あかつき荘の灯
第十二話 断る、ということ
久瀬冬吾が朝倉灯に告白したのは、九月の初めの、雨の日だった。
場所は、スタジオの入っているビルの、非常階段の踊り場である。
ロマンチックでもなんでもない。灯が煙草を吸わないことも、冬吾はよく知っていた。それでも、そこしか、二人きりになれる場所がなかった。
「朝倉」
「はい」
「五分、いいか」
灯は、書類の束を胸に抱えたまま、頷いた。
外は、本降りだった。非常階段の鉄の手すりに、雨が跳ねている。
冬吾は、単刀直入に言った。回りくどいことを考えるのが、苦手だった。
「俺は、あんたのことが好きだ」
灯の目が、少し大きくなった。
「付き合ってほしい、って言うつもりで来た。でも、たぶん断られると思ってる。だから、断ったあとも、普通に仕事してほしい。それだけ先に言っとく」
「……久瀬さん」
「言うことは、以上」
冬吾は、そこで黙った。
雨の音が、やけに大きかった。
灯は、しばらく、書類を抱えたまま立っていた。
それから、言った。
「ごめんなさい」
「うん」
「本当に、ごめんなさい」
「謝らなくていい」
冬吾は、手すりに寄りかかった。
「理由、聞いていいか」
灯は、下を向いた。
俯いた頭のつむじが見えて、冬吾は、なぜかそこで、絵のことを考えた。
この角度は、描いたことがない。
「――好きな人がいます」
「知ってる」
灯が、顔を上げた。
その顔を見て、冬吾は思った。
ああ、この子、自分がわかりやすいって、思ってなかったんだ。
「え」
「知ってるよ」冬吾は言った。「あんた、五分に一回、あの人のほうを見る」
灯の顔が、みるみる赤くなった。
「……見て、ますか」
「見てる。俺は数えた」
「やめてください」
「悪い」
冬吾は、少し笑った。
笑って、それから、真顔に戻った。
「朝倉。ひとつだけ聞かせてくれ」
「はい」
「あんた、それ、いつからだ」
灯は、答えなかった。
「今年の四月に、ここに来て、それから好きになったのか。それとも」
冬吾は、言葉を選んだ。
「それとも、好きだったから、ここに来たのか」
雨が、階段の鉄板を叩いていた。
灯は、長いあいだ、黙っていた。
冬吾は、待った。
急かさなかった。この六年、あかつき荘で覚えた唯一のことが、それだった。
待てば、人は喋る。
「――後です」
灯は、そう言った。
「後?」
「私は、あの人が、私を助けてくれたから、ここに来ました」
冬吾は、灯の顔を見た。
「助けた?」
「はい」
「監督が、あんたを?」
「はい」
「いつ」
「十一年前です」
冬吾の頭の中で、いくつかのものが、音を立てて繋がった。
十一年前。二〇〇八年。
あの作品。あの騒ぎ。あの会見。
あの、名前も出なかった、群馬の女子中学生。
冬吾は、口を開けて、閉じた。
もう一度、開けた。
「――朝倉」
「言わないでください」
灯は、言った。
その声は、震えていなかった。
むしろ、恐ろしいほど、静かだった。
「誰にも、言わないでください。監督にも、東雲さんにも」
「なんでだ」
「言ったら、私、ここにいられなくなります」
「そんなわけないだろ」冬吾は、思わず声を荒らげた。「逆だろ。あの人がどんだけ――」
「そうです」
灯が、遮った。
「あの人が、どれだけ、私を探してるか、知ってます」
冬吾は、言葉を失った。
「探して、見つからなくて、それで、あの人は書けなくなった。それも、知ってます」
「じゃあ、なんで」
「私が名乗り出たら、あの人は、私に謝ります」
灯は、まっすぐに冬吾を見た。
その目は、濡れていなかった。
それが、かえって痛かった。
「一生、謝ります。会うたびに謝ります。私が『違う』って言っても、あの人は謝るのをやめません。だって、あの人は、そういう人だから」
「……」
「私、あの人に、謝られたくないんです」
灯は、書類を抱え直した。
「私は、ありがとうを言いたくて、ここに来ました。でも、ありがとうを言った瞬間に、ごめんなさいが返ってくるってわかってるから、言えないんです」
冬吾は、天井を見上げた。
非常階段の天井は、コンクリートの打ちっぱなしで、ところどころ、雨漏りの跡があった。
――かなわないな、と思った。
俺の恋は、いま、この子の十一年に、負けた。
勝負にすらならなかった。
「久瀬さん」
「なんだ」
「ごめんなさい」
「それはもういい」
冬吾は、手すりから背中を離した。
「けど、朝倉」
「はい」
「これだけは言わせろ」
冬吾は、灯を見た。
「あんたのやってることは、優しさじゃない」
灯の肩が、わずかに動いた。
「あんたは、あの人を守ってるつもりでいる。でも、実際にやってるのは、あの人から答えを取り上げることだ」
「……」
「あの人は、十一年、答えを探してる。あんたは、その答えを持ってて、渡さないことにした。それは、優しさじゃなくて、あんたの都合だよ」
灯の目が、初めて、揺れた。
「久瀬さん」
「わかってて言ってる」冬吾は言った。「振られた男が言うことじゃないのも、わかってる。だから、一回だけだ。二度と言わない」
彼は、非常階段のドアに手をかけた。
「言わないし、誰にも言わない。それは約束する」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
冬吾は、ドアを開けた。
開けてから、振り返らずに言った。
「――あんたが、いつか自分で言う日まで、俺は黙ってる。だから、頼むから、いつか、自分で言え」
ドアが閉まった。
灯は、非常階段の踊り場に、一人で残された。
雨は、まだ降っていた。
灯は、書類を抱えたまま、しゃがみこんだ。
