風が、下から吹き上げてきた。
「で、十七のとき、一回だけ、ついてきたんだよ。理由は忘れた。喧嘩したあとだったかもしれない」
「はい」
「そのとき、親父が言ったんだ」
 雨宮は、灯台の白い壁に手を置いた。
「『こいつはな、誰も見てなくても、点くんだよ』って」
 灯は、息を止めた。
「『船が一隻も通らなくても、点く。むしろ、通らない夜のほうが多い。でも、一年に一回か二回、たまたま迷った船が沖にいる。そいつのためだけに、こいつは三百六十五日、点いてる』」
 雨宮は、手を下ろした。
「――俺、それ聞いて、家帰って、初めて話を書いたんだよ」
 灯は、何も言えなかった。
 言えないまま、視界がぼやけた。
 まずい、と思った。ここで泣いたら、絶対に、説明できない。
「朝倉さん?」
「すみません」
 灯は、慌てて目をこすった。
「すみません、砂が」
「そう」
 雨宮は、それ以上聞かなかった。
 海を見ていた。
 空は、まだ明るかった。日没まで、あと三十分ほどある。
「監督」
「うん」
「今も、点いてるんですか。この灯台」
「点いてる。……たぶんね」
「たぶん、って」
「俺、もう十年以上、夜に来てないから」
 雨宮は、少し笑った。
 その笑い方は、書斎で見たものより、ずっと柔らかかった。
「東京に出てから、一度も、夜のここを見てない。昼にしか来ない。だから、今も点いてるかどうかは、実は知らないんだ」
 灯は、彼の横顔を見た。
 この人は、と思った。
 この人は、自分が誰かの灯台になったことを、知らない。
 知らないまま、自分が誰かの船を沈めたと思って、十一年生きている。
 今なら言える、と灯は思った。
 二人しかいない。夕方の岬。波の音。この人は、今日いちばん、心をひらいている。
 言えばいい。
「――監督」
「うん」
 灯は、口を開けた。
 喉の奥まで、言葉が来ていた。

  私です。
  十一年前、あなたの最終回を観て、家を出た子は、私です。
  私は、あなたにだめにされてなんていません。あなたに、助けられたんです。

 言えば、たぶん、この人は、泣くだろう。
 そして、この人は、たぶん、その瞬間から、私のことを「あの子」として見る。
 朝倉灯としてではなく、十一年間探し続けた「あの子」として。
 あの子に会えたなら、この人の十一年は、終わる。
 終わって、それで――。
 灯の頭に、ひとつの光景が浮かんだ。
 この人が、私に、深く頭を下げる光景。
 「申し訳ありませんでした」と、あの会見のときと同じ声で言う光景。
 灯は、それが、耐えられなかった。
 私は、謝られたいわけじゃない。
 私は、あなたに、ありがとうと言いたいだけなのに。
 でも、あなたに名乗った瞬間、私は「謝られる側」になる。二度と、そこから戻れない。
「――監督」
「うん、聞いてる」
「その灯台、」
 灯は、震える息を、ゆっくり吐いた。
「いつか、夜に、見に来ましょう」
 雨宮が、灯のほうを向いた。
 少し、驚いた顔をしていた。
 それから、彼は、頷いた。
「うん」
「約束、してください」
「いいよ」
 彼は、あっさり言った。
「じゃあ、いつか、夜に来よう」
 灯は、頷いた。
 頷いて、海を見た。
 その日、灯台は、点かなかった。
 二人は日没の三十分前に岬を降りて、バスに乗って、東京に帰ったからだ。
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