しゃがんで、そこで初めて、泣いた。
場所は、スタジオの入っているビルの、非常階段の踊り場である。
ロマンチックでもなんでもない。灯が煙草を吸わないことも、冬吾はよく知っていた。それでも、そこしか、二人きりになれる場所がなかった。
「朝倉」
「はい」
「五分、いいか」
灯は、書類の束を胸に抱えたまま、頷いた。
外は、本降りだった。非常階段の鉄の手すりに、雨が跳ねている。
冬吾は、単刀直入に言った。回りくどいことを考えるのが、苦手だった。
「俺は、あんたのことが好きだ」
灯の目が、少し大きくなった。
「付き合ってほしい、って言うつもりで来た。でも、たぶん断られると思ってる。だから、断ったあとも、普通に仕事してほしい。それだけ先に言っとく」
「……久瀬さん」
「言うことは、以上」
冬吾は、そこで黙った。
雨の音が、やけに大きかった。
灯は、しばらく、書類を抱えたまま立っていた。
それから、言った。
「ごめんなさい」
「うん」
「本当に、ごめんなさい」
「謝らなくていい」
冬吾は、手すりに寄りかかった。
「理由、聞いていいか」
灯は、下を向いた。
俯いた頭のつむじが見えて、冬吾は、なぜかそこで、絵のことを考えた。
この角度は、描いたことがない。
「――好きな人がいます」
「知ってる」
灯が、顔を上げた。
その顔を見て、冬吾は思った。
ああ、この子、自分がわかりやすいって、思ってなかったんだ。
「え」
「知ってるよ」冬吾は言った。「あんた、五分に一回、あの人のほうを見る」
灯の顔が、みるみる赤くなった。
「……見て、ますか」
「見てる。俺は数えた」
「やめてください」
「悪い」
冬吾は、少し笑った。
笑って、それから、真顔に戻った。
「朝倉。ひとつだけ聞かせてくれ」
「はい」
「あんた、それ、いつからだ」
灯は、答えなかった。
「今年の四月に、ここに来て、それから好きになったのか。それとも」
冬吾は、言葉を選んだ。
「それとも、好きだったから、ここに来たのか」
雨が、階段の鉄板を叩いていた。
灯は、長いあいだ、黙っていた。
冬吾は、待った。
急かさなかった。この六年、あかつき荘で覚えた唯一のことが、それだった。
待てば、人は喋る。
「――後です」
灯は、そう言った。
「後?」
「私は、あの人が、私を助けてくれたから、ここに来ました」
冬吾は、灯の顔を見た。
「助けた?」
「はい」
「監督が、あんたを?」
「はい」
「いつ」
「十一年前です」
冬吾の頭の中で、いくつかのものが、音を立てて繋がった。
十一年前。二〇〇八年。
あの作品。あの騒ぎ。あの会見。
あの、名前も出なかった、群馬の女子中学生。
冬吾は、口を開けて、閉じた。
もう一度、開けた。
「――朝倉」
「言わないでください」
灯は、言った。
その声は、震えていなかった。
むしろ、恐ろしいほど、静かだった。
「誰にも、言わないでください。監督にも、東雲さんにも」
「なんでだ」
「言ったら、私、ここにいられなくなります」
「そんなわけないだろ」冬吾は、思わず声を荒らげた。「逆だろ。あの人がどんだけ――」
「そうです」
灯が、遮った。
「あの人が、どれだけ、私を探してるか、知ってます」
冬吾は、言葉を失った。
「探して、見つからなくて、それで、あの人は書けなくなった。それも、知ってます」
「じゃあ、なんで」
「私が名乗り出たら、あの人は、私に謝ります」
灯は、まっすぐに冬吾を見た。
その目は、濡れていなかった。
それが、かえって痛かった。
「一生、謝ります。会うたびに謝ります。私が『違う』って言っても、あの人は謝るのをやめません。だって、あの人は、そういう人だから」
「……」
「私、あの人に、謝られたくないんです」
灯は、書類を抱え直した。
「私は、ありがとうを言いたくて、ここに来ました。でも、ありがとうを言った瞬間に、ごめんなさいが返ってくるってわかってるから、言えないんです」
冬吾は、天井を見上げた。
非常階段の天井は、コンクリートの打ちっぱなしで、ところどころ、雨漏りの跡があった。
――かなわないな、と思った。
俺の恋は、いま、この子の十一年に、負けた。
勝負にすらならなかった。
「久瀬さん」
「なんだ」
「ごめんなさい」
「それはもういい」
冬吾は、手すりから背中を離した。
「けど、朝倉」
「はい」
「これだけは言わせろ」
冬吾は、灯を見た。
「あんたのやってることは、優しさじゃない」
灯の肩が、わずかに動いた。
「あんたは、あの人を守ってるつもりでいる。でも、実際にやってるのは、あの人から答えを取り上げることだ」
「……」
「あの人は、十一年、答えを探してる。あんたは、その答えを持ってて、渡さないことにした。それは、優しさじゃなくて、あんたの都合だよ」
灯の目が、初めて、揺れた。
「久瀬さん」
「わかってて言ってる」冬吾は言った。「振られた男が言うことじゃないのも、わかってる。だから、一回だけだ。二度と言わない」
彼は、非常階段のドアに手をかけた。
「言わないし、誰にも言わない。それは約束する」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
冬吾は、ドアを開けた。
開けてから、振り返らずに言った。
「――あんたが、いつか自分で言う日まで、俺は黙ってる。だから、頼むから、いつか、自分で言え」
ドアが閉まった。
灯は、非常階段の踊り場に、一人で残された。
雨は、まだ降っていた。
灯は、書類を抱えたまま、しゃがみこんだ。
しゃがんで、そこで初めて、泣いた